霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第二章 唖呍(あうん)〔七三二〕

インフォメーション
著者:出口王仁三郎 巻:霊界物語 第24巻 如意宝珠 亥の巻 篇:第1篇 流転の涙 よみ(新仮名遣い):るてんのなみだ
章:第2章 唖呍 よみ(新仮名遣い):あうん 通し章番号:732
口述日:1922(大正11)年06月14日(旧05月19日) 口述場所: 筆録者:外山豊二 校正日: 校正場所: 初版発行日:1923(大正12)年5月10日
概要: 舞台: あらすじ[?]このあらすじはMさん作成です(一部加筆訂正してあります)。一部の章はAIによって要約を作成しています。[×閉じる]:
友彦は、鬼熊別夫婦の信任を一段と集めた。また小糸姫も友彦の親切にほだされて、いつとはなしに、面貌卑しい友彦にも好意を抱くようになった。
友彦は小糸姫と割りなき仲になり、それを利用して鬼熊別の後継となるよう、蜈蚣姫を通じて工作を開始した。しかし鬼熊別は友彦の心性を考慮して、自分の後継として指名することは決して許さなかった。
友彦と小糸姫は鬼熊別の心中を悟り、将来を心配して、ついに顕恩郷から出奔して行方をくらましてしまった。
二人は波斯を越えて印度の国の南までやって来たが、この辺りには露の都というバラモン教の大きな拠点があった。事の露見を恐れた二人は、さらに南下してセイロン島に渡った。
セイロン島の人々は、小糸姫の容貌を見て天女の降臨だと思って尊敬し、女王のように扱った。友彦は表向き従者となって過ごした。
しかし友彦はおいおい本性を現して小糸姫が持って来た金銭を湯水のように使って酒に浸り、島の女に戯れ出した。小糸姫の恋はすっかり醒めて、二人の反りは日に日に合わなくなっていった。ついに小糸姫は二人の島人に舟を漕がせて逃げてしまった。
友彦は島人の報せを受けて、小糸姫の出奔を知った。小糸姫の書置きを守り袋にしまうと、後を追って印度の国へ舟を出した。しかしすでに友彦は無一文になっていた。島人たちへの駄賃に着物を与えてしまい、守り袋を首から下げただけの姿で印度の国の浜辺に降り立ち歩き始めた。
主な登場人物[?]【セ】はセリフが有る人物、【場】はセリフは無いがその場に居る人物、【名】は名前だけ出て来る人物です。[×閉じる]: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2021-07-15 19:11:28 文字数:6082 OBC :rm2402
愛善世界社版:29頁 八幡書店版:第4輯 621頁 修補版: 校定版:29頁 普及版:13頁 初版: ページ備考:
001 友彦(ともひこ)は鬼熊別(おにくまわけ)夫婦(ふうふ)の信任(しんにん)益々(ますます)厚(あつ)く、002遂(つひ)には鬼熊別(おにくまわけ)が奥(おく)の間(ま)に内事係(ないじがかり)の主任(しゆにん)として仕(つか)ふる事(こと)となりぬ。003小糸姫(こいとひめ)も朝(あさ)な夕(ゆふ)なに友彦(ともひこ)の親切(しんせつ)にほだされ、004好(す)かぬ顔(かほ)とは思(おも)ひ乍(なが)らも何時(いつ)とは無(な)しにスツカリ無二(むに)の力(ちから)と頼(たの)むに至(いた)りける。005蔭裏(かげうら)に生(は)えた豆(まめ)でも時節(じせつ)が来(く)ればはぢける道理(だうり)、006十五(じふご)の春(はる)を迎(むか)へたオボコ娘(むすめ)も、007何時(いつ)とはなしに声(こゑ)変(がは)りがし、008臀部(でんぶ)の恰好(かつかう)が余程(よほど)大人(おとな)び来(き)たりぬ。009男女(だんぢよ)の交情(かうじやう)を結(むす)ぶ第一(だいいち)の要点(えうてん)は談話(だんわ)の度(ど)を重(かさ)ぬること、010会見(くわいけん)の度(ど)の多(おほ)きこと、011及(およ)び時間(じかん)の関係(くわんけい)に大影響(だいえいきやう)を及(およ)ぼすものなるべし。
012 小糸姫(こいとひめ)は何時(いつ)とはなしに友彦(ともひこ)の顔(かほ)を見(み)る毎(ごと)に、013顔(かほ)赤(あか)らめ、014襖(ふすま)の蔭(かげ)に隠(かく)れ、015窃(ぬす)み目(め)に覗(のぞ)く迄(まで)になりぬ。016蜈蚣姫(むかでひめ)は信任(しんにん)厚(あつ)き友彦(ともひこ)に、017小糸姫(こいとひめ)の身辺(しんぺん)の世話(せわ)を委託(ゐたく)したるが、018遠近(ゑんきん)上下(じやうげ)の隔(へだ)てなきは恋(こひ)の道(みち)、019優柔(いうじう)不断(ふだん)フナフナ腰(ごし)の友彦(ともひこ)も何時(いつ)とは無(な)しに妙(めう)な考(かんが)へを起(おこ)し、020遂(つい)には小糸姫(こいとひめ)の夫(をつと)となつてバラモン教(けう)の実権(じつけん)を握(にぎ)らむと、021野心(やしん)の火焔(くわえん)に包(つつ)まれ昼夜(ちうや)心(こころ)を焦(こが)し居(ゐ)たり。
