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第七章 吾人の至誠

インフォメーション
題名:第7章 吾人の至誠 著者:出口王仁三郎
ページ:311 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B121801c40
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]『三丹新報』第196号(大正2年11月19日)
 国の根本教義を闡明(せんめい)して、政治・教育・宗教・実業に新らしき生命を与え、整然として活動自在の天界を直に(この)土に築かむ事を熱望するは、本教研鑽上より湧然として勃発し来れる、吾人の至誠に(ほか)ならず。然るに世人は、多く耳を覆うて聴くを欲せず、言を左右に托して、(かえ)って誹謗に出でむと欲す。(ああ)吾人の至誠乏しきが故か、世上の汚濁太(はなはだ)しきに基く乎。
現代の教育は、人生の根本義に向って何等の交渉を有せず。現代の宗教は教祖の糟粕(かす)()めて、帰着の標的を失えり。(むべ)なる哉、国に思想の心柱なきが為に、一切の箏業皆悉く顛倒し、狂乱真に見るに堪えざるものあり。
 世上の汚濁(すで)に斯の如くにして、吾人の熱誠未だ万人の認むる所とならず。危き(かな)噫々(ああ)奈何(いかん)せむ。
 ()かも吾人は本教の予言を深く信じ、(ひじ)を折り眉を()くとも、天意に(こた)え奉らずしては止む(あた)わざるの決意を有す。
 吹けよ寒風、(すさ)めよ魔風、(かれ)等は遂に、温光慈熱の襲来に対して撃退されざる程の権威あるものに非らず。いざや新たに荒魂(あらたま)の神勇を()して益々斯道に尽さむと、(ここ)に教報を発刊し、本教の教義は勿論、斯道に関する哺切の主張を掲げ、以て吾人の公憤を漏らし、国家社会の為に資せんと欲す。
   国家の一大事
 国民が、其国家の一大事に向って誠心誠意に、憂慮する者があれば、共の国は健全に発達し、国の生命が確実に存続せらるれども、国民が国の一大事に対して憂慮せない国家は、必ず早晩廃亡を蒙る者である。これは極めて見易い原因を考えて見ると、第一は、
国家の一大事とは何事ぞ
といふ、大事其ものが、了解されないから来たるものがある。中には是が国家の一大事であろうと認めて、苦慮もし骨も折って居る事が、存外に的外れの心配に成って居るような事も、却々(なかなか)(すくな)くはないのである。国家経済が()うだとか、国家の教育機関が何だとか、やかましく論議せる人々の根本の説が何処(どこ)に在るかを探求して見ると、(すこぶ)る浅薄な者が多くて、国家百年の経綸を論ずる者の如きは、殆ど皆無なるの(うら)みがないでもない。
 国の一大事たる根本要義が確立せないで、ヤレ経済が()うの、教育が何うのと()った所で、仕様がない專ではあるまいか。我本教(ほんきよう)開祖の御筆先に、面白い(ことば)が書いてある。「人生(ひと)の宝と申すは、金銀位ゐ貴い宝はないのであるが、今人に向つて百万円千万円の俸給を遺はさうと云ふたならば、定めて悦ぶであらう。併し、百万円でも千万円でも遣る代りに、其の方の生命を貰いたいと謂つたならば、何うであらうか。百人が百人とも生命(いのち)に代へてまで、其の大金を受取る者はあるまい。さすれば人の宝は、生命程貴重なものはないのである。併しその貴重な生命でさへも、(むか)しの武士は、何か一つの失策の為に、家名を損し士道を汚す点があると見た時は、割腹して、名誉と位置とを保たうとしたではないか云々(うんぬん)」。極めて卑近なたとえではあるが、真理に相違ない。
 今時の人々の好んで要求する所は、百万円千万円ではあるまいか。百万円千万円さえ得たならば、生命が無くなっても宜いと云う考えではあるまいか。国家の経綸云々を、こんな考えで以て論議されては、それこそ大変である。国家をして永遠の生命を得さすベき大経綸を樹てない以上は、国の存在をして大磐石たらしめ、国の常立(じょうりつ)の本義を見る事が出来ない。常磐(ときわ)堅磐(かきわ)(うなが)祝詞(のりと)の語句が、事実の上に現わるるのは、到底現今の人々が思っているような浅薄(あさはか)な考えでは、実現さるるものではない。
