霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第五章 忍(しの)ぶ恋(こひ)〔一〇八九〕

インフォメーション
著者:出口王仁三郎 巻:霊界物語 第40巻 舎身活躍 卯の巻 篇:第1篇 恋雲魔風 よみ(新仮名遣い):れんうんまふう
章:第5章 忍ぶ恋 よみ(新仮名遣い):しのぶこい 通し章番号:1089
口述日:1922(大正11)年11月01日(旧09月13日) 口述場所: 筆録者:松村真澄 校正日: 校正場所: 初版発行日:1924(大正13)年5月25日
概要: 舞台: あらすじ[?]このあらすじはMさん作成です(一部加筆訂正してあります)。一覧表が「王仁DB」にあります。[×閉じる]:
鬼熊別と石生能姫は奥の間に端座し、向かい合いながらしばし沈黙していた。鬼熊別は内心、大黒主の寵愛を受けハルナの館を取り仕切る石生能姫が共も連れずに一人やってきたことに何か深い仔細があるものと警戒していた。
石生能姫は、鬼熊別を慕う自分の心中を明かそうという決意でやってきたのだが、いざ鬼熊別に対面するとその思いはどこかへ消えてしまったかのようであった。
鬼熊別は、大黒主が自分を信任することは決してないことを知っていたが、すでに浮世には心にかけることはないと覚悟をしていることから、石生能姫の命にしたがって左守の留守役を引き受けたことを明かした。
また鬼熊別は実際のところ、大黒主を堕落させた毒婦として石生能姫のことを見ていたことを明かし、一日も早く前非を悔いて自害し、大黒主の目を覚ますようにと厳しく責め立てた。
石生能姫は返す言葉もなく泣き伏し、自分自身も大黒主が本妻をないがしろにして職務に身を入れていないことを嘆いていることを明かした。そして自分の身の上話を始め、元は三五教の信者であったが両親に生き別れ、まだ幼少のころに大黒主に見初められて小間使いとして連れてこられたことを語った。
しかし大黒主は、長じた自分を寵愛し、恩ある鬼雲姫が自分のために大黒主から疎まれてしまう結果となった。そのことを苦にして自害しようとしたが、そのたびに中空から声が聞こえて押しとどめられたという。
そのため、大黒主に唯一忠言できる自分の立場を鑑み、バラモン教の柱石となる人物を守ることが自分の役割だと思い切って、これまで活動してきたのだと胸中を明かした。
鬼熊別は、石生能姫のバラモン教に対する赤誠を感じ、これまで毒婦と思ってきたことを詫びた。そして、大黒主の考えを改めてバラモン教の立て直しをしたいという自分の思いを石生能姫に吐露した。
石生能姫は、大黒主の我は左守の軍がウラル教徒に敗れなければ折れないことまで見通しており、その機をうかがいながら、共に協力してハルナ城内を清めようと鬼熊別に決心の内を明かした。
鬼熊別と石生能姫は志を同じくし、共にバラモン教の立て直しのために働くことを誓って別れた。鬼熊別は神殿に向かい、バラモン神に感謝の祝詞を奏上して涙を流した。
主な登場人物[?]【セ】はセリフが有る人物、【場】はセリフは無いがその場に居る人物、【名】は名前だけ出て来る人物です。[×閉じる]: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2022-11-28 11:59:06 文字数:4689 OBC :rm4005
愛善世界社版:56頁 八幡書店版:第7輯 437頁 修補版: 校定版:58頁 普及版:27頁 初版: ページ備考:
