霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第一五章 眩代(げんだい)思潮(してう)〔一〇〇三〕

インフォメーション
著者:出口王仁三郎 巻:霊界物語 第36巻 海洋万里 亥の巻 篇:第3篇 神地の暗雲 よみ(新仮名遣い):こうじのあんうん
章:第15章 眩代思潮 よみ(新仮名遣い):げんだいしちょう 通し章番号:1003
口述日:1922(大正11)年09月23日(旧08月3日) 口述場所: 筆録者:松村真澄 校正日: 校正場所: 初版発行日:1923(大正12)年12月30日
概要: 舞台: あらすじ[?]このあらすじはMさん作成です(一部加筆訂正してあります)。一部の章はAIによって要約を作成しています。[×閉じる]:
竜雲とケールス姫は、涼しげな白衣を着て窓を引き明け、展開する山野の緑を眺めて酒を酌み交わし、雑談にふけっていた。暑い夏のことで、滲み出す汗で衣には斑紋ができていた。
ふとケールス姫が竜雲の背中を眺めると、頭部に角が生えた鬼が立っている形に汗染みができていた。ケールス姫はあっと驚き、竜雲の前に回って泣き伏しつつ、鬼が竜雲を狙っているから衣を変えるように、と歎願した。
ケールス姫は続けて、すっかり竜雲が恐ろしくなってきたと告白した。竜雲はからからと打ち笑い、一国の主を放逐して望みを遂げようという大望を果たすのだから、弱音を吐くものではない、悪人として度胸を据えろとケールス姫を叱咤した。
ケールス姫は、このような悪事はウラル教の盤古神王様もお許しになるはずがないと言い、竜雲はどうしても言って聞くような性分ではないことは知っているが、せめて自分はもう悪事から手をひかせて暇をくれるようにと嘆願した。
竜雲は、自分がこの地位までこられたのもケールス姫の悪事のおかげであり、姫こそ悪の張本人だと指摘した。そしてこの悪事は二人で責任を分担しなければならないのだ、と理屈を返した。
そして弱肉強食の現代においては、我々こそが現代思潮の真髄を体現した覇者・勇者であり、善悪は時と所と地位によって変わるもの、姫も古い道徳観念を捨てて新しい女にならなければならないと演説した。
そして社会の慣習や古い観念を打破して自由におのれの能力を発揮することこそ、盤古神王の教えにかなうことであると強弁して姫を説きつけた。
ケールス姫は黙然として善悪正邪の判断に苦しみ、その心は暗澹として迷いに捉われてしまった。竜雲も豪傑笑いに自分の悪事を正当化してみせたが、なんとなく良心のささやきに責められ、両人はしばし無言となってしまった。
そこへ竜雲の懐刀の青年テールが慌ただしく駆け込んできた。そしてサガレン王の軍勢が都に攻め来たり、さしもの大軍に味方は打ち破られ、落城の危険に見舞われていると注進した。そして二人に脱出するよう進言した。
そこへ左守のケリヤがゆうゆうと入ってきた。ケリヤの落ち着いた様子を見たテールは、この危急存亡のときに何をしているのか、とケリヤを問い詰めた。一方ケリヤは、今日のような風ひとつない日に何を騒いでいるのか、とテールに問い返した。
竜雲とケールス姫は、側近のテールの言葉を信じていたので、ケリヤの一喝し、ケールス姫は雄々しくも薙刀を取ってケリヤの足を打ち払った。そしてケールス姫は戦支度をして勇ましく門に駆け付けたが、門前に人影もなく、門番たちはのんびり酒を酌み交わしていた。
ケールス姫と竜雲は厳しくテールを叱責した。テールは両人の身を案じるあまり、恐ろしい夢を見たのだと言い訳した。
主な登場人物[?]【セ】はセリフが有る人物、【場】はセリフは無いがその場に居る人物、【名】は名前だけ出て来る人物です。[×閉じる]: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2022-10-10 13:25:15 文字数:5936 OBC :rm3615
愛善世界社版:153頁 八幡書店版:第6輯 637頁 修補版: 校定版:159頁 普及版:66頁 初版: ページ備考:
001 久方(ひさかた)の天津(あまつ)御空(みそら)はドンヨリとして、002暗雲(あんうん)低迷(ていめい)し、003四方(よも)の山々(やまやま)は白雲(しらくも)の断片(だんぺん)を胸腹(きようふく)のあたりに纓(ちりば)め、004何(なん)とはなしに蒸(む)しあつく、005風(かぜ)は殆(ほとん)ど其(その)権威(けんゐ)を失(うしな)ひ、006白楊樹(はくやうじゆ)のデリケートな柔(やはら)かな新芽(しんめ)さへビクとも動(うご)かぬ陰鬱(いんうつ)の気(き)漂(ただよ)ふ。007神地(かうぢ)の城(しろ)の別殿(べつでん)は、008幾十丈(いくじふぢやう)とも知(し)れぬ岩石(がんせき)、009地球(ちきう)の中心(ちうしん)より根(ね)ざしたるかと思(おも)はるる如(ごと)く抜(ぬ)き出(いだ)し、010其(その)上面(じやうめん)は殆(ほとん)ど西瓜(すいくわ)を縦(たて)に切(き)つたやうな平面(へいめん)を現(あら)はしてゐる、011風景(ふうけい)よき上津(うはつ)岩根(いはね)に建設(けんせつ)されてある。