022 友彦(ともひこ)が募(つの)る恋路(こひぢ)に、023小糸姫(こいとひめ)は襖(ふすま)の開閉(あけたて)にも、024擦(す)れつ縺(もつ)れつ相生(あひおひ)の松(まつ)と松(まつ)との若緑(わかみどり)、025手折(たお)るものなき高嶺(たかね)に咲(さ)いた松(まつ)の花(はな)、026遂(つい)に友彦(ともひこ)が得意(とくい)の時代(じだい)は到来(たうらい)した。027猪食(ししく)た犬(いぬ)の蜈蚣姫(むかでひめ)は敏(さと)くも二人(ふたり)が関係(くわんけい)を推知(すゐち)し、028夫(をつと)鬼熊別(おにくまわけ)に向(むか)つて言葉(ことば)を尽(つく)し、029友彦(ともひこ)をして小糸姫(こいとひめ)の夫(をつと)となし、030鬼熊別(おにくまわけ)が後継者(こうけいしや)たらしめむとする意志(いし)を、031事(こと)に触(ふ)れ、032物(もの)に接(せつ)し、033遠廻(とほまは)しにかけて鬼熊別(おにくまわけ)にいろいろと斡旋(あつせん)の労(らう)を執(と)りぬ。
034 されど鬼熊別(おにくまわけ)は友彦(ともひこ)の下劣(げれつ)なる品性(ひんせい)と、035野卑(やひ)なる面貌(めんばう)に心(こころ)を痛(いた)め、036到底(たうてい)副棟梁(ふくとうりやう)の後継者(こうけいしや)として不適任(ふてきにん)たることを悟(さと)り、037何時(いつ)も蜈蚣姫(むかでひめ)の千言(せんげん)万語(ばんご)を尽(つく)しての斡旋(あつせん)を馬耳(ばじ)東風(とうふう)と聞(き)き流(なが)した。
038 友彦(ともひこ)、039小糸姫(こいとひめ)は父(ちち)の心中(しんちう)を察(さつ)し、040人目(ひとめ)を忍(しの)んでは二人(ふたり)の行末(ゆくすゑ)を案(あん)じ煩(わづら)ひつつ、041ヒソヒソ話(ばなし)に耽(ふけ)り居(ゐ)たりける。
042 ある時(とき)友彦(ともひこ)は、
043友彦『小糸姫(こいとひめ)様(さま)、044私(わたし)は今日(こんにち)限(かぎ)り貴方(あなた)に御(お)別(わか)れ致(いた)さねばならぬことが出来(でき)ました。045今(いま)までの御縁(ごえん)と諦(あきら)めて下(くだ)さいませ』
046 小糸姫(こいとひめ)は漸(やうや)く口(くち)を開(ひら)き恥(はづか)し気(げ)に、
047小糸姫『友彦(ともひこ)様(さま)、048そりや又(また)何(ど)うした理由(わけ)で御座(ござ)います。049たとへ何(ど)うなつても小糸姫(こいとひめ)のためには力(ちから)を尽(つく)し、050生命(いのち)でも差出(さしだ)すと仰有(おつしや)つたではありませぬか』
051友彦『ハイ、052私(わたし)の心(こころ)は少(すこ)しも変(かは)つては居(を)りませぬ。053日(ひ)に夜(よ)に可愛(かあい)さ、054恋(こひ)しさが弥増(いやま)し、055片時(かたとき)の間(ま)も貴女(あなた)のお顔(かほ)が見(み)えねば、056ジツクリとして居(を)られないやうに、057恋(こひ)の炎(ほのほ)が燃(も)え立(た)つて来(き)て居(を)ります。058併(しか)し乍(なが)ら貴女(あなた)は尊(たふと)き副棟梁(ふくとうりやう)の一人娘(ひとりむすめ)、059何時(いつ)までも私(わたし)のやうな賤(いや)しき者(もの)と関係(くわんけい)を結(むす)ぶ訳(わけ)には参(まゐ)りませぬ。060御(お)父(とう)様(さま)の御(ご)意中(いちう)は決(けつ)して吾々(われわれ)両人(りやうにん)の意(い)を叶(かな)へては下(くだ)さいませぬ。061何程(なにほど)御(お)母上(ははうへ)が御(お)取持(とりもち)下(くだ)さつても、062最早(もはや)駄目(だめ)だと云(い)ふことが解(わか)りました。063私(わたし)は是(これ)より此(こ)の煩悶(はんもん)を忘(わす)れるため、064貴女(あなた)の御(お)側(そば)を遠(とほ)く離(はな)れ、065世界(せかい)を遍歴(へんれき)し一苦労(ひとくらう)を致(いた)しませう。066これが御(お)顔(かほ)の見納(みをさ)めで御座(ござ)いますれば、067何(ど)うぞ御(ご)両親(りやうしん)に孝養(かうやう)を尽(つく)し、068立派(りつぱ)な夫(をつと)を持(も)つてバラモン教(けう)のために御(お)尽(つく)し下(くだ)さいませ』