 国家をして永遠無窮の生命に導くものは、我本教(ほんさよう)たる神典『古事記』に基く解説を外にしては、決してあるべき筈がないのである。然るに、噫々(ああ)現代の日本国は、如何に顛倒した事の多い有様であろう。
 ()し普通一般の眼識で眺めたら、現代は文明の世、人智発達の世とも見らるるであろう。実に古来未曾有(みぞう)の華やかな世とも()えるであろう。
(しか)しながら、(ひるがえ)って皇道大本教典に示現せる眼を仮りて観たならば、実に戦慄(せんりっ)すべき現象が社会に充実して居る有様である。()し古人の語を用いて見るならば、()の『老子経』の一節に、「太上(たいじやう)下之有(しもこれあ)るを知るのみ、其の次は之を(おそ)れ、其の次は之を(あなど)る」と云う有様があるのではなかろうか。
 国の根本義が斯くして(こわ)れつつ行くことに、何人(なにぴと)も気のつかない有様ではあるまいか。誰か大嘆息せる吾人の真意を了解するであろうか。(ああ)されど、これも神意天意に出ます自然の経路であって、次に来るべき善美なる常磐(ときわ)の松の世界を築くべき素地(もと)を為す者に相違ないので、吾人は(いたず)らに嗟嘆(さたん)はせないけれども、声をからして絶叫せる其声が、(ごう)も耳に達せないのは実にもどかしいのである。
開祖の神訓に曰く、
「まことの神があらはれて、まことばかりを(さと)せども、世界の人民は(おし)(めくら)(つんぼ)ばかり、神はまことに困るぞよ。この世をこの儘にして置けば、世界は、だだぼた、国が亡びて仕舞(しも)ふから、神は明治二十五年から手を借り筆を借りて、世の持ち方を知らすのであるぞよ。この世が此儘(このまま)続くと思ふて居る守護神の慮見(りようけん)が違ふて居るぞよ。大本の教は、この曇りたる世を洗ひ清めて、水晶の世にする仕組(しぐみ)であるぞよ。梅で開いて松で治める神界の仕組であるぞよ。この世は鬼と(をろち)ばかり(ほびこ)りて、誠の神の居る場が無くなりて居るぞよ、云々(うんぬん)
 現代の上下万民の心事を()くして余蘊(ようん)なしである。物質的文明に心酔して居る現今の人々には、一向に受取れないことであろうが、兎も角も健全な生命の永続せぬ有様は、死滅である、廃亡である。現代の百般事業が、生命に赴きつつあるか死滅に赴きつつあるかは、研究すベき重要の大間題ではあるまいか。
 国家の一大事は、即ちこの大問題の解決でなければならぬ。然るに現代の教育家・宗教家・実業家は、この大問題を解決せんとして務めて居るであろうか。教育家は、何処(どこ)に教育の最終の目的がありとして、国の教育に従事して居るのであろうか。
 教育の施政者は、其の根本に於て到達点があるか()うか。上は大学より下は小学に到るまで、一大系統が立つた一貫不易の大生命があるで在ろうか。明治の四十五年間は、欧米の模倣的教育で事が済んだけれども、大教育と云うものは斯様な者ではあるまい。生命を中心とせる教育は、決して現代の教育の如き、骨も無く血も無い形骸のみの教育ではあるまい。
 現代の教育は(まった)く形骸である、血の気のない人形的のカラクリである。
斯様な教育が国家に活生命を与え、健全な鞏固(きようこ)な歩武を指導せる教育とは、決して思われない。若しも国に一人の大教育家があつて、国家教育の真生命は此所(このところ)だと指し示す人があったら、承りたいものである。
 現代の日本には、大教育家が一人もないのであろうか。現代の日本国は、実に一人も大教育家がないと思う。
 乃木大将の殉死に対する解決さえ、現代の教育家にはつく人がないではないか。(むし)ろ教育家にのみ思想家がないのみでなく、現代の日本には、一人の大思想家がない。(ただ)に日本国に大思想家が無いばかりでなく、世界に大思想家が無いという有様である。日本に一人の大思想家が無いという者の、何処(どこ)かの山奥には、一人や二人は天意に(かな)うた人物は有ろうと思う。