012 竜雲(りううん)、013ケールス姫(ひめ)の二人(ふたり)は、014涼(すず)しさうな布(ぬの)を以(もつ)て織上(おりあ)げたる白衣(びやくえ)を身(み)に着(ちやく)し、015窓(まど)を引(ひき)あけ、016展開(てんかい)せる山野(さんや)の緑(みどり)を眺(なが)めて酒(さけ)酌(く)みかはし、017心地(ここち)よげに雑談(ざつだん)に耽(ふけ)つてゐる。018さしもに暑(あつ)き夏(なつ)の空(そら)、019何(なん)とはなしに、020四肢(しし)五体(ごたい)より滲(にじ)み出(い)だす汗水(あせみづ)に麻(あさ)の衣(きぬ)までアトラスの如(ごと)き斑紋(はんもん)を描(ゑが)いてゐる。021ふとケールス姫(ひめ)は竜雲(りううん)の背(せな)を眺(なが)むれば、022何(なん)の制縛(せいばく)も受(う)けないと云(い)つた様(やう)に、023恣(ほしいまま)に滲(にじ)み出(い)でたる汗(あせ)は衣(ころも)を少(すこ)しくこげ茶色(ちやいろ)に染(そ)め、024輪廓(りんくわく)正(ただ)しく、025不思議(ふしぎ)な斑紋(はんもん)が現(あら)はれてゐるので、026近寄(ちかよ)り見(み)れば、027人(ひと)が立(た)つてゐる様(やう)に見(み)える。028姫(ひめ)は何(なん)となく心(こころ)掛(かか)り、029竜雲(りううん)の背(せな)に近寄(ちかよ)つてよくよく覗(のぞ)き見(み)れば、030頭部(とうぶ)に角(つの)を生(は)やした鬼(おに)の形(かたち)であつた。031「アツ」と驚(おどろ)き竜雲(りううん)の前(まへ)に廻(まは)つて泣(な)き伏(ふ)しつつ、
032ケールス姫『竜雲(りううん)様(さま)、033竜雲(りううん)様(さま)』
034と連呼(れんこ)し、
035ケールス姫『早(はや)く其(その)衣(ころも)を脱(ぬ)がせ玉(たま)へ。036あなたには鬼(おに)が付(つ)け狙(ねら)つて居(を)りまする。037妾(わらは)はそれを見(み)るより、038俄(にはか)に貴方(あなた)が怖(こは)くなつて参(まゐ)りました。039否々(いないな)サツパリ厭(いや)になりました。040どうぞ其(その)麻衣(あさぎぬ)を脱(ぬ)ぎ捨(す)てて下(くだ)さいませ』
041 竜雲(りううん)はカラカラと打笑(うちわら)ひ、
042竜雲『アハヽヽヽ、043どうせ鬼(おに)も居(を)らうし、044大蛇(をろち)も居(ゐ)るであらう。045何(なん)と云(い)つても一国(いつこく)の主(あるじ)を放逐(はうちく)し、046天下(てんか)の覇権(はけん)を握(にぎ)ると云(い)ふ英雄(えいゆう)にはすべて半面(はんめん)のあるものだ。047神仏(しんぶつ)の心(こころ)を以(もつ)て如何(どう)して此(この)大望(たいまう)が遂行(すゐかう)されようか。048そんな訳(わけ)の分(わか)らぬ弱音(よわね)を吹(ふ)くものでない。049そして自然(しぜん)的(てき)に滲(にじ)み出(で)た汗(あせ)の斑痕(はんこん)を見(み)て、050驚(おどろ)くといふ者(もの)が何処(どこ)にあらうか。051其方(そなた)も此(この)竜雲(りううん)と心(こころ)を協(あは)せ、052ここ迄(まで)大事(だいじ)をやつつけた位(くらゐ)の悪人(あくにん)だから、053モウ少(すこ)し度胸(どきよう)を据(す)ゑないと、054到底(たうてい)生存(せいぞん)競争(きやうそう)の激烈(げきれつ)なる現代(げんだい)に立(た)つて、055完全(くわんぜん)な生活(せいくわつ)を続(つづ)くる事(こと)は出来(でき)なからうよ』
056ケールス姫『何(なに)は兎(と)もあれ、057俄(にはか)に吾(わが)身(み)が恐(おそ)ろしくなつて参(まゐ)りました。058どうぞお頼(たの)みですから私(わたし)にお暇(ひま)を下(くだ)さいませ。059不義(ふぎ)不道(ふだう)の行為(かうゐ)を以(もつ)て、060神(かみ)に対(たい)し忠実(ちうじつ)なる勤(つと)めをなしたとは如何(どう)しても考(かんが)へられませぬ。061私(わたし)は第一(だいいち)にあなたに帰依(きえ)し、062次(つぎ)にウラルのお道(みち)に帰依(きえ)し、063次(つい)で盤古(ばんこ)神王(しんわう)様(さま)の神徳(しんとく)に帰依(きえ)した者(もの)で御座(ござ)います。064盤古(ばんこ)神王(しんわう)様(さま)は決(けつ)して悪神(あくがみ)では御座(ござ)いますまい。065さすればあなたの行為(かうゐ)を決(けつ)してお許(ゆる)し遊(あそ)ばす筈(はず)はなからうと存(ぞん)じます。066今(いま)に如何(いか)なる天罰(てんばつ)が酬(むく)い来(く)るやも知(し)れますまい。067あなたは飽(あ)く迄(まで)も初心(しよしん)を貫徹(くわんてつ)せなくては、068後(あと)へは引(ひ)かない御(ご)気象(きしやう)だから、069何程(なにほど)私(わたし)がお諫(いさ)め申(まを)しても、070到底(たうてい)駄目(だめ)でせう』
071竜雲『これは又(また)異(い)なる事(こと)を云(い)ふではないか。072人(ひと)の心(こころ)は持方(もちかた)が肝腎(かんじん)だ。073此(この)竜雲(りううん)だとて今日(こんにち)の地位(ちゐ)に納(をさ)まり返(かへ)つて居(を)られるやうになつたのは、074八九分(はちくぶ)迄(まで)其方(そなた)の内助(ないじよ)に依(よ)つたからである。075言(い)はば其方(そなた)は、076竜雲(りううん)に悪逆(あくぎやく)無道(むだう)を勧(すす)めた張本人(ちやうほんにん)だ』
077ケールス姫『エヽ何(なん)と言(い)はれます。078私(わたし)が悪(あく)の張本人(ちやうほんにん)とは聞(き)き捨(ず)てならぬ其(その)お言葉(ことば)……』
079 竜雲(りううん)は嘲笑(あざわら)ひ、
080竜雲『何(なに)を云(い)つても同(おな)じ穴(あな)に棲(す)む貉(むじな)だから、081此(この)責任(せきにん)は二人(ふたり)で分担(ぶんたん)せなくてはならないのだ。082併(しか)し乍(なが)ら今(いま)の世(よ)の中(なか)は、083奸者(かんじや)侫人(ねいじん)、084悪逆(あくぎやく)無道(むだう)を敢行(かんかう)する丈(だけ)の器量(きりやう)ある者(もの)を称(しよう)して、085英雄(えいゆう)豪傑(がうけつ)、086紳士(しんし)紳商(しんしやう)、087国民(こくみん)の選良(せんりやう)と持(も)て囃(はや)すのだ。088現代(げんだい)思潮(してう)の真髄(しんずゐ)を極端(きよくたん)に体験(たいけん)したる吾々(われわれ)両人(りやうにん)は、089実(じつ)に現代(げんだい)に於(お)ける勇者(ゆうしや)だ、090覇者(はしや)だ。091善悪(ぜんあく)といふものは、092時(とき)と所(ところ)と地位(ちゐ)とに依(よ)つて変(かは)るものである。093人間(にんげん)も肉体(にくたい)のある限(かぎ)りは、094何(なん)と云(い)つても衣食住(いしよくぢゆう)の完全(くわんぜん)を望(のぞ)まなければ、095人生(じんせい)は嘘(うそ)だ。096下(くだ)らぬ古(ふる)き道徳(だうとく)観念(かんねん)に捉(とら)はれ、097半死人(はんしにん)的(てき)行為(かうゐ)をなすを以(もつ)て至善(しぜん)の道(みち)と迷信(めいしん)してゐるやうな人物(じんぶつ)は、098最早(もはや)此(この)世界(せかい)に生存(せいぞん)の価値(かち)もなければ、099見識(けんしき)もない馬鹿(ばか)の骨頂(こつちやう)だ。100それだからこの竜雲(りううん)は無抵抗(むていかう)主義(しゆぎ)を標榜(へうぼう)する人類(じんるい)愛善(あいぜん)の教(をしへ)の三五教(あななひけう)や、101人間(にんげん)の階級(かいきふ)を三段(さんだん)に分(わ)けて、102上中下(じやうちうげ)三流(さんりう)に対(たい)し社会(しやくわい)的(てき)待遇(たいぐう)を異(こと)にするやうな矛盾(むじゆん)を、103平気(へいき)でやつてゐるバラモン教(けう)は猶更(なほさら)嫌(きら)ひだ。104すべて世界(せかい)の人種(じんしゆ)は有色(いうしよく)無色(むしよく)を問(と)はず、105一切(いつさい)平等(びやうどう)に神(かみ)の恩恵(おんけい)……語(ご)を換(か)へて言(い)へば、106自然(しぜん)の天恵(てんけい)は偏頗(へんぱ)なく均霑(きんてん)さるべきものだ。107今日(こんにち)の矛盾(むじゆん)不合理(ふがふり)極(きは)まる社会(しやくわい)の習慣(しふくわん)を打破(だは)し、108智者(ちしや)をして其(その)智(ち)を振(ふる)はしめ、109勇者(ゆうしや)をして其(その)勇(ゆう)を活躍(くわつやく)せしめ、110自由(じいう)競争(きやうそう)を以(もつ)て社会(しやくわい)の原則(げんそく)となさねばならない。111さすれば力(ちから)一杯(いつぱい)の大活動(だいくわつどう)もする事(こと)が出来(でき)、112野(の)に叫(さけ)ぶ聖人(せいじん)は頭(かしら)を抬(もた)げて、113平素(へいそ)懐抱(くわいはう)せる其(その)妙智(めうち)妙案(めうあん)を発揮(はつき)する様(やう)になるのが所謂(いはゆる)一切(いつさい)平等(びやうどう)、114偏頗(へんぱ)なき自然(しぜん)の神慮(しんりよ)に叶(かな)つたものである。