霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第一章 緒論

インフォメーション
題名:第1章 緒論 著者:出口王仁三郎
ページ:3 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2016-12-10 05:06:08 OBC :B121801c04
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]神霊界 > 大正9年8月1日号(第122号) > 皇道大意
 今回亀岡大道場に(おい)て、皇道(こうだう)大講演会を開く事になりました。(しか)皇道(こうだう)大本(おほもと)敬神(けいしん)尊皇(そんのう)報国の大義を唱導(せうだう)する一大教団なるに(かか)はらず、所も有らうに、逆賊無道(むどう)主殺(しゆごろ)しの、不倫不徳の明智光秀の城址を選ぶとは、物好きにも程がある。且又皇道(こうだう)の主義に対しても、何んだか釣合ひの取れない()り方でないか、相成るべくは至聖至浄の地の高天原(たかあまはら)と称する綾部(あやべ)の霊地に(おい)て、開始されては如何(いかん)と、知人より種々(いろいろ)忠告を受けた様な次第であります。講習の諸氏も(また)是と御同感の方々(かたがた)がお有りであらうと思はれます。
 それは()に角として、私は(ついで)ながら明智光秀に(つい)て、一言述べて見たいと思ひます。光秀が日向守(ひうがのかみ)と称し姓を惟任(これとう)と改められたのは、織田信長公に仕へてから後のことであります。光秀の祖先を調べて見ると、清和源氏の末裔なる、六孫王(ろくそんわう)経基(つねもと)の子多田満仲(ただみつなか)の嫡子、源の頼光七世の孫であつて、伊賀守光基(いがのかみみつもと)()ふ人があつた。其子の光衡(みつひら)が文治年中、源頼朝より美濃(みの)の地を賜ひ、土岐美濃守(どきみののかみ)と称した。その光衡が五世の孫、伯者守(はうきのかみ)頼清(よりきよ)()の二子に頼兼(よりかね)なる人があつて、その頼兼の七世の孫こそ、十兵衛(じうべゑ)尉光継(じやうみつつぐ)で光秀の祖父に相当り、光秀は光綱の一子であります。この光綱と()ふのは美濃(みの)可児郡(かにぐん)明智の城主で、明智下野守(あけちしもつけのかみ)(たた)へたが、早世(さうせい)したので光秀が(なほ)幼弱なために、光綱の弟兵庫助光康(ひやうごのすけみつやす)を準養子として、明智を相続せしめたのであります。光康は後に宗宿入道(そうしゆくにふだう)と称した人で、有名な明智左馬之助光春は此人の子であります。(ゆへ)に光秀は()の叔父なる光康に養はれて成人したもので、光康は実父にも優る恩人である。光秀の母徳明院(とくめいゐん)は光綱の死後、間もなく此世(このよ)を去り(濃州明智蓮明寺(れんめいじ)に葬る)遺孤(ゐこ)として可憐なる光秀は、用意周到なる光康の訓養に()り、幼にして聡明一を聞きて十を知るの明があつたといふ。
 光秀は其叔父の光康と共に、明智の城中に(おい)て死せむとするを、光康が()つての乞ひに涙を呑んで、光康の息子光春及び甥の光忠(みつただ)(らつ)して諸国を遊歴し、千辛万苦の末朝倉氏に仕へ、後織田氏に聘せられて、幾多の戦場に軍功を積現し、左右に策を献じ、信長をして天下(てんか)に覇たらしめ、自分は又江州丹波(たんば)両国五十四万石の大諸侯に列し、君臣の間(うるし)(ごと)く密にして、一にも明智二にも光秀と寵遇厚く、信長の甥の信澄(のぶずみ)に光秀の四女を嬰らしめたる程であつた。一朝にして武田勝頼(たげだかつより)(ほろ)ぼしてより、信長の心意行動共に稍驕慢の度を加へ、僅少微細のことゝ(いへど)も立腹して功臣光秀を打擲(ちやうちやく)し、家康の饗応にも再び(これ)を罵倒し侮辱を与へ、(つい)にはその近習森蘭丸をして、鉄扇にて()(おもて)を破らしめ、近江丹波(たんば)五十四万石の領地を召し上げて、(もつ)て中国に放たんとするに至つた。忍びに忍び(こら)へに耐へたる勘忍袋の緒が断れて、光秀にとりては、不本意極まる、本能寺の変起るの()むを得ざるに立到らしめたるも、此間深き理由のあらねばならぬ事であらうと思はれる。後世(こぞ)つて光秀を逆賊と呼び、大悪無道(むどう)と罵る、(はた)して()とすべきものであらうか。
 長岡兵部大輔藤孝(ながおかひやうぶたいふふぢたか)は光秀女婿(ぢよせい)の父である。『叢蘭欲[#レ]茂秋風破[#レ]之、王者欲[#レ]明讒臣闇[#レ]之』と痛歎し、光秀もまた、
  心なき人は何とも()はゝ()へへ
    身をも惜まじ名をも惜まじ
と、慨したのであつた。光秀が大義名分を()(あきら)めながら、敢て主君を(しい)するの暴挙に出づ。()むを得ざる事ありとするも、実に惜むベぎ事である。然し(なが)ら元亀天正の(かう)は恐れ多くも、至尊万乗の御身を(もつ)て、武門の徒に圧せられ給ひ、天下(てんか)は強者の権に属し、所謂(いはゆる)強食弱肉の世の中の実情であつて、九州に島津、四国に長曽我部(ちやうそがべ)、毛利は山陰山陽両道に蟠居し、北陸に上杉あり、信越に武田あり、奥州に伊達(だて)あり、東国には北条等の豪雄があつて、各自(めいめい)()の領地を固め、織田徳川相合し相和して、近畿並に中国を圧す。群雄割拠して権謀術数至らざるなく陶晴賢(すゑのはるかた)は其主なる大内氏を(ほろ)ぼし、上杉景勝は其骨肉を殺し、斎藤竜興(さいとうたつおき)は父の義竜(よしたつ)を討ち、其他(そのた)(これ)に類する非行逆行数ふるに遑なき時代に際し、独り光秀の此挙あるを難ずるの大にして()(やか)ましきは、五十四万石の大名が、右大臣(おみ)三公の職を有する主人を(しい)したりと()ふ事と、戦場が王城の地にして其軍容(ぐんよう)花々しく、(もつ)て人口に会炙することの(すみやか)なると、加ふるに世は徳川の天下(てんか)に移り、世襲制度を変ぜしめたる上は、光秀を其侭(そのまま)に付して置く事は、政策上(もつと)も不利益であつたことゝ第二第三の光秀出現せむには、徳川の天下(てんか)は根底より転覆する次第であるから、偏義なる儒者が光秀を攻撃したのが、今日(こんにち)光秀に対して批難の声が特に甚しいのではないかとも思はるゝのであります。
 承久の昔、後鳥羽院より関東の軍に向つて、院宣を(くだ)し玉ひし当時に(おい)て、関東九万の大軍中、この院宣を拝読し得る者は、相模の国の住人本間孫四郎(ただ)一人より無かつたと()ふ。応仁以降海内(かいだい)麻の(ごと)く乱れ、文教のことは(わずか)僧侶(ぼうず)の輩に()りて、支へられしに過ぎなかつた。(いは)んや元亀天正の戦国時代、将軍義照(よしてる)亡びて、世に武門を主宰すベき人物皆無の時に当り、文学に志し君臣父子(おやこ)の大義名分に通ずるの武士、幾人か在つたであらう。
  神嶋鎮祠雅興催  篇舟棹処上[#二]瑶台[#一]
  蓬瀛休[#二][#レ]外尋去[#一]  万里雲遥浪作[#レ]
 ()れ光秀が雄島に参詣されし時の詩作である。臣下を教ふるに当つては、常に大義を説き、主君が築城の地を問ふに対し、答ふるに地の利にあらずして、()の心にありといふが(ごと)き、至聖至直の光秀にして、本能寺暴挙のありしは、深き深き免るべからざる事情の存せしは勿論(もちろん)であるが、然し(なが)ら主殺しの悪評を世に求むるに至りしは、光秀の為に(かへ)がへすも残念な事であります。我々は(おほい)にその内容を攻究せずして、(みだ)りに世評のみに傾聴すべきものでないと思ふ。独り光秀が行動の是非を沙汰する(ばか)りでなく、又時代観の相違を知るの必要があらうと思ひます。
 又光秀の家庭たるや、実に円満であつて、他家の骨肉相食(あいは)(ごと)き惨状あるなく、一門残らず賢婦勇将にして、加之(しかのみならず)古今の学識に富み、彼の左馬之助光春が雲竜(うんりう)陣羽織(ぢんばおり)を比枝山颪に翻へし、雄姿颯爽として湖水を渡り、愛馬に涙の暇乞を()せし美談のみか、臣斎藤内蔵介(くらのすけ)の妹は、常に光秀に師事して学ぶ所多く、後に徳川家の柱石(ちうせき)(あふ)がれし烈婦春日局(れつぷかすがのつぼね)とは()の婦人なりしが(ごと)き、実に立派な人物ばかりであつた。又光秀の家系は前述の(ごと)く立派な祖先を有し、家庭また(かく)(ごと)(うる)はしく、()つ家系は宗家の控へとして、美濃(みの)全国に君臨し、近江の佐々木、美濃(みの)の土岐とて足利歴々の名家である。古歌に
  曳く人も曳かるゝ人も水泡(うたかた)
    浮世なりけり宇治の川舟
で、時世時節(ときよじせつ)なれば()むを得ざるとは()へ、実に織田家の臣下としては、勿体なき程の名家であつたのであります。明智光秀の波多野秀治を丹波(たんば)に攻めしが(ごと)きは、信長の命に依る所である。波多野兄弟等抗する(あた)はずして、軍に降る。信長許して(これ)安土(あづち)に召す。兄弟()く信長の性格を知つて容易に到らず。(ここ)(おい)て光秀は安土に往復し質を入れて誓うた。兄弟は光秀の心を(りやう)して安土に到るや否や、信長は其遅参(ちさん)(なじ)つて、慈恩寺に(おい)て切腹せしめた。是信長秀治兄弟を欺くのみならず、光秀をも欺いたのである。
 太閤記に()ふ、秀治信長の表裏反覆常なきを怒ると(いへど)も、今更(いまさら)為すべき(やう)なし、敷皮に(なほ)り光秀に向ひ、儼然として曰く、此頃の御懇切は草陰にても忘れ(もう)さず、但飛鳥(ひてう)尽きて良弓蔵(りやうきうをさ)めらるゝと云ヘば、御辺も身の用心をなし玉へ、信長は(つい)に非業の死をなし給ふベし云々。秀治の臣下怒りて光秀の(しち)を殺すも、秀治の此言を聞きては、決して光秀母を殺すと()ふべからず。これ疑ふべからざるの事実である。
 (しか)るに中井積善(なかゐせきぜん)(ごと)きは
『光秀母を()にして(もつ)て功を(むか)ふ、犬テイ(けんてい)も其余りを(くら)はず』とか、又儒者の山形禎(やまがたてい)なども、『光秀凶逆母を殺し(きみ)を弑す、他日竹鎗(ちくさう)(ちう)、天の手を土民(どみん)()りて』云々
と激評せるが(ごと)きは、(ことごと)く見解を誤れるものである。吾人をして当時の有様(ありさま)より評せしめたならば、『信長無残にして、光秀をして其母を殺さしむるの悲境に立たしむ』と言ひたくなる。
 光秀の質を殺すは秀治の臣下にあらず、()た光秀に非ずして、()()れ信長なりと言ひたいのであります。
 田口文之(たぐちふみゆき)、信長を評して曰く、
『行[#三]詭計於[#二]其妻[#一]以斃[#二]其父[#一]右府所[#二]以不[#一レ]終』と、新井白石、信長を評して曰く、
『信長と()(ひと)父子(おやこ)兄弟の倫理絶えたる人なり』と。
 平井中務大輔(ひらゐなかつかさのたいふ)が、孝道の備はらざるを(いさ)めて、死するも(むべ)ならずや。
 其他(そのた)猜疑の下に、林佐渡守、伊賀伊賀守、佐久間右衛門尉の(ごと)き忠良なる臣下の死し、斎藤内蔵介等の(ごと)きも、信長の仕ふベき主にあらざるを見て身を退()き、秀吉の(ごと)きも一日光秀に耳語(じご)して()ふ、
 『主君は(むご)き人なり、我々は苦戦しで大国を攻め取るも、何時(いつ)までも()くてあるべきぞ。やがて讒者(ざんしや)のために一身危からん、()く能く注意せられよ』云々と。
 菅谷秋水、信長光秀両者を評して曰く、
 『信長は三稜角の水晶の(ごと)く、光秀は円々たる瑪瑙(めなう)の玉に似たり』と、名将言行録に光秀を評して、
 『其敵を料り勝を制し、士を養ひ(たみ)を撫す、雄姿大略当時にありて、多く其倫を見ず』云々。
 是も余り過賞の(ことば)ではあるまいと思ふのであります。
 以上(いじやう)の所論は信長対光秀の経緯(いきさつ)(つい)略叙(りやくじよ)せしのみならず、光秀の黙し難き事情のありし事も、幾分か(うかが)ひ知る事が出来(でき)るのであらうと思ふ。信長は光秀の反逆がなくとも、何れ誰かの手に()つて(ほろ)ぼさるベき運命を有つて()つたのであります。(また)光秀が其実母を(しち)とせし(ごと)く論ずるも、光秀の母はその幼時に既に世を去り、遺孤(ゐこ)として叔父の光康に養はれしものなる事は前叙の通であつて秀治に質とせしは叔父の妻で、(すなは)ち光春の母である。(ゆへ)に質を殺すの原因も(また)前陳(ぜんちん)(ごと)く、信長より出でたるものにして、光秀に取りては、()に気の毒千万の寃罪である。()うか史上より光秀殺[#レ]母の点だけは抹殺したいものであります。
  時は今天が下知る五月蝿(さばへ)かな
 世界各国今や暗黒界と変じ、神代(かみよ)の巻に()ける(あま)岩戸(いはと)の隠れの惨状である。吾人大日本人は一日も早く、皇道(こうだう)を振起し、世界二十億の生霊(せいれひ)を救はねばならぬ時機に差(せま)つたのでありますから、世評位に関はつて躊躇して()る場合ではない。吾人に言はしむれば、光秀の城址たる亀岡万寿苑は、実に言霊学(げんれいがく)(かへ)つて適当の地であらうと思ふ。その亀の名を負ひし地点は、実に万世一系の皇室の御由来を諒解し(まつ)り、万代不易(ふゑき)神教(みをしへ)を伝ふるに万寿苑の名また言霊(ことたま)学上何となく気分の悪くない地名である。(また)明智光秀といふ字も、明かに(さと)(ひか)(ひい)づると()ふことになる。講習会諸氏は、皇道(こうだう)大本(おほもと)を明かに智られ、神国(みくに)(ひか)秀妻(ほづま)の国の稜威(みいづ)を、地上に輝かさんとするには実に奇妙であると思ひます。()(ゆへ)に吾人は光秀の城址だからと云つて別に(いや)な心持もしないのであります。
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