(一)
皇国伝来の神法たる、帰神の妙法に就て、少しく説明を試むる考へでありますが、先決問題として神とは如何なるものであるかと謂ふ事を、述べねばなりませぬ。物質的文明にのみ心酔せる現代人は十中の八九まで、神様と申せば、只一言の下に、迷信だとケナシテ了ふ癖があります。宇宙の太霊とか、宇宙の精神とか、不可思議力とか、太極とか、真如とか、宇宙の大本体とか謂ふやうな名称を附けると迷信でなくて、神様と謂へば迷信と思ふ人が、世の中に多いやうであります。併し私は神国に生れ、神国の神に仕へ、神国の大君に仕へ奉り、神国の粟を頂戴して居る以上は、神様の事を神様と申上げても、別に迷信だとは考へませぬ。
光格天皇様の御製にも
神様の国に生れて神様の道がいやなら外国へ行け
と仰せられて在ります以上は、飽く迄も、神様の御道を遵奉いたさねば、日本神国に安住さして頂く資格の無きものと、堅く信ずるので在りまして、敬神、尊皇、愛国の為に、至聖を日本国家に尽くすは日本神民の天賦の職責である事は、論を俟たぬ次第であります。
日本古来の神の称呼には、左の四大別があります。之を具体的に略解すれば、
一、幽の幽神……霊力体
ニ、幽の顕神……世出燃
三、顕の幽神……地成弥凝
四、顕の顕神……足諸地夜出
と四種に区別があります。
(ニ)
『幽の幽神』と申しますのは、無限絶対、無始無終の宇宙の大元霊、大妙体の事でありまして、皇典古事記には、天御中主神と奉称し、並びて高皇産霊、神皇産霊のニ霊を合一し、三神即一神の幽神であります。古典に、独神而隠身也とあります。即ち独一真神、宇宙の大本元であります。易の所謂太極、仏の所謂真如、基督の所謂ゴツド又はゼウス、漢人の所謂天帝、或は上帝等は、皆この天之御中主神の事であります。故に此大神は至真、至善、至美、円満具足の神の意義であります。世界一般に通じて神と申すのは、無声無形の幽の幽にます神様をさすのであります。
『幽の顕神』と申し奉るは、天之御中主大神の御精霊体を完備し、茲に『霊系祖神』『体系祖神』ニ神を顕現され、天上の主神と産出給ひし、光華明彩六合に照徹し給ふ御皇祖天照大御神、並に素盞嗚神様の御事でありまして、天上の主権は、皇祖天照大御神様に帰し、地上の主権は皇祖素盞嗚神に帰したのであります。茲に初めて神界成就の端緒が開けたのであります。故に吾人は万世一系、天壌無窮の我天津日嗣天皇の御祖先たる、天照大御神を第一に尊敬する事を忘れてはなりませぬ。吾人が神人合一の妙境に入り、天地の真象を極めんとして、幽斎を研究するにも、第一番にこの天照大御神の幽許を受けねば、如何に一心不乱に修行致しましても、成功は出来ぬのであります。
『顕の幽神』と申しますのは、大地球成就の為に顕現され、国土を修理固成し、神人安住の基礎を定めて、地上の幽界を守り玉ふ神霊でありまして、国祖国常立尊、豊雲野尊、又は一度現世に其肉体を表現された神様であります。要するに幽の顕神は、天上の霊界を主宰し給ひ、顕の幽神は、地上の幽界を主宰し給ふ神々の事であります。『顕の顕神』は、天先づ定まり地成つて後、天照大御神の御神勅に依り、豊葦原瑞穂国(地球上)の主として、天降り給ひし、皇孫邇々岐尊様を初め、歴代の日本国に主師親の三徳を具有して、君臨あらせらるる現人神に坐しますので、畏多くも、我天皇陛下は、天照大御神の御子孫で、顕の顕神に坐ますのであります。故に斯の日本国の天皇様に刃向ふ所の国は、滅亡すべき神代の神誓神約があるのであります。又斯る尊き現人神様たる天皇様に、微塵程でも不敬不忠の精神を有つて居つたならば、皇祖の大神様は、大変な懲罰を下し玉ふは当然であります。故に至厳至重なる神法、幽斎の修行を希望するならば、第一に天照大御神の御幽許を受けねばならぬと同時に、其人が無二の敬神家、無二の尊皇家、無二の愛国者でなければ、絶対に資格がないと云ふ事を承知して戴きたいのであります。