115さうだから姫(ひめ)も今(いま)迄(まで)の旧慣(きうくわん)をスツカリ放擲(はうてき)し、116日進(につしん)月歩(げつぽ)の今日(こんにち)だから、117吾(わが)教(をしへ)に従(したが)つて、118世界(せかい)第一(だいいち)の新(あたら)しき女(をんな)となつて、119其(その)驍名(げうめい)を竜雲(りううん)と共(とも)に世界(せかい)に輝(かがや)かすだけの覚悟(かくご)を持(も)つて貰(もら)はなくちやアならない。120此(この)夫(をつと)にして此(この)妻(つま)あり、121諺(ことわざ)にも鬼(おに)の夫(をつと)に蛇(じや)の女房(にようばう)といふ事(こと)がある。122これは取(と)りも直(なほ)さず此(この)世界(せかい)を造(つく)り玉(たま)うた盤古(ばんこ)神王(しんわう)さまが、123比喩(ひゆ)を作(つく)つて、124世界(せかい)万民(ばんみん)の口(くち)に知(し)らず知(し)らずの間(あひだ)に伝(つた)へさせ玉(たま)うたのである。125これ程(ほど)鬼(おに)大蛇(をろち)悪魔(あくま)の蔓(はびこ)る世(よ)の中(なか)に処(しよ)するには、126それ以上(いじやう)の強圧力(きやうあつりよく)がなくては到底(たうてい)駄目(だめ)だ。127鬼(おに)と蛇(じや)との夫婦(ふうふ)が現(あら)はれて、128世界(せかい)を統一(とういつ)するといふ予言(よげん)を神(かみ)さまがしておかれたのだ。129其(その)予言(よげん)の体顕者(たいけんしや)は即(すなは)ち吾(われ)等(ら)両人(りやうにん)だ。130自由(じいう)自在(じざい)に行使(かうし)すべき独特(どくとく)の権能者(けんのうしや)だ。131仮令(たとへ)根(ね)の国(くに)底(そこ)の国(くに)が仮(か)りにありとしても、132此(この)現幽神(げんいうしん)の三界(さんかい)は残(のこ)らず盤古(ばんこ)神王(しんわう)様(さま)の掌握(しやうあく)し玉(たま)ふ所(ところ)、133盤古(ばんこ)神王(しんわう)の御意(ぎよい)に叶(かな)うた行動(かうどう)をなす者(もの)が如何(どう)して罪(つみ)になるものか。134姫(ひめ)も少(すこ)しは胸(むね)に手(て)を当(あ)てて、135よく考(かんが)へて見(み)たがよからう。136善悪(ぜんあく)不二(ふじ)、137正邪(せいじや)一如(いちによ)と云(い)ふではないか。138人(ひと)の体(からだ)だつて前後(まへうし)ろがある。139吾(わが)背中(せなか)の鬼(おに)の斑紋(はんもん)は吾(わが)唯一(ゆゐいつ)の守護神(しゆごじん)が顕現(けんげん)したのだ。140前(まへ)から見(み)れば実(じつ)に円満(ゑんまん)具足(ぐそく)の好男子(かうだんし)、141真善美(しんぜんび)の極致(きよくち)に達(たつ)した立派(りつぱ)な竜雲王(りううんわう)である。142裏面(りめん)より見(み)れば即(すなは)ち悪鬼(あくき)羅刹(らせつ)の首魁(しゆくわい)である。143床(とこ)の間(ま)の掛物(かけもの)を見(み)てもさうではないか。144あの通(とほ)り美(うつく)しい絵画(くわいぐわ)が描(ゑが)かれてあるが、145彼(か)の軸(ぢく)の裏面(りめん)は実(じつ)に粗末(そまつ)な紙(かみ)計(ばか)りの殺風景(さつぷうけい)な品物(しなもの)ではないか。146人間(にんげん)の同(おな)じ一(ひと)つの体(からだ)にも、147清浄(せいじやう)無垢(むく)にして日月(じつげつ)にも比喩(たと)ふべき両眼(りやうがん)のあると共(とも)に汚穢(をくわい)極(きは)まる大小便(だいせうべん)の噴出口(ふんしゆつこう)があるであらう。148此(この)噴出口(ふんしゆつこう)が汚穢(をくわい)だと云(い)つて取(と)り去(さ)つて了(しま)ふものなら、149到底(たうてい)全身(ぜんしん)の安静(あんせい)を保(たも)つ事(こと)は出来(でき)ない、150従(したが)つて何程(なにほど)美(うつく)しい両眼(りやうがん)も忽(たちま)ち其(その)光明(くわうみやう)を失(うしな)つてしまふであらう。151葱(ねぎ)の白根(しろね)を見(み)てもさうではないか。152土(つち)にかくれた汚(きたな)い臭気(しうき)のある所(ところ)に却(かへつ)て無限(むげん)の味(あぢ)がある。153屍(かばね)のある所(ところ)には鷲(わし)集(あつま)り、154濁(にご)れる水(みづ)には数多(あまた)の魚(うを)集(あつ)まり来(きた)る。155これ位(くらゐ)な天地(てんち)の道理(だうり)が分(わか)らなくて、156如何(どう)して神地(かうぢ)の城(しろ)の花形(はながた)役者(やくしや)となつて、157世(よ)に時(とき)めく事(こと)が出来(でき)るであらうか。158チツと其方(そなた)も改心(かいしん)をして貰(もら)はねば、159此(この)竜雲(りううん)の社稷(しやしよく)は到底(たうてい)保(たも)たれないぢやないか』
160ケールス姫『そんなら盤古(ばんこ)神王(しんわう)さまのお為(ため)になる事(こと)、161お心(こころ)に叶(かな)ふことならば、162人(ひと)の認(みと)めて悪逆(あくぎやく)無道(むだう)とする所(ところ)も、163敢(あ)へて神(かみ)さまはお咎(とが)めなさらないのですか。164そんなら一(ひと)つ伺(うかが)ひますが、165それだけ智謀(ちぼう)絶倫(ぜつりん)、166神力(しんりき)無双(むさう)の竜雲(りううん)さまの危(あやふ)き生命(いのち)を助(たす)けたエームスは、167なぜ牢獄(らうごく)へ投(とう)ぜられたのです。168エームスは言(い)つてゐたぢやありませぬか……人(ひと)の生命(いのち)を助(たす)くるのは、169人間(にんげん)として最善(さいぜん)の行(おこな)ひだと思(おも)ふ。170然(しか)るに思(おも)はざりき、171人(ひと)を助(たす)けて罪人(つみびと)となり、172暗(くら)き獄舎(ごくや)につながれて、173日夜(にちや)苦悶(くもん)をつづけねばならぬならば、174吾々(われわれ)は最早(もはや)此(この)社会(しやくわい)に手(て)も足(あし)も出(だ)す事(こと)は出来(でき)ない……と云(い)つて居(を)りましたでせう。175それは如何(どう)いふ解釈(かいしやく)になるのでせう。176一向(いつかう)此(この)点(てん)が合点(がてん)が参(まゐ)りませぬ。177盤古(ばんこ)神王(しんわう)さまの御(おん)為(ため)に働(はたら)きながら、178又(また)もや盤古(ばんこ)神王(しんわう)の為(ため)に根底(ねそこ)の国(くに)の牢獄(らうごく)に身魂(みたま)を投込(なげこ)まれるやうな悲惨(ひさん)な事(こと)は出来(でき)はしますまいか』
179竜雲『天(てん)に風雨(ふうう)の障(さは)りあり、180人(ひと)に病(やまひ)の悩(なや)みあり、181心(こころ)に雲(くも)のかかる事(こと)あり。182仮令(たとへ)日月(じつげつ)晃々(くわうくわう)として下界(げかい)を照(て)らすと雖(いへど)も、183中空(ちうくう)に今日(こんにち)の如(ごと)く暗雲(あんうん)とざす時(とき)は、184日月(じつげつ)の光(ひかり)も地上(ちじやう)に透徹(とうてつ)せない如(ごと)く、185此(この)竜雲(りううん)だとてヤハリ宇宙(うちう)の模型(もけい)、186天地(てんち)の断片(だんぺん)だから、187心天(しんてん)の日月(じつげつ)、188黒雲(こくうん)に閉(と)ざさるる事(こと)も偶(たま)にはあるであらう。189されど疑(うたがひ)の雲(くも)一度(いちど)晴(は)れなば、190心天(しんてん)忽(たちま)ち清明(せいめい)となり、191真如(しんによ)の日月(じつげつ)は其(その)光(ひかり)を放(はな)つやうになつて来(く)る。192それは一(いち)時(じ)の雲(くも)の障(さは)りだ。193決(けつ)して曇(くも)つた空(そら)は永遠(ゑいゑん)に晴(は)らさないといふ盤古(ばんこ)神王(しんわう)さまは御(お)約束(やくそく)はなさらない。194そんな小問題(せうもんだい)に齷齪(あくせく)してゐて、195此(この)一国(いつこく)をどうして支(ささ)へ保(たも)つて行(ゆ)く事(こと)が出来(でき)ようか。196賢(かしこ)いやうでも流石(さすが)は女(をんな)の愚痴(ぐち)、197イヤもう呆(あき)れて物(もの)が言(い)はれないわい、198アツハヽヽヽ』
199と肩(かた)をゆすつて豪傑(がうけつ)笑(わら)ひに紛(まぎ)らす。200其(その)狡猾(ずる)さ加減(かげん)、201流石(さすが)の盤古(ばんこ)神王(しんわう)も呆(あき)れて三舎(さんしや)を避(さ)け玉(たま)ふであらう。
202 ケールス姫(ひめ)は黙然(もくねん)として差(さ)し俯(うつ)むき、203暫(しばら)くは善悪(ぜんあく)正邪(せいじや)の判断(はんだん)に苦(くる)しみ、204或(あるひ)は鬼(おに)となり、205或(あるひ)は神(かみ)となり、206獣(けもの)となり、207大蛇(をろち)となり、208時々(じじ)刻々(こくこく)に吾(わが)心(こころ)の変化(へんくわ)を目撃(もくげき)して益々(ますます)迷路(めいろ)にふみこみ、209咫尺(しせき)暗澹(あんたん)として壺中(こちう)につめこめられたる如(ごと)き心理(しんり)状態(じやうたい)となつて了(しま)つた。210一方(いつぱう)竜雲(りううん)も空威張(からゐばり)して、211前(さき)の如(ごと)く言(い)ひ放(はな)つてみたものの、212何(なん)とはなしに良心(りやうしん)の囁(ささや)きは彼(かれ)が論旨(ろんし)を一々(いちいち)否定(ひてい)せむと、213勢(いきほひ)猛(たけ)くいき巻(ま)き来(きた)るやうであつた。214二人(ふたり)は黙然(もくねん)として暫(しばら)く無言(むごん)の幕(まく)をつづけてゐた。
215 かかる所(ところ)へあわただしく顔色(かほいろ)変(か)へて駆込(かけこ)み来(きた)る一人(ひとり)の男(をとこ)は、216竜雲(りううん)が常(つね)に懐刀(ふところがたな)として寵愛(ちようあい)してゐるテールといふ青年(せいねん)である。217彼(かれ)は自分(じぶん)の居間(ゐま)に閉(と)ぢ籠(こも)り、218ウラル教(けう)の経文(きやうもん)を一心(いつしん)不乱(ふらん)に研究(けんきう)しつつあつた熱心(ねつしん)なる竜雲(りううん)崇拝者(すうはいしや)である。
219テール『モシモシ御(お)二方(ふたかた)様(さま)、220タヽ大変(たいへん)な珍事(ちんじ)が突発(とつぱつ)致(いた)しました。221悠々(いういう)閑々(かんかん)として御座(ござ)る時(とき)ではありますまい。222サア一(いち)時(じ)も早(はや)く縄梯子(なはばしご)をかけ、223此(この)岩窟(がんくつ)をお下(くだ)り遊(あそ)ばし、224谷川(たにがは)を越(こ)えて暫(しば)し御(おん)身(み)を忍(しの)ばせ玉(たま)へ、225危険(きけん)刻々(こくこく)に迫(せま)り来(きた)る!』
226と顔色(かほいろ)変(か)へて、227何(なん)となく落付(おちつ)かぬ体(てい)にて言(い)ひ放(はな)つを竜雲(りううん)、228ケールス姫(ひめ)はテールの言(げん)に打驚(うちおどろ)き、229竜雲(りううん)は立膝(たてひざ)しながら、
230竜雲『一大事(いちだいじ)とは何事(なにごと)なるか』
231と忽(たちま)ち形(かたち)を更(あらた)め、232言葉(ことば)せはしく問(と)ひつめるを、233テールは其(その)前(まへ)に据(す)ゑおかれたる瓶(かめ)の水(みづ)を二口(ふたくち)三口(みくち)グツと呑(の)み、234胸(むね)を撫(な)で下(おろ)し、
235テール『されば候(さふらふ)、236テールの吾(われ)は書斎(しよさい)に閉(と)ぢこもり、237神書(しんしよ)を研究(けんきう)する折(をり)しもあれ、238俄(にはか)に騒(さわ)ぐ庭(には)の群烏(むれがらす)、239人馬(じんば)の物音(ものおと)かまびすしく、240風(かぜ)が持(も)て来(く)る攻(せ)め太鼓(だいこ)、241はげしく追々(おひおひ)近寄(ちかよ)る金鼓(きんこ)の響(ひびき)、242敵(てき)は間近(まぢか)く押寄(おしよ)せたり。243何者(なにもの)の反逆(はんぎやく)なるかと、244あたりを見(み)れば廊下(らうか)の勾欄(こうらん)、245コレ幸(さいは)ひと云(い)ふより早(はや)く、246猿(ましら)の如(ごと)くかけ登(のぼ)り、247眼下(がんか)の村手(むらて)をキツと見渡(みわた)し眺(なが)むれば、248思(おも)ひ掛(がけ)なき三(み)つ葉(ば)葵(あふひ)の旗印(はたじるし)、249合点(がてん)行(ゆ)かぬと見(み)る内(うち)に、250先(さき)に立(た)つたるサガレン王(わう)を始(はじ)めとしテーリス、251エームス其(その)他(た)の勇将(ゆうしやう)、252武備(ぶび)をととのへ、253雲霞(うんか)の如(ごと)き大軍(たいぐん)を引率(いんそつ)し、254単梯陣(たんていじん)の構(かま)へを以(もつ)て三方(さんぱう)よりチクリチクリと攻(せ)め来(きた)る、255其(その)光景(くわうけい)の物々(ものもの)しさ。256こは一大事(いちだいじ)と、257テールは味方(みかた)の守兵(しゆへい)を駆(か)り集(あつ)め、258勇敢(ゆうかん)決死(けつし)の若者(わかもの)数十(すうじふ)人(にん)、259手鎗(てやり)を揃(そろ)へて寄(よ)せ来(く)る敵(てき)に向(むか)つて、260真(ま)一文字(いちもんじ)に突進(とつしん)し、261縦横(じうわう)無尽(むじん)に突(つ)き立(た)て薙(な)ぎ立(た)て、262斬(き)りまくり、263暴虎(ぼうこ)馮河(ひようが)の勢(いきほひ)を以(もつ)て詰(つ)め寄(よ)れば、264流石(さすが)の敵(てき)も辟易(へきえき)し、265雪崩(なだれ)を打(う)つて三町(さんちやう)許(ばか)り、266数多(あまた)の死傷者(ししやうしや)を残(のこ)こしつつ退却(たいきやく)したりと思(おも)ひきや、267左右(さいう)の林(はやし)の中(なか)より、268俄(にはか)に現(あらは)れ来(きた)る数万(すうまん)の軍勢(ぐんぜい)、269こは一大事(いちだいじ)、270深入(ふかい)りしては却(かへつ)て敵(てき)に謀(はか)られむ、271無念(むねん)ながらも、272予定(よてい)の退却(たいきやく)をなさむと、273表門(おもてもん)へと引返(ひきかへ)す数十(すうじふ)の味方(みかた)は、274或(あるひ)は討(う)たれ或(あるひ)は遁走(とんそう)し、275残(のこ)るはテール只(ただ)一人(ひとり)と脆(もろ)くもなりにけり。276ケリヤ、277ハルマの両人(りやうにん)は、278見(み)る見(み)る内(うち)に敵(てき)の為(ため)に捕(とら)へられ、279其(その)他(た)の部下(ぶか)は卑怯(ひけふ)にも甲(かぶと)をぬぎ、280白旗(しらはた)を掲(かか)げ、281敵(てき)に降服(かうふく)したる其(その)腑甲斐(ふがひ)なさ。282テール一人(ひとり)如何(いか)に切歯(せつし)扼腕(やくわん)すればとて、283大廈(たいか)の将(まさ)に覆(くつが)へらむとする時(とき)、284一木(いちぼく)の支(ささ)ふ能(あた)はざるの如(ごと)く、285無念(むねん)乍(なが)らも只(ただ)一人(ひとり)、286此(この)危急(ききふ)を君(きみ)に報(はう)ぜむが為(ため)に、287群(むら)がる敵(てき)を伐立(きりた)て薙立(なぎた)て、288此処(ここ)まで無事(ぶじ)に立帰(たちかへ)つて候(さふらふ)。289イザ早(はや)く此(この)場(ば)を立退(たちの)き玉(たま)へ。290長居(ながゐ)は恐(おそ)れ、291早(はや)く早(はや)く……』
292と夢中(むちう)になつて急(せ)き立(た)てる。293其(その)様子(やうす)の決(けつ)して虚偽(きよぎ)とも思(おも)はれねば、294二人(ふたり)は忽(たちま)ち顔色(かほいろ)を変(か)へ轟(とどろ)く胸(むね)を無理(むり)に鎮(しづ)めむとすれども、295俄(にはか)の驚異(きやうい)にハートの鼓動(こどう)は暴風雨(ばうふうう)の吹(ふ)き荒(すさ)ぶが如(ごと)く、296大地震(だいぢしん)の如(ごと)く鎮静(ちんせい)すべくも見(み)えず、297歯(は)はガチガチと震(ふる)ひ出(だ)し、298手足(てあし)は戦(をのの)き見(み)るも憐(あは)れな光景(くわうけい)なりけり。
299 斯(か)かる所(ところ)へ悠々(いういう)として入(い)り来(きた)る左守(さもりの)神(かみ)のケリヤは、300テールの様子(やうす)と言(い)ひ、301竜雲(りううん)、302ケールス姫(ひめ)のそはそはしき行体(ぎやうてい)を眺(なが)めて不審(ふしん)に堪(た)へず、303三(さん)人(にん)の顔(かほ)を見比(みくら)べ、304テールはケリヤの此処(ここ)に入(い)り来(きた)りしを見(み)て、305言葉(ことば)せはしく、
306テール『貴殿(きでん)は左守(さもりの)神(かみ)のケリヤ殿(どの)では御座(ござ)らぬか。307かかる危急(ききふ)存亡(そんばう)の場合(ばあひ)、308何(なに)悠々(いういう)として御座(ござ)る。309早(はや)く防戦(ばうせん)の用意(ようい)をなし、310敵(てき)を千(せん)里(り)に撃退(げきたい)し、311君(きみ)の御(ご)身辺(しんぺん)をお守(まも)りなさらぬか』
312といきり切(き)つてまくし立(た)てる。313ケリヤは少(すこ)しも合点(がてん)往(ゆ)かず、
314ケリヤ『今日(けふ)の如(ごと)き天地(てんち)寂然(せきぜん)として声(こゑ)もなく、315風(かぜ)もなき夏(なつ)の日(ひ)に、316何(なに)をうろたへ召(め)さるか。317又(また)竜雲(りううん)さま、318ケールス姫(ひめ)さまは、319何(なん)としてかくもそはそはしく遊(あそ)ばすや、320合点(がてん)が参(まゐ)りませぬ。321何(なん)とか是(これ)には深(ふか)き仔細(しさい)が御座(ござ)いませう。322つぶさに仰(あふ)せ付(つ)け下(くだ)さいますれば、323ケリヤはケリヤとしてのベストを尽(つく)し、324君(きみ)の御心(みこころ)を安(やす)んじ奉(たてまつ)りませう』
325 竜雲(りううん)は言(ことば)せはしく、
326竜雲『ケリヤ、327其(その)方(はう)は今日(こんにち)の敵(てき)の攻撃(こうげき)を何(なん)と心得(こころえ)居(ゐ)るか。328一刻(いつこく)の猶予(いうよ)もあるまい。329早(はや)く防戦(ばうせん)の用意(ようい)を致(いた)せ!』
330ケリヤ『コレは心得(こころえ)ぬ其(その)言葉(ことば)、331敵(てき)なきに何(なに)を以(もつ)て防戦(ばうせん)の用意(ようい)に及(およ)びませう。332ナニ、333是(これ)は大方(おほかた)何(なに)かの御(お)考(かんが)へ違(ちがひ)では御座(ござ)いますまいか』
334ケールス姫『エー腑甲斐(ふがひ)なき其方(そなた)の言葉(ことば)、335斯(か)くの如(ごと)く押(お)しよせ来(きた)るサガレン王(わう)の大軍(たいぐん)を、336其方(そなた)は何(なん)と心得(こころえ)て居(を)らるるか。337イヤ分(わか)つた、338其方(そなた)はサガレン王(わう)に内通(ないつう)し、339王(わう)の神軍(しんぐん)を甘(うま)く引入(ひきい)れ、340妾(わらは)を滅(ほろぼ)さむとする、341憎(につく)き張本人(ちやうほんにん)であらう。342モウ斯(か)うなる上(うへ)は容赦(ようしや)はせぬ、343覚悟(かくご)せよ!』
344とケールス姫(ひめ)は、345長押(なげし)の薙刀(なぎなた)取(と)るより早(はや)く、346ケリヤに向(むか)つて伐(き)つてかかる。347上(うへ)を薙(な)ぎ下(した)を払(はら)ひ一進(いつしん)一退(いつたい)、348水車(みづぐるま)の如(ごと)く薙刀(なぎなた)を使(つか)ふ。349其(その)修練(しうれん)の早業(はやわざ)、350鬼神(おにがみ)も近付(ちかづ)く可(べか)らざる勢(いきほひ)なり。
351 ケリヤは身(み)に寸鉄(すんてつ)も帯(お)びず、352又(また)余(あま)りの驚(おどろ)きに度(ど)を失(うしな)ひ、353逃場(にげば)を求(もと)めて迷(まよ)ひ居(ゐ)る。354憐(あは)れやケールス姫(ひめ)の薙刀(なぎなた)はケリヤの足(あし)をかすつた。355「アツ」と悲鳴(ひめい)を上(あ)げ其(その)場(ば)に打倒(うちたふ)るるを姫(ひめ)は見向(みむき)もなさず、
356ケールス姫『竜雲(りううん)どの、357其(その)鎗(やり)を以(もつ)てわれに続(つづ)かせ玉(たま)へ…』
358と表(おもて)をさして襷(たすき)十字(じふじ)にあやどり、359後鉢巻(うしろはちまき)リンとしめ、360女武者(をんなむしや)の凛々(りり)しき姿(すがた)、361阿修羅(あしゆら)王(わう)の荒(あ)れたる如(ごと)く駆出(かけだ)し見(み)れば、362人(ひと)の影(かげ)は何処(いづく)にもなく、363門番(もんばん)のシール、364ベスの両人(りやうにん)は門館(もんやかた)に胡坐(あぐら)かき、365気楽(きらく)さうに鼻唄(はなうた)をうたひ乍(なが)ら、366チビリチビリと酒(さけ)を酌(く)みかはしてゐた。367ケールス姫(ひめ)は合点(がてん)行(ゆ)かず、368吾(わが)居間(ゐま)に引返(ひきかへ)せば、369竜雲(りううん)は奥(おく)の間(ま)に腰(こし)をぬかして身動(みうご)きならぬまま、370鈍栗眼(どんぐりまなこ)をギロつかせてゐる。371報告(はうこく)に出(で)て来(き)たテールは亦(また)同(おな)じく肝玉(きもだま)を潰(つぶ)し、372以前(いぜん)の場所(ばしよ)につくばつた儘(まま)身動(みうご)きもせず目(め)をパチつかせてゐた。373ケールス姫(ひめ)は言葉(ことば)きびしく、
374ケールス姫『テール、375汝(なんぢ)テール、376虚偽(きよぎ)の報告(はうこく)をなして、377吾(われ)等(ら)の心(こころ)を動(うご)かしたる不届(ふとど)きな奴(やつ)、378サア汝(なんぢ)は何者(なにもの)に頼(たの)まれたか、379一伍(いちぶ)一什(しじふ)を白状(はくじやう)致(いた)せ』
380テール『ハイ、381今(いま)になつて能(よ)く考(かんが)へて見(み)ますれば、382あまり御(ご)両人(りやうにん)様(さま)の御(お)身(み)の上(うへ)を案(あん)じ過(すご)して居(を)つたもので御座(ござ)いますから、383知(し)らず知(し)らずに眠(ねむ)つた間(あひだ)に、384あんな恐(おそ)ろしい夢(ゆめ)を見(み)たので御座(ござ)いませう』
385 竜雲(りううん)は安心(あんしん)と怒(いか)りの混線(こんせん)した声(こゑ)を張(は)り上(あ)げて、
386竜雲『不都合(ふつがふ)至極(しごく)の卑怯者(ひけふもの)、387否(いな)馬鹿者(ばかもの)だなア。388以後(いご)はキツと慎(つつし)んだがよからうぞ』
389テール『ハイ、390誠(まこと)に誠(まこと)にソソウ致(いた)しました……』
391ケールス姫『ホヽヽヽヽ、392えらい夢(ゆめ)の相伴(しやうばん)をしたものだ』
393(大正一一・九・二三 旧八・三 松村真澄録)
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