069 小糸姫(こいとひめ)は驚(おどろ)いて其(そ)の場(ば)に泣(な)き伏(ふ)し、
070小糸姫『アー何(ど)うしませう。071父上(ちちうへ)様(さま)、072聞(きこ)えませぬ』
073と泣(な)き叫(さけ)ぶを友彦(ともひこ)は、
074友彦『モシモシ御(お)嬢(ぢやう)様(さま)、075悔(くや)んで復(かへ)らぬ互(たがひ)の縁(えん)、076暫(しば)しの夢(ゆめ)を見(み)たと御(お)諦(あきら)め下(くだ)さいませ。077誠(まこと)に賤(いや)しき身(み)を以(もつ)て、078貴女(あなた)様(さま)に対(たい)し失礼(しつれい)を致(いた)しました重々(ぢゆうぢゆう)の罪(つみ)、079何卒(なにとぞ)御(お)赦(ゆる)し下(くだ)さいませ……左様(さやう)なら、080これにて愛(いと)しき貴女(あなた)と御(お)別(わか)れ致(いた)しませう』
081と立去(たちさ)らむとするを裾(すそ)曳(ひ)き止(と)め、
082小糸姫『暫(しば)らくお待(ま)ち下(くだ)さいませ。083妾(わたし)も女(をんな)の端(はし)くれ、084たとへ天地(てんち)が変(かは)るとも、085一旦(いつたん)言(い)ひ交(かは)した貴方(あなた)を見捨(みす)てて何(ど)うして女(をんな)の道(みち)が立(た)ちませう。086苦楽(くらく)を共(とも)にするのが夫婦(ふうふ)の道(みち)、087仮令(たとへ)何(なん)と仰有(おつしや)つても、088妾(わたし)は何処(どこ)までも放(はな)しませぬ。089何(ど)うしても別(わか)れねばならなければ貴方(あなた)のお手(て)で妾(わたし)を刺殺(さしころ)し、090何処(どこ)へなりと御(お)出(い)で下(くだ)さいませ』
091と泣(な)き伏(ふ)す。
092友彦『アヽ困(こま)つたことが出来(でき)たワイ、093別(わか)れようと言(い)へば御(お)嬢(ぢやう)様(さま)の強(つよ)き御(ご)決心(けつしん)、094生命(いのち)にも係(かか)はる一大事(いちだいじ)、095大恩(たいおん)ある鬼熊別(おにくまわけ)の御(ご)夫婦(ふうふ)に対(たい)し申訳(まをしわけ)が無(な)い。096さうだと云(い)つて大切(たいせつ)な御(お)嬢(ぢやう)様(さま)を伴出(つれだ)しては尚(なほ)済(す)まず、097アヽ仕方(しかた)がない……。098モシ御(お)嬢(ぢやう)様(さま)、099私(わたし)は此処(ここ)で腹(はら)掻(か)き切(き)つて相果(あひは)てまする。100何(ど)うぞ貴女(あなた)は両親(りやうしん)に仕(つか)へて孝養(かうやう)を御(お)尽(つく)し遊(あそ)ばされ、101幸(さいはひ)に私(わたし)の事(こと)を思(おも)ひ出(だ)された時(とき)は、102水(みづ)の一杯(いつぱい)も手向(たむ)けて下(くだ)さいませ。103千万(せんまん)人(にん)の宣伝使(せんでんし)の読経(どくきやう)よりも貴女(あなた)の御(お)手(て)づから与(あた)へて下(くだ)さつた一滴(いつてき)の水(みづ)が、104何程(なにほど)嬉(うれ)しいか知(し)れませぬ。105小糸姫(こいとひめ)様(さま)、106さらばで御座(ござ)いまする』
107と懐剣(くわいけん)スラリと引抜(ひきぬ)き、108腹(はら)に今(いま)や当(あ)てむとする時(とき)、109小糸姫(こいとひめ)は其(そ)の腕(うで)に縋(すが)りつき、
110小糸姫『モシモシ友彦(ともひこ)様(さま)、111暫(しば)らくお待(ま)ち下(くだ)さいませ。112お願(ねが)ひいたし度(た)いことが御座(ござ)います』
113 友彦(ともひこ)は、
114友彦『最早(もはや)覚悟(かくご)致(いた)した上(うへ)は申訳(まをしわけ)のため唯(ただ)死(し)あるのみ。115何(ど)うぞ立派(りつぱ)に死(し)なして下(くだ)され』
116小糸姫『どうして是(これ)が死(し)なされませう。117斯(か)うなる上(うへ)は是非(ぜひ)がない。118親(おや)につくか、119夫(をつと)につくか、120落(お)ちつく途(みち)は唯(ただ)一(ひと)つ。121暫時(しばし)は親(おや)に御(ご)苦労(くらう)をかけるか知(し)れないが、122何(いづ)れ此(この)世(よ)に長(なが)らへて居(を)れば、123御(ご)両親(りやうしん)に孝養(かうやう)を尽(つく)すことも出来(でき)ませう。124何卒(どうぞ)友彦(ともひこ)様(さま)、125妾(わたし)を伴(つ)れて遁(に)げて下(くだ)さいませぬか』
126友彦『これはしたり御(お)嬢(ぢやう)様(さま)、127親子(おやこ)は一世(いつせ)、128夫婦(ふうふ)は二世(にせ)と申(まを)しまして、129此(この)世(よ)に親(おや)ほど大切(たいせつ)なものは御座(ござ)いますまい。130友彦(ともひこ)ばかりが男(をとこ)ではありませぬ。131モツトモツト立派(りつぱ)な男(をとこ)は沢山(たくさん)に御座(ござ)いますれば、132私(わたし)のことは只今(ただいま)限(かぎ)り思(おも)ひ切(き)り、133両親(りやうしん)に御(ご)孝養(かうやう)願(ねが)ひます。134さらば、135是(これ)にて御(お)別(わか)れ……』
136と又(また)もや懐剣(くわいけん)を突(つ)き立(た)てようとする。137小糸姫(こいとひめ)は悲(かな)しさやる瀬(せ)なく腕(うで)に喰(く)ひつき満身(まんしん)の力(ちから)を籠(こ)めて友彦(ともひこ)を殺(ころ)さじと焦(あせ)り居(ゐ)る。138友彦(ともひこ)は感慨(かんがい)無量(むりやう)の態(てい)にて、
139友彦『アヽ其処(そこ)まで私(わたし)を思(おも)うて下(くだ)さるか。140左様(さやう)なれば仰(あふ)せに随(したが)ひ、141暫(しば)らく私(わたし)と一緒(いつしよ)に何処(どこ)かへ隠(かく)れて、142楽(たの)しき月日(つきひ)を送(おく)りませう』
143 小糸姫(こいとひめ)は、
144小糸姫『あゝそれで安心(あんしん)致(いた)しました』
145と奥(おく)に入(い)り、146密(ひそ)かに数多(あまた)の路銀(ろぎん)を懐中(くわいちう)し、147夜(よ)の更(ふ)くるを待(ま)つて二人(ふたり)は館(やかた)を後(あと)に、148何処(いづこ)ともなく顕恩郷(けんおんきやう)より消(き)えにけり。
149 親子(おやこ)のやうに年(とし)の違(ちが)うた二人(ふたり)の男女(だんぢよ)は、150手(て)に手(て)をとつて波斯(フサ)の国(くに)を、151彼方(あちら)此方(こちら)と彷徨(さまよ)ひ、152遂(つい)には高山(かうざん)も幾(いく)つか越(こ)えて印度(ツキ)の国(くに)の南(みなみ)の端(はし)に進(すす)んで来(き)た。153此処(ここ)には露(つゆ)の都(みやこ)と云(い)つて相当(さうたう)な繁華(はんくわ)な土地(とち)がある。154バラモン教(けう)の宣伝使(せんでんし)市彦(いちひこ)は相当(さうたう)に幅(はば)を利(き)かし、155遠近(ゑんきん)に名(な)を轟(とどろ)かして居(ゐ)た。156友彦(ともひこ)は斯(かか)る地点(ちてん)に彷徨(さまよ)ふは、157発覚(はつかく)の虞(おそ)れありとなし、158月(つき)の夜(よ)に紛(まぎ)れて海(うみ)を渡(わた)り、159セイロンの島(しま)に漕(こ)ぎつけ、160奥(おく)深(ふか)く進(すす)みシロ山(やま)の谷間(たにあひ)に居(きよ)を構(かま)へ、161二人(ふたり)は暮(くら)す事(こと)となつた。162物珍(ものめづ)らしき島人(しまびと)は、163花(はな)を欺(あざむ)く小糸姫(こいとひめ)の容貌(ようばう)を見(み)て、164天女(てんによ)の降臨(かうりん)せしものと思(おも)ひ尊敬(そんけい)の念(ねん)を払(はら)ひ、165日夜(にちや)此(こ)の庵(いほり)も訪(たづ)ねて参拝(さんぱい)するもの引(ひ)きも切(き)らぬ有様(ありさま)であつた。166小糸姫(こいとひめ)は表向(おもてむき)友彦(ともひこ)を下僕(しもべ)となし、167女王(ぢよわう)気取(きど)りで無鳥島(むてうたう)の蝙蝠王(へんぷくわう)となりすまし、168友彦(ともひこ)と共(とも)に日夜(にちや)快楽(くわいらく)に耽(ふけ)りゐたり。
169 友彦(ともひこ)の俄(にはか)に塗(ぬ)りたてた身魂(みたま)の鍍金(めつき)は、170日(ひ)に月(つき)に剥脱(はくだつ)し、171父母(ふぼ)両親(りやうしん)の目(め)の遠(とほ)く離(はな)れたるを幸(さいは)ひ、172横柄(わうへい)に小糸姫(こいとひめ)を頤(あご)の先(さき)にて使(つか)ふ様(やう)になつた。173さうして小糸姫(こいとひめ)が持(も)ち来(きた)れる旅費(りよひ)を取出(とりだ)しては日夜(にちや)酒(さけ)に浸(ひた)り、174或(あるひ)は島人(しまびと)の女(をんな)に対(たい)し他愛(たあい)なく戯(たはむ)れ出(だ)した。175小糸姫(こいとひめ)は、176漸(やうや)く恋(こひ)の夢(ゆめ)醒(さ)むるとともに、177友彦(ともひこ)の言(い)ふこと為(な)すことを、178蛇蝎(だかつ)の如(ごと)く忌(い)み嫌(きら)ひ、179友彦(ともひこ)の方(はう)より吹(ふ)きくる風(かぜ)さへも、180身(み)を切(き)る如(ごと)くに感(かん)じた。181百度(ひやくど)以上(いじやう)に逆上(のぼ)せ切(き)つた恋(こひ)の夏(なつ)も何時(いつ)しか過(す)ぎて、182ソロソロ秋風(あきかぜ)吹(ふ)き起(おこ)り、183日(ひ)に日(ひ)に冷気(れいき)加(くは)はり凩(こがらし)寒(さむ)き冬(ふゆ)の如(ごと)く、184友彦(ともひこ)を思(おも)ふ恋(こひ)の熱(ねつ)はスツカリ冷却(れいきやく)して氷(こほり)の如(ごと)くになり終(をは)りけり。
185 友彦(ともひこ)は小糸姫(こいとひめ)の様子(やうす)の日(ひ)に日(ひ)につれなくなるに業(ごふ)を煮(に)やし、186時々(ときどき)鉄拳(てつけん)を揮(ふる)ひ、187自暴酒(やけざけ)を呑(の)み、188嗄(しわ)がれ声(ごゑ)で呶鳴(どな)り立(た)て、189二人(ふたり)の仲(なか)は日(ひ)に夜(よ)に反(そり)が合(あは)なくなりにける。
190 或(ある)夜(よ)小糸姫(こいとひめ)は友彦(ともひこ)が大酒(おほざけ)を煽(あふ)り、191酔(よ)ひ潰(つぶ)れたる隙(すき)を窺(うかが)ひ、192一通(いつつう)の遺書(かきおき)を残(のこ)し、193浜辺(はまべ)に繋(つな)げる小舟(こぶね)を漕(こ)ぎ、194島人(しまびと)の黒(くろ)ン坊(ばう)二人(ふたり)を伴(とも)なひ、195太平洋(たいへいやう)を目蒐(めが)けて大胆(だいたん)にも遁(に)げ出(だ)したり。
196 友彦(ともひこ)は酒(さけ)の酔(ゑひ)が醒(さ)め、197起(お)き出(い)で見(み)れば夜(よ)はカラリと明(あ)けはなれ小鳥(ことり)の声(こゑ)喧(かしま)し。
198 友彦(ともひこ)は眠(ねむ)たき目(め)を擦(こす)り乍(なが)ら、
199友彦『小糸姫(こいとひめ)、200水(みづ)だ水(みづ)だ』
201 呼(よ)べど叫(さけ)べど何(なん)の応答(いらへ)もなきに友彦(ともひこ)は、
202友彦『アヽ又(また)裏(うら)の山(やま)へでも果物(くだもの)を取(と)りに往(ゆ)きよつたのかなア。203何(なに)を云(い)うても御(お)嬢(ぢやう)さまで気儘(きまま)に育(そだ)つた女(をんな)だから仕方(しかた)が無(な)い。204併(しか)し斯(か)う云(い)ふものの、205まだ十六(じふろく)だから子供(こども)の様(やう)なものだ。206余(あま)りケンケン云(い)つてやるのも可哀想(かあいさう)だ。207チツトこれから可愛(かあい)がつてやらねばなるまい。208顕恩郷(けんおんきやう)に居(を)れば、209彼方(あちら)からも、210此方(こちら)からも御(お)嬢(ぢやう)さまと奉(たてまつ)られ、211女王(ぢよわう)の様(やう)に持(も)て囃(はや)され、212栄耀(えいよう)栄華(えいぐわ)に暮(くら)せる身分(みぶん)だ。213此(こ)の友彦(ともひこ)が思(おも)はぬ手柄(てがら)に依(よ)つてそれをきつかけに旨(うま)くたらし込(こ)み、214世間(せけん)知(し)らずのオボコ娘(むすめ)をチヨロマカした俺(おれ)の腕前(うでまへ)、215定(さだ)めてバラモン教(けう)の幹部(かんぶ)連(れん)も驚(おどろ)いたであらう。216俺(おれ)の顔(かほ)は自分(じぶん)乍(なが)ら愛想(あいさう)の尽(つ)きるやうなものだが、217それでも生命(いのち)の親(おや)だと思(おも)つて、218すねたり、219跳(はね)たりし乍(なが)ら付(つ)いて居(ゐ)るのはまだ優(しほ)らしい。220たとへ俺(おれ)を嫌(きら)つて遁(に)げ帰(かへ)らうと思(おも)つても、221遠(とほ)き山坂(やまさか)を越(こ)えコンナ離(はな)れ島(じま)へ連(つ)れ込(こ)まれては、222孱弱(かよわ)き女(をんな)の何(ど)うすることも出来(でき)よまい。223思(おも)へば可哀想(かあいさう)なものであるワイ……アヽ喉(のど)が渇(かわ)いた。224一(ひと)つ友彦(ともひこ)自(みづか)ら玉水(ぎよくすゐ)を、225汲(く)みて御(お)飲(あが)り遊(あそ)ばす事(こと)としよう』
226と云(い)ひ乍(なが)ら、227門前(もんぜん)を流(なが)るる谷川(たにがは)の水(みづ)に竹製(たけせい)の柄杓(ひしやく)を突込(つつこ)み、228グイと一杯(いつぱい)汲(く)み上(あ)げ声(こゑ)を変(か)へて、
229友彦『さア、230旦那(だんな)様(さま)、231御(お)上(あが)り遊(あそ)ばせ。232あまり御(お)酒(さけ)を上(あが)りますと御(おん)身(み)のためによろしく御座(ござ)いませぬ。233若(も)しも貴方(あなた)が御(ご)病気(びやうき)にでも御(お)なり遊(あそ)ばしたら、234妾(わたし)は何(ど)うしませう。235ねー貴方(あなた)、236妾(わたし)が可愛(かあい)いと思召(おぼしめ)すなら、237何(ど)うぞ御(お)酒(さけ)を余(あま)り過(す)ごさない様(やう)にして頂戴(ちやうだい)……ナンテ吐(ぬか)しよるのだけれど、238今日(けふ)に限(かぎ)つて若山(わかやま)の神(かみ)様(さま)は何処(どこ)かへ御(ご)出張(しゆつちやう)遊(あそ)ばした。239軈(やが)て御(ご)帰館(きくわん)になるだらう。240それまで山(やま)の神(かみ)の代理(だいり)を勤(つと)めるのかなア』
241と独語(ひとりごと)言(い)ひ乍(なが)ら、242グツト一杯(いつぱい)飲(の)み乾(ほ)し、
243友彦『アヽ酔醒(よひざ)めの水(みづ)の美味(うま)さは下戸知(げこし)らずだ。244アヽうまいうまい、245水(みづ)も漏(も)らさぬ二人(ふたり)の恋仲(こひなか)、246媒酌人(ばいしやくにん)も無(な)しに自由(じいう)結婚(けつこん)と洒落(しやれ)たのだから、247此(こ)の杓(しやく)を媒酌人(ばいしやくにん)と仮定(かてい)して先(ま)づ一杯(いつぱい)やりませう。248何程(なにほど)しやくだと云(い)つても、249顕恩郷(けんおんきやう)を遠(とほ)く離(はな)れた此(こ)の島(しま)、250二人(ふたり)の恋仲(こひなか)に水(みづ)差(さ)す奴(やつ)も滅多(めつた)にあるまい。251併(しか)し乍(なが)ら小糸姫(こいとひめ)が時々(ときどき)癪(しやく)を起(おこ)すのには、252一寸(ちよつと)俺(おれ)も困(こま)る………「もしわが夫様(つまさま)、253癪(しやく)がさしこみました。254どうぞ御(ご)介錯(かいしやく)を願(ねが)ひます」………なんて本当(ほんたう)になまめかしい声(こゑ)を出(だ)しやがつて、255俺(おれ)は何時(いつ)もそれが癪(しやく)に障(さは)………らせぬワ。256アヽうまいうまい』
257と、258汲(く)んでは飲(の)み汲(く)くんでは飲(の)み一人(ひとり)興(きよう)がりゐる。
259 斯(か)かる処(ところ)へ黒(くろ)ン坊(ばう)の一人(ひとり)現(あら)はれ来(きた)り、
260黒ン坊『モシモシ友彦(ともひこ)様(さま)、261女王(ぢよわう)様(さま)が夜前(やぜん)船(ふね)に乗(の)つて何処(どこ)かへ往(ゆ)かれたのを、262貴方(あなた)御(ご)存知(ぞんじ)で御座(ござ)いますか』
263と聞(き)くより友彦(ともひこ)は真蒼(まつさを)になり、
264友彦『何(なに)ツ、265小糸姫(こいとひめ)が船(ふね)に乗(の)つて此処(ここ)を去(さ)つたとは、266そりや本当(ほんたう)か』
267黒ン坊『何(なに)私(わたくし)が嘘(うそ)を申(まを)しませう。268チヤンキーとモンキーの二人(ふたり)が、269櫓櫂(ろかい)を操(あやつ)り港(みなと)を船出(ふなで)しましたのを、270月夜(つきよ)の光(ひかり)に慥(たしか)に見届(みとど)けました。271私(わたくし)ばかりでない、272四五(しご)人(にん)のものがみんな見(み)て居(を)りますよ』
273友彦『ソンナラ何故(なぜ)早速(さつそく)知(し)らして来(こ)ぬのだ』
274黒ン坊『早速(さつそく)知(し)らせに参(まゐ)つたのですが、275御(ご)承知(しようち)の通(とほ)り此(こ)の急坂(きふはん)、276さう着々(ちやくちやく)と来(こ)られませぬワ』
277友彦『さうして小糸姫(こいとひめ)は何処(どこ)へ往(い)つたか知(し)つて居(ゐ)るか』
278黒ン坊『そこまではハツキリしませぬが、279何(なん)でも舳(へさき)を印度(ツキ)の国(くに)の方(はう)へ向(む)けて出(で)られましたから、280大方(おほかた)露(つゆ)の都(みやこ)へ御(お)越(こ)しになつたのでせう』
281 友彦(ともひこ)は両手(りやうて)を組(く)みウンウンと吐息(といき)を吐(つ)き、282両眼(りやうがん)より粗(あら)い涙(なみだ)をポロリポロリと溢(こぼ)して居(ゐ)る。283暫(しばら)くして友彦(ともひこ)は立上(たちあが)り、
284友彦『おのれチヤンキー、285モンキーの両人(りやうにん)、286大切(たいせつ)な女房(にようばう)を唆(そその)かし、287何処(どこ)へ遁(に)げ居(を)つたか、288たとへ天(てん)をかけり、289地(ち)を潜(くぐ)る神変(しんぺん)不思議(ふしぎ)の術(じゆつ)あるとも、290草(くさ)をわけても探(さが)し出(だ)し、291女房(にようばう)に会(あ)はねば置(お)かぬ。292其(その)時(とき)にチヤンキー、293モンキーの二人(ふたり)を血祭(ちまつ)りに致(いた)して呉(く)れむ』
294と狂気(きやうき)の如(ごと)く荒(あ)れ狂(くる)ひ、295鍋(なべ)、296釜(かま)、297火鉢(ひばち)を投(な)げ、298戸(と)障子(しやうじ)に恨(うら)みを転(てん)じ、299自(みづか)ら乱暴(らんばう)狼藉(ろうぜき)の限(かぎ)りを尽(つく)し、300家財(かざい)を残(のこ)らず滅茶(めつちや)苦茶(くちや)に叩(たた)き毀(こは)し、301小糸姫(こいとひめ)の残(のこ)し置(お)いた衣服(いふく)や手道具(てだうぐ)を引裂(ひきさ)き、302打砕(うちくだ)き、303地団駄(ぢだんだ)踏(ふ)んで室内(しつない)を七八回(しちはちくわい)もクルクルと廻(まは)り狂(くる)ひ、304目(め)を廻(まは)してパタリと倒(たふ)れた。
305 黒(くろ)ン坊(ばう)の一人(ひとり)は驚(おどろ)いて側(そば)に駆寄(かけよ)り、
306黒ン坊『モシモシ友彦(ともひこ)様(さま)、307狂気(きやうき)めされたか。308マア気(き)を御(お)鎮(しづ)めなされ、309何程(なにほど)焦(あせ)つても追(お)ひつくことは出来(でき)ますまい。310何(いづ)れ印度(ツキ)の国(くに)の露(つゆ)の都(みやこ)に市彦(いちひこ)と云(い)ふ名高(なだか)い宣伝使(せんでんし)が居(を)られますから、311其処(そこ)へ大方(おほかた)御(お)越(こ)しなつたのでせう』
312 友彦(ともひこ)は此(この)声(こゑ)にハツト気(き)がつき、
313友彦『何(なに)ツ、314市彦(いちひこ)が何(ど)うしたと云(い)ふのだ』
315黒ン坊『大方(おほかた)女王(ぢよわう)様(さま)は露(つゆ)の都(みやこ)の市彦(いちひこ)の館(やかた)へ御(お)越(こ)しになつたのだらうと、316皆(みな)の者(もの)が噂(うはさ)を致(いた)して居(を)りましたと云(い)ふのです』
317友彦『それは貴様(きさま)、318よく知(し)らせて呉(く)れた。319さア、320駄賃(だちん)をやらう』
321と金凾(かねばこ)を開(ひら)き見(み)れば、322こは如何(いか)に、323空(から)ツけつ勘左衛門(かんざゑもん)、324錏(びた)一文(いちもん)も残(のこ)つて居(ゐ)ない。325凾(はこ)の底(そこ)に残(のこ)つた折紙(をりがみ)を手早(てばや)く掴(つか)み披(ひら)き見(み)て、
326友彦『アヽ何(なん)だか些(ちつと)も分(わか)らない。327スパルタ文字(もじ)で………意地(いぢ)の悪(わる)い、328俺(おれ)の読(よ)めぬのを知(し)り乍(なが)ら、329遺書(かきおき)をして置(お)きやがつたのだらう。330併(しか)しこれは後(のち)の証拠(しようこ)だ。331大切(たいせつ)にせなくてはならない』
332と守(まも)り袋(ぶくろ)の中(なか)に大事(だいじ)相(さう)にしまひ込(こ)み、333黒(くろ)ン坊(ばう)に案内(あんない)させ、334一生(いつしやう)懸命(けんめい)にシロ山(やま)の急坂(きふはん)をドンドン威喝(ゐかつ)させ乍(なが)ら、335大股(おほまた)に降(くだ)り行(ゆ)く。
336 漸(やうや)くシロの港(みなと)に駆(かけ)ついた。337滅法(めつぱふ)矢鱈(やたら)に黒(くろ)ン坊(ばう)と二人(ふたり)がマラソン競走(きやうそう)をやつた結果(けつくわ)、338港(みなと)に着(つ)くや、339気(き)は弛(ゆる)みバツタリと此処(ここ)に倒(たふ)れて了(しま)つた。340港(みなと)に集(あつ)まる黒(くろ)ン坊(ばう)は二三十(にさんじふ)人(にん)寄(よ)つて集(たか)つて水(みづ)をかけたり、341鼻(はな)を捻(ね)ぢたり、342いろいろとして漸(やうや)く気(き)をつけた。
343 友彦(ともひこ)は四辺(あたり)キヨロキヨロ見廻(みまは)し乍(なが)ら、
344友彦『オー此処(ここ)はシロの港(みなと)だ。345さア、346汝(おまへ)等(ら)一(いち)時(じ)も早(はや)く船(ふね)の用意(ようい)を致(いた)し、347印度(ツキ)の国(くに)へ送(おく)れ』
348黒ン坊の一人『賃銭(ちんせん)は幾何(いくら)呉(く)れますか』
349友彦『エーコンナ時(とき)に賃銭(ちんせん)の話(はなし)どころか、350一刻(いつこく)も早(はや)く猶予(いうよ)がならぬ。351賃銭(ちんせん)は望(のぞ)み次第(しだい)後(あと)から遣(つか)はす。352さア、353早(はや)く行(ゆ)け』
354と急(せ)き立(た)てる。