001 鬼熊別(おにくまわけ)、002石生能(いその)姫(ひめ)の二人(ふたり)は奥(おく)の間(ま)に端坐(たんざ)し、003双方(さうはう)から互(たがひ)に顔(かほ)を見合(みあは)せ、004暫(しば)し沈黙(ちんもく)の幕(まく)がおりた。005鬼熊別(おにくまわけ)は心(こころ)の中(うち)にて……夜前(やぜん)の熊彦(くまひこ)の報告(はうこく)と云(い)ひ、006又(また)途中(とちう)の大橋(おほはし)を落(おと)しおきたるにも拘(かかは)らず、007女(をんな)の身(み)として供(とも)をもつれず、008身分(みぶん)をも弁(わきま)へず訪(たづ)ね来(きた)りしは何(なに)か深(ふか)き仔細(しさい)のあるならむと、009口(くち)をつぐんで石生能(いその)姫(ひめ)の言葉(ことば)の切出(きりだ)しを待(ま)つてゐた。010石生能(いその)姫(ひめ)も亦(また)今更(いまさら)の如(ごと)く鬼熊別(おにくまわけ)の儼然(げんぜん)たる態度(たいど)に気(き)を呑(の)まれ、011胸(むね)に積(つも)りし数々(かずかず)を述(の)べ立(た)てむとしたる事(こと)の、012何時(いつ)の間(ま)にやら、013どこともなく消(き)え失(う)せて、014出(だ)す言葉(ことば)も知(し)らず稍(やや)躊躇(ちうちよ)狼狽(らうばい)の態(てい)にて首(くび)を傾(かたむ)け、015黙然(もくねん)として差俯(さしうつ)むいてゐる。016かくして四半時(しはんとき)ばかり沈黙(ちんもく)の内(うち)に時(とき)は容赦(ようしや)なく過去(すぎさ)つた。017思(おも)ひ切(き)つたやうに石生能(いその)姫(ひめ)は稍(やや)顔(かほ)を赤(あか)らめて、
018石生能姫『独身(どくしん)生活(せいくわつ)を遊(あそ)ばす貴方(あなた)様(さま)のお宅(たく)を女(をんな)の分際(ぶんざい)として供(とも)をもつれず只(ただ)一人(ひとり)、019御(ご)訪問(はうもん)申上(まをしあ)げましたに就(つい)ては、020貴方(あなた)も嘸(さぞ)御(ご)迷惑(めいわく)で厶(ござ)いませう。021奥様(おくさま)やお嬢様(ぢやうさま)は三五教(あななひけう)とやらに入信(にふしん)遊(あそ)ばして、022貴方(あなた)は只(ただ)一人(ひとり)苦節(くせつ)を守(まも)り、023独身(どくしん)生活(せいくわつ)をつづけて、024お道(みち)の為(ため)お国(くに)の為(ため)に昼夜(ちうや)御(ご)辛労(しんらう)を遊(あそ)ばす、025其(その)見上(みあ)げたお志(こころざし)、026実(じつ)に感服(かんぷく)の至(いた)りで厶(ござ)います』
027 鬼熊別(おにくまわけ)は漸(やうや)くにして口(くち)を開(ひら)き、
028鬼熊別『御用(ごよう)は何(なん)で厶(ござ)いますか。029どうぞ手取(てつと)り早(ばや)く仰有(おつしや)つて下(くだ)さいませ。030又々(またまた)大黒主(おほくろぬし)様(さま)の嫌疑(けんぎ)を受(う)けては互(たがひ)の迷惑(めいわく)、031サ、032早(はや)く御用(ごよう)の趣(おもむき)を』
033とせき立(た)てれば、034石生能(いその)姫(ひめ)は悲(かな)しげに、035涙声(なみだごゑ)にて、