 吾人は幸にして、其大思想家に附随して居ることを得るのは、余程神の深き御恩寵に浴しつつあるものと、欣喜に堪えぬ次第である。故に吾人は此の深厚なる神恩に報ゆる為には、骨を粉にし身を砕いても国家の為に尽さねば成らぬ事を、深く覚悟して居るのであるから、微力(なが)らも十数年間、(ほと)んど寝食を忘れん(ばか)りに奔走しつつあるのである。
 早稲田の老伯が一世の大思想家と思って居る様では、日本国も実になさけないではないか。就中(なかんずく)、思想家たるべき宗教家に人物がないというに至っては、実に言語道断である。宗教家ほど宗教に(うと)いものはない。現今(いま)の宗教は、亡国の宗教と()つて好い。
 宗教が健全に国家を生命に導くものとは、()うしても受取れぬのである。
   吾人の至誠
 現今の宗教は、国を亡ぼす外に何等の資格もありそうに無い。立正安国だとか、安心立命だとかを標榜して居る宗派の人々は、如何(いか)なる考えを持って居らるるであろうか。吾人は今日の宗教は、亡国的の外に何の資格もあるまいと思う。
 更に「実業家が思想に乏しい」とは、謂うまでもなく、実業家は元来思想家でないものと、自分から相場をきめて居るらしい。自分の(ふところ)さえ(こや)せば、実業の発達に相違ない。黄金さえ蓄積すれば、実業家は結構である。金融の問題が根本は何処(どこ)にあるのか、実業の本義とは何か。世界の上に金融の円満なる流動を計るべき実業家の思想が、現代ほど消却された時代は(すく)なかろう。「実業家に実業に対する根本の意義が了解されない実業」は、真実の実業ではない。私慾の実業である。(むし)ろ貪慾の行動に外ならぬのだ。
 実業が斯くして国の賊たるを(まぬか)れぬのである。世人は皇道大本の教育を聞いて、一にも国家二にも国家と()うは、大凡(おおよそ)国家という(もの)は個人の集合で、国家そのものと雖も世界的平等観から見れば、そんなに凝り固まって、国家々々と怒号せいでも善かろうと云う人もあるが、吾人の国家観が真に了解されないから、斯様な言を吐いて得意がって居るので、吾人は、
 個人を認めて国家と呼ぶ場合がある。
 世界を認めて国家と呼ぶ場合がある。
 宇宙を認めて国家と呼ぶ場合がある。
 理想の国家組織を(なし)て居るは、常に吾人は(これ)を国家と呼ぶのである。理想の国家組織の解釈は後日に譲りて、現代に於ては、宇宙国家観と、不完全ではあるが個身国家観の外に、国家呼ばわりをせらるる者は、坤上(つちあげ)に日本国より外にないと思う。
 この日本国家の拡張が、宗教・教育・政治等あらゆる経営の根本であるので、吾人が斯くも熱実に国家を(うんぬん)々するのである。現今の憲法学者が、国家に就いて種々の議論を立て居るが、神を知らないで国家組織を説いたり、神を知らないで君主を説いたとて、()うして本当の国家観が判るものか。国家有機体説や国家法人説は、余程進んだ学説ではあるが、其根本が薄弱でいけない。神に出ずる神典上の国家説に、憲法学者が耳を傾けるように早く成らなければならぬのである。
 人間が沢山に集りて、約束で作った憲法なんかには、天上の権威が伴わない。日本の憲法は、神より出た神典の示すがまにまに規定せなければならないものである。最後には、政治と宗教と教育と実業とが、同一の精神で統一されて、一体となって活動(はたら)くようになるのが、祭政一致の本義である。
 日本の国は神国である。人間が考えた種々の,学理も学説も、一切を放擲(ほうてき)して、新らしく考え直した時に、真実のものが出来るであろう。神典より外に、何等の学理・学説もない筈だ。コトサヤグ不祥の現代は、之を(まつた)く新らしくせなければ、到底本物にはならない。
 国の一大事が決定されないのに、人の一大事はあるものではない。国を離れて個人が成仏するなんかと云う仏説があるなら、全く誤つた仏説信者であろう。宗教家が云う処の天国・浄土とは何んなものだろうか。夢のような浮いた宗教説が、現代にまだ存在して居る中は、祭政一致の理想界も、まだ(なかなか)々実現が覚束(おぼつか)ない。(ああ)此れを思い彼れを考える程、吾人は皇道大本教理宣伝の必要、(ますます)々加わるを深く感ずる次第である。
(「三丹新報」第一九六号、大正二年十一月十九日)
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