355 友彦(ともひこ)の懐中(くわいちゆう)は実際(じつさい)無一物(むいちぶつ)であつた。356八(はち)人(にん)の黒(くろ)ン坊(ばう)は八挺櫓(はつちやうろ)を漕(こ)ぎ乍(なが)ら矢(や)を射(い)る如(ごと)く友彦(ともひこ)の命(めい)のまにまに印度洋(いんどやう)を横切(よこぎ)り、357印度(ツキ)の国(くに)の浜辺(はまべ)へ漸(やうや)く着(つ)いた。358此処(ここ)は真砂(まさご)の浜(はま)と云(い)ひ遠浅(とほあさ)になつてゐる。359船(ふね)は十町(じつちやう)ばかり沖(おき)にかかり、360それより尻(しり)を捲(まく)つて徒歩(とほ)上陸(じやうりく)する事(こと)となりゐるなり。
361黒ン坊『モシモシ大将(たいしやう)さま、362賃銭(ちんせん)を頂(いただ)きませう』
363友彦『ウン一寸(ちよつと)待(ま)て、364賃銭(ちんせん)はシロの港(みなと)まで帰(かへ)つた時(とき)、365往復(わうふく)共(とも)に張(は)りこんでやる。366二度(にど)にやるのは邪魔臭(じやまくさ)いから、367此処(ここ)に船(ふね)を浮(う)かべて待(ま)つてゐるがよからう』
368黒ン坊『さうだと云(い)つて………露(つゆ)の都(みやこ)までは二日(ふつか)や三日(みつか)では往(ゆ)けませぬ。369往復(わうふく)十日(とをか)もかかるのに、370コンナ処(ところ)に待(ま)つてゐられますかい』
371友彦『待(ま)つのが嫌(いや)なら先(さき)へ帰(かへ)つてシロの港(みなと)で待(ま)つてゐるがよからう。372帰途(かへり)には又(また)他(ほか)の船(ふね)に乗(の)るから………』
373黒ン坊『ソンナ事(こと)を言(い)はずに渡(わた)して下(くだ)さいなア。374女房(にようばう)が鍋(なべ)を洗(あら)つて待(ま)つてゐるのですから』
375友彦『実(じつ)は金(かね)をあまり周章(あわて)て忘(わす)れて来(き)たのだ』
376黒ン坊『ヘンうまいこと云(い)ふない。377女王(ぢよわう)にスツパ抜(ぬ)けを喰(く)はされ、378金(かね)も何(なに)も持(も)つて遁(に)げられたのだらう。379今(いま)までは女王(ぢよわう)様(さま)の光(ひか)りで、380貴様(きさま)を尊敬(そんけい)して居(を)つたが、381モー斯(か)うなつちや誰(たれ)が貴様(きさま)に随(したが)ふものがあるか。382金(かね)が無(な)ければ仕方(しかた)がない。383貴様(きさま)の身(み)につけたものを残(のこ)らず俺(おれ)に渡(わた)せ。384グヅグヅ吐(ぬか)すと、385寄(よ)つて集(たか)つて此(こ)の海中(かいちう)へ水葬(すゐさう)してやらうか』
386友彦『エー仕方(しかた)が無(な)い、387ソンナラ暑(あつ)い国(くに)の事(こと)でもあり、388裸(はだか)でもしのげぬ事(こと)は無(な)いのだから、389これなつと持(も)つて行(ゆ)け』
390とクルクルと真裸(まつぱだか)になり、391船(ふね)の中(なか)に投(な)げつけたるに黒(くろ)ン坊(ばう)は、
392黒ン坊『ヨー思(おも)ひの外(ほか)立派(りつぱ)な着物(きもの)だ。393何分(なにぶん)金(かね)にあかして拵(こしら)へよつた品物(しなもの)だから………オイその首(くび)にかけて居(ゐ)る守(まも)り袋(ぶくろ)を此方(こちら)へ寄越(よこ)せ』
394友彦『之(これ)に貴様(きさま)等(ら)が手(て)を触(ふ)れると、395忽(たちま)ち身体(からだ)がしびれるぞ。396さア持(も)つて行(ゆ)け』
397と首(くび)を突(つ)き出(だ)す。398八(はち)人(にん)の黒(くろ)ン坊(ばう)は、
399黒ン坊『ヤア、400ソンナ怖(おそ)ろしいものは要(い)らぬワイ。401勝手(かつて)に持(も)つて行(ゆ)け』
402と云(い)ひ捨(す)て遠浅(とほあさ)の海(うみ)に友彦(ともひこ)を残(のこ)し、403八挺(はつちやう)櫓(ろ)を漕(こ)ぎ、404紫(むらさき)の汐(しほ)漂(ただよ)ふ海面(かいめん)を矢(や)の如(ごと)く帰(かへ)つて行(ゆ)く。
405 友彦(ともひこ)は砂(すな)に足(あし)を没(ぼつ)し、406已(や)むを得(え)ず首(くび)に守袋(まもりぶくろ)をプリンと下(さ)げ、407飼犬(かひいぬ)よろしくと云(い)ふスタイルで、408遠浅(とほあさ)の海(うみ)をノタノタと、409四(よ)つ這(ば)ひになつて岸辺(きしべ)を指(さ)して進(すす)み行(ゆ)く。
410(大正一一・六・一四 旧五・一九 外山豊二録)
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