扨て天上の神界にては、天照大御神様を主神と仰ぎて、八百万の天津神が政事を輔佐奉仕され、又地上の神界では、国祖国常立尊を主神と仰ぎて、八百万の国津神が奉仕されるが如く、顕界にても皇孫尊様なる、我天津日嗣天皇に仕へ奉る所の文武の百官が、顕の顕神として、国家の為に活動して居られます事を、承知致さねばならぬのであります。職原抄にも、四部官の制定が記されて、長官をカミ、次官をスケ、判官をジヨウ、主典をサカンと読ましてあります如く、皇国の制度では長官を総てカミと唱へられたのであります。故に上は内閣総理大臣より、各省の大臣及び各局長、各府県知事、裁判所長、検事局長、郡市長、警察署長、郵便局長又は町村長に至るまで、残らず皇国にては、カミと称するのであります、明治維新迄は、国守をカミと唱へました。総て是等のカミは顕の顕神様の部下にあつて、夫れ夫れの守護をされる神様であります。是にて皇国のカミの区別並に御職掌が、大略了解された事と思ひます。
(三)
幽斎の研究、並に修行は、至貴至厳なる神事でありますから、神界にては、神界御制定の御規律を遵奉し、顕界にては、天皇陛下の臣民たる義務を尽し、現界の御規則を堅く守る人士でなくては、神界の御聴許が下らぬのでありますから、世にありふれたる降神術や、太霊道や、霊子術や、静坐法や、催眠術を研究するような、格合には行かぬのであります。斯の神人感合の妙境に入らむとする幽斎の修行は、幽顕両界のカミの御神慮に叶ひ奉る、至正至直の身魂でなければ、決して誠の神に感合する事は出来ませぬ。併し幽界にても、又現界にても、随分いかがはしい神様はありますから、各自の審判が最も肝要であります。
(四)
併し乍ら現代の人間は、体主霊従の物質万能主義に眩惑した結果、何人と雖も、多少身魂に汚濁を招いて居つて、至清至純の日本魂なるものが欠損して居りますから、至清至浄、至尊至貴の神霊に感合し奉り、国民天賦の天職を竭さんとして、帰神の修行を為すに当り、先づ第一に、各自の神魂と身体とを浄めねばなりませぬ。そこで帰神修行の準備として、鎮魂の神法に由り、身魂の大祓を執行したさねば、畏くも皇祖天照大御神の御聴許を得る事が出来ぬのであります。
開祖の神諭に『昔から神はモノを言はなんだぞよ。世の変り目であるから、神が懸りて世界の人民に何彼の事を知らして、改心をさせねばならぬから、神が懸りて、モノを言ふ時節が参りたぞよ云々』と誌されてありますが、御神諭の通り、昔から神様が、人民にうつられた事はありませぬ。皇典古事記神代の巻に、天之岩戸の段に於て、天之宇受売命の神懸りや、仲哀天皇の熊襲征伐の御陣中に於て、天照大御神様が、息長帯姫命に帰神りされた事や、其他にニ三の実例が、古書に散見されますけれ共、何れも皆国家の一大事に際して斗り、帰神が行はれたのであります。我々臣民に、大神様の御うつり遊ばした事はありませぬが、今回は二度目の天之岩戸開きと云ふやうな、世界の大事変でありますから、因縁の身魂なる、出口開祖に帰神になつた事と拝察されます。又開祖の御神諭に『稲荷(狐の事を指し給ふ。実の稲荷は保食大神也)は、誰にでも憑るが、真の金神は禰宜や巫子にはかからんぞよ。云々』とあります。併し今日世界の有様は、天神地祇、八百万の神様の、神権御発動の必要時でありますから、特に清らかな身魂を、神界から御使用遊ばさねばならぬので、畏くも至誠至忠の百姓に、日本魂を奮起させん為、神界より神秘の門を開かれたのでありますから、到底人間の考へる斗りで、帰神の修行は出来ないのであります。