036石生能姫『ハイ何(なに)から申上(まをしあ)げて宜(よろ)しいやら、037只今(ただいま)迄(まで)斯(か)うも申上(まをしあ)げたい、038あゝも申上(まをしあ)げたいと胸(むね)に一杯(いつぱい)になつて居(を)りましたが、039貴方(あなた)の儼然(げんぜん)たるお姿(すがた)を拝(はい)して、040俄(にはか)にどつかへ隠(かく)れて了(しま)ひました。041どうぞゆるゆると申上(まをしあ)げますから気(き)を長(なが)くお聞取(ききと)り下(くだ)さいませ』
042鬼熊別『私(わたくし)は御存(ごぞん)じの通(とほ)り、043大黒主(おほくろぬし)様(さま)に種々(しゆじゆ)雑多(ざつた)の嫌疑(けんぎ)を蒙(かうむ)り、044左守(さもり)の聖職(せいしよく)まで取剥(とりは)がれ、045何(なん)となく両者(りやうしや)の間(あひだ)には、046形容(けいよう)し難(がた)き妖雲(えううん)漂(ただよ)ひ、047今(いま)にも雨(あめ)か風(かぜ)か雷鳴(らいめい)かといふ殺風景(さつぷうけい)な空気(くうき)が包(つつ)んで居(を)りましたが、048昨日(きのう)の外教(ぐわいけう)征伐(せいばつ)の相談(さうだん)の際(さい)、049貴方(あなた)様(さま)のお取成(とりな)しに依(よ)つて再(ふたた)び元(もと)の左守(さもり)に任(にん)ぜられ、050私(わたくし)としては身(み)に余(あま)る光栄(くわうえい)で厶(ござ)りますが、051之(これ)が却(かへつ)て私(わたくし)の為(ため)には大(だい)なる災(わざはひ)とならうも知(し)りませぬ。052大黒主(おほくろぬし)様(さま)が心(こころ)の底(そこ)より御(ご)任命(にんめい)ならば私(わたくし)も喜(よろこ)んでお受(う)けを致(いた)しますが、053代理権(だいりけん)の御(ご)執行(しつかう)とはいへ、054決(けつ)して大黒主(おほくろぬし)様(さま)は私(わたくし)を御(ご)信任(しんにん)遊(あそ)ばして厶(ござ)る筈(はず)は厶(ござ)いませぬ。055早速(さつそく)御(ご)辞退(じたい)申(まう)さむかと其(その)場(ば)で思(おも)ひましたが、056さうしては物事(ものごと)に角(かど)が立(た)ち、057円満(ゑんまん)解決(かいけつ)が出来難(できにく)い、058又(また)外(そと)に向(むか)つて勁敵(けいてき)を控(ひか)へ、059兵馬(へいば)の勢力(せいりよく)は大部分(だいぶぶん)外(そと)に出(い)で、060ハルナ城(じやう)は守(まも)り薄弱(はくじやく)となつた此(この)際(さい)、061兄弟(けいてい)牆(かき)にせめぐ如(ごと)き愚(ぐ)を演(えん)じてはお道(みち)の不利益(ふりえき)と存(ぞん)じまして、062口(くち)まで出(で)かけてゐた辞退(じたい)の言葉(ことば)を呑(の)みこみ、063無念(むねん)をこらへて、064左守(さもり)たることをお受(う)け致(いた)したやうな次第(しだい)で厶(ござ)います。065実(じつ)の所(ところ)を申(まを)せば、066私(わたくし)の心(こころ)は最早(もはや)浮世(うきよ)が厭(いや)になり、067地位(ちゐ)も名望(めいばう)も財産(ざいさん)も女房(にようばう)も欲(ほ)しくはありませぬ。068暫(しばら)く山林(さんりん)に隠遁(いんとん)して、069光風(くわうふう)霽月(せいげつ)を友(とも)とし余生(よせい)を送(おく)りたきは山々(やまやま)なれども、070バラモン教(けう)の今日(こんにち)の内情(ないじやう)を見(み)ては、071左様(さやう)な勝手(かつて)なことも出来(でき)ませず、072大神(おほかみ)様(さま)に対(たい)し奉(たてまつ)り、073これ位(くらゐ)不孝(ふかう)の罪(つみ)はないと存(ぞん)じ、074心(こころ)ならずも御用(ごよう)を承(うけたま)はることに致(いた)しましたやうな次第(しだい)で厶(ござ)います。075そして貴女(あなた)、076途中(とちう)に何(なに)か変(かは)つたことは厶(ござ)りませなんだかな』
077石生能姫『ハイ別(べつ)に変(かは)りもなかつた様(やう)ですが、078此方(こちら)へ参(まゐ)る途中(とちう)、079九十九(つくも)橋(ばし)が何者(なにもの)にか打落(うちおと)され、080已(や)むを得(え)ず一(いち)里(り)ばかり下手(しもて)へ参(まゐ)り、081百代橋(ももよばし)を渡(わた)つて、082お館(やかた)を訪(たづ)ねて参(まゐ)りました。083途上(とじやう)伝(つた)ふる所(ところ)によれば、084何(なん)でも斯(か)う申(まを)すとお気(き)にさへられるか存(ぞん)じませぬが、085貴方(あなた)様(さま)の身内(みうち)の者(もの)が、086何(なん)等(ら)かの考(かんが)へで打落(うちおと)したとか云(い)ふ噂(うはさ)で厶(ござ)います。087どうぞ此(この)事(こと)が大黒主(おほくろぬし)に聞(きこ)えねばよいがと実(じつ)は心配(しんぱい)を致(いた)しつつ参(まゐ)つたので厶(ござ)います』
088鬼熊別『又(また)一(ひと)つ嫌疑(けんぎ)の種(たね)がふえましたな。089モウ私(わたくし)は何事(なにごと)も覚悟(かくご)を致(いた)して居(を)ります。090一切(いつさい)万事(ばんじ)神(かみ)様(さま)に任(まか)した身(み)の上(うへ)、091如何(いか)なる災難(さいなん)がふりかかつて来(こ)ようとも、092少(すこ)しも恐(おそ)れは致(いた)しませぬ。093併(しか)し又(また)貴女(あなた)が一人(ひとり)でお越(こ)しになつたに付(つ)いては合点(がてん)のゆかぬことが厶(ござ)います。094あれ丈(だけ)鬼雲彦(おにくもひこ)様(さま)が嫉妬心(しつとしん)深(ふか)く、095束(つか)の間(ま)も貴女(あなた)の側(そば)を離(はな)れないといふ御(お)方(かた)が今日(けふ)に限(かぎ)つて、096只(ただ)一人(ひとり)外出(ぐわいしゆつ)を許(ゆる)されるとは、097合点(がてん)のゆかぬことで厶(ござ)います。098大方(おほかた)夫婦(ふうふ)喧嘩(げんくわ)でも遊(あそ)ばして、099貴女(あなた)は城内(じやうない)をぬけ出(だ)して来(こ)られたのぢや厶(ござ)いませぬか』
100石生能姫『イエ決(けつ)して決(けつ)して、101夫(をつと)の諒解(りやうかい)を得(え)て、102只(ただ)一人(ひとり)忍(しの)んで参(まゐ)りました』
103鬼熊別『ハテ、104益々(ますます)合点(がてん)が行(ゆ)かぬ。105これには何(なに)か深(ふか)い計略(けいりやく)のあることだろう……イヤ石生能(いその)姫(ひめ)殿(どの)、106打割(うちわ)つて申(まを)さば、107貴女(あなた)の如(ごと)き毒婦(どくふ)に物(もの)申(まを)すのも汚(けが)らはしう厶(ござ)る』
108石生能姫『エヽ何(なん)と仰(あふ)せられます。109それほど妾(わたし)をお憎(にく)みで厶(ござ)いますか。110そりやマア如何(どう)した訳(わけ)で……』
111鬼熊別『訳(わけ)は言(い)はなくても、112貴女(あなた)のお心(こころ)にお尋(たづ)ねなされば、113キツと分(わか)るでせう。114よく考(かんが)へて御覧(ごらん)なさい。115大切(たいせつ)な奥様(おくさま)を放出(ほりだ)し、116貴女(あなた)はのめのめと其(その)後釜(あとがま)にすわり、117平気(へいき)の平座(へいざ)で女王面(ぢよわうづら)をさらして厶(ござ)る。118そのお振舞(ふるまひ)が鬼熊別(おにくまわけ)には気(き)に入(い)りませぬ。119左様(さやう)なことをなさるものだから、120神(かみ)様(さま)の御(お)怒(いか)りにふれ、121三五教(あななひけう)やウラル教(けう)がハルナの都(みやこ)に向(むか)つて攻(せ)め寄(よ)せて来(く)るやうになつたのです。122一(いち)日(にち)も早(はや)く前非(ぜんぴ)を悔(く)い、123奥様(おくさま)に一(ひと)つはお詫(わび)の為(ため)、124一(ひと)つは大黒主(おほくろぬし)様(さま)の御(ご)改心(かいしん)の為(ため)に、125立派(りつぱ)に自害(じがい)をしてお果(は)てなされ。126それ丈(だけ)の真心(まごころ)がなくては、127到底(たうてい)此(この)神業(しんげふ)はつとまりませぬぞ』
128と儼然(げんぜん)として叱(しか)るやうに言(い)つてのけた。129其(その)権幕(けんまく)の烈(はげ)しさに、130石生能(いその)姫(ひめ)は返(かへ)す言葉(ことば)もなく、131ワツとばかりに其(その)場(ば)に泣(な)き倒(たふ)れた。
132 暫(しばら)くにして目(め)をおしぬぐひ、133顔(かほ)をあげ、134細(ほそ)き声(こゑ)にて、
135石生能姫『あなたの御(お)言葉(ことば)は真(しん)に御尤(ごもつと)もで厶(ござ)います。136妾(わたし)もあなたと同感(どうかん)、137此(この)事(こと)に就(つ)いてはどれ丈(だけ)胸(むね)を痛(いた)めて居(を)るか分(わか)りませぬ』
138鬼熊別『それ程(ほど)胸(むね)を痛(いた)めるやうなことを何故(なぜ)なさいますか。139貴女(あなた)の決心(けつしん)一(ひと)つで、140如何(どう)でもなるぢやありませぬか』
141石生能姫『夫(をつと)の恥(はぢ)を申上(まをしあ)げて不貞(ふてい)くされの女(をんな)だとおさげすみを蒙(かうむ)るか存(ぞん)じませぬが、142モウ斯(か)うなつては一伍(いちぶ)一什(しじふ)を申(まを)しあげねばなりますまい。143どうぞ暫(しばら)く聞(き)いて下(くだ)さいませ。144私(わたし)は元(もと)は三五教(あななひけう)の信者(しんじや)の娘(むすめ)、145石生子(いそこ)と申(まを)しました。146幼少(えうせう)より両親(りやうしん)に生別(いきわか)れ、147彼方(あちら)此方(こちら)と彷徨(さまよ)ふ中(うち)、148大黒主(おほくろぬし)様(さま)が狩(かり)に散歩(さんぽ)の途中(とちう)、149私(わたし)を一目(ひとめ)見(み)るより、150吾(わが)家(や)へ来(きた)れと仰有(おつしや)つて連(つ)れ帰(かへ)り、151奥様(おくさま)の小間使(こまづかひ)として御(ご)夫婦(ふうふ)の方(かた)に可愛(かあい)がられ、152仕(つか)へて居(を)りました所(ところ)、153ある夜(よ)、154恥(はづ)かしながら、155大黒主(おほくろぬし)様(さま)の無理(むり)難題(なんだい)、156奥様(おくさま)にすまぬこととは知(し)りながら女(をんな)の心(こころ)弱(よわ)き所(ところ)から、157御(ご)機嫌(きげん)を損(そこ)ねまいと、158大黒主(おほくろぬし)様(さま)の要求(えうきう)に応(おう)じました。159それより御(ご)主人(しゆじん)は朝(あさ)から晩(ばん)迄(まで)、160私(わたし)を手許(てもと)に引寄(ひきよ)せ、161奥様(おくさま)に対(たい)して小言(こごと)ばかり仰有(おつしや)る様(やう)になり、162私(わたし)は立(た)つてもゐても居(ゐ)られないので、163いろいろと御(ご)意見(いけん)申上(まをしあ)げましたけれども、164お聞(き)き遊(あそ)ばさず、165とうとう奥様(おくさま)を、166あの通(とほ)り追出(おひだ)してお了(しま)ひになりました。167私(わたし)も世間(せけん)からいろいろと悪評(あくひやう)を立(た)てられ生(い)きてゐる甲斐(かひ)もなく、168外(そと)を歩(ある)くのも恥(はづ)かしく、169一層(いつそう)のこと自害(じがい)して心(こころ)の潔白(けつぱく)を示(しめ)し、170奥様(おくさま)にお詫(わび)致(いた)さうかと幾度(いくたび)となく自害(じがい)の覚悟(かくご)をきめましたが、171どこともなく中空(ちうくう)に声(こゑ)聞(きこ)え、172待(ま)て待(ま)てと止(と)められるので、173面白(おもしろ)からぬ月日(つきひ)を今日(けふ)迄(まで)永(なが)らへて来(き)たので厶(ござ)います。174所(ところ)がお館(やかた)に奸者(かんじや)侫人(ねいじん)跋扈(ばつこ)し、175あなた様(さま)の御(お)身(み)の上(うへ)を悪(あ)しきさまに大黒主(おほくろぬし)に申上(まをしあ)ぐる者(もの)、176日々(にちにち)其(その)数(すう)を加(くは)へ、177主人(しゆじん)は御存(ごぞん)じの通(とほ)りの短気者(たんきもの)故(ゆゑ)、178あなた様(さま)をふん縛(じば)り、179厳(きび)しき刑罰(けいばつ)に処(しよ)せむと息(いき)まくこと一再(いつさい)ならず、180之(これ)を思(おも)へば私(わたし)は今(いま)死(し)んでも死(し)なれない。181主人(しゆじん)が如何(いか)なる事(こと)でも、182私(わたし)の言(い)ふ事(こと)なら聞(き)いてくれるのを幸(さいは)ひ、183バラモン教(けう)の柱石(ちうせき)をムザムザ失(うしな)つては大変(たいへん)だと、184いろいろと今日(けふ)まで諫言(かんげん)を致(いた)し、185蔭(かげ)乍(なが)らあなたの御(ご)身辺(しんぺん)を守(まも)つて来(き)た者(もの)で厶(ござ)います。186どうぞあなたもお道(みち)を思(おも)ひ、187国(くに)を思(おも)ふ真心(まごころ)をモ一(ひと)つ発揮(はつき)して、188私(わたし)と共(とも)に此(この)教(をしへ)と国(くに)を守(まも)つて下(くだ)さいますまいか。189今(いま)私(わたし)が自害(じがい)して果(は)てたならば、190あなた様(さま)の身辺(しんぺん)は忽(たちま)ち危(あやふ)くなるでせう、191否々(いないな)あなたは神力(しんりき)無双(むさう)の神司(かむづかさ)、192ヤミヤミ討(う)たれはなさいますまいが、193内憂(ないいう)外患(ぐわいくわん)の烈(はげ)しき今日(こんにち)、194両虎(りやうこ)共(とも)に鎬(しのぎ)を削(けづ)つて争(あらそ)ふ時(とき)は、195勢(いきほひ)共(とも)に全(まつた)からず、196どちらか傷(きず)ついて倒(たふ)れ、197バラモン教国(けうこく)の覆滅(ふくめつ)は火(ひ)を睹(み)るよりも明(あきら)かで厶(ござ)います。198何卒(どうぞ)ここの道理(だうり)を聞分(ききわ)けて、199私(わたし)の精神(せいしん)をお悟(さと)り下(くだ)さいます様(やう)に御(お)願(ねが)ひ申(まを)します。200此(この)事(こと)の御(ご)相談(さうだん)を申上(まをしあ)げたさに、201主人(しゆじん)の手前(てまへ)を甘(うま)くつくろひ、202あなたの腹中(ふくちう)を探(さぐ)つて来(く)ると申(まを)して参(まゐ)りました』
203と涙(なみだ)ながらに一伍(いちぶ)一什(しじふ)を物語(ものがた)つた。204鬼熊別(おにくまわけ)は稍(やや)顔色(かほいろ)を和(やは)らげ、
205鬼熊別『石生能(いその)姫(ひめ)殿(どの)、206左様(さやう)で厶(ござ)つたか。207かかる清(きよ)き尊(たふと)きお志(こころざし)とは知(し)らず、208今(いま)まで貴女(あなた)を毒婦(どくふ)、209奸婦(かんぷ)と見(み)くびり憎(にく)んで居(を)りましたのは誠(まこと)に私(わたくし)が不明(ふめい)の致(いた)す所(ところ)、210どうぞ赦(ゆる)して下(くだ)さい。211何(なに)を言(い)ふも暗黒(あんこく)の世(よ)の中(なか)、212到底(たうてい)人間(にんげん)の心(こころ)の底(そこ)は分(わか)るものでは厶(ござ)いませぬ。213私(わたくし)だつて其(その)通(とほ)り、214数多(あまた)の侫人(ねいじん)ばらに讒訴(ざんそ)され、215円満(ゑんまん)なるべき大黒主(おほくろぬし)様(さま)との仲(なか)に垣(かき)が出来(でき)たのも全(まつた)く互(たがひ)の誤解(ごかい)からで厶(ござ)いませう。216大黒主(おほくろぬし)様(さま)もあの様(やう)な悪(わる)い方(かた)ではなかつた筈(はず)ですが、217何時(いつ)の間(ま)にやら稍(やや)御(ご)安心(あんしん)なさつた虚(きよ)に乗(じやう)じ、218曲神(まがかみ)に身魂(みたま)を襲(おそ)はれ給(たま)うたので厶(ござ)りませう。219あゝ何(なん)とかして其(その)悪魔(あくま)を退散(たいさん)させたいもので厶(ござ)いますなア』
220石生能姫『ハイ有難(ありがた)う、221よく云(い)つて下(くだ)さいました。222どうぞあなたはお道(みち)の為(ため)、223国(くに)の為(ため)と思召(おぼしめ)し、224不愉快(ふゆくわい)を忍(しの)んで、225御(ご)登城(とじやう)下(くだ)さいまして、226左守(さもり)としての職責(しよくせき)を完全(くわんぜん)にお尽(つく)し下(くだ)さいませ。227私(わたし)が及(およ)ばずながら内助(ないじよ)の労(らう)を取(と)りますから。228併(しか)し乍(なが)ら前(まへ)以(もつ)て申上(まをしあ)げておきますが、229大黒主(おほくろぬし)様(さま)は中々(なかなか)容易(ようい)に改心(かいしん)は出来(でき)ますまい。230イソの館(やかた)に向(むか)つた鬼春別(おにはるわけ)やカルマタ国(こく)に向(むか)つた大足別(おほだるわけ)が一敗(いつぱい)地(ち)にまみれ、231往生(わうじやう)をした上(うへ)でなくては、232到底(たうてい)あのキツイ我(が)は折(を)れますまい。233どうぞ、234あなたはお道(みち)の為(ため)、235国(くに)の為(ため)に身(み)を挺(てい)して刃(やいば)の中(なか)をくぐる大覚悟(だいかくご)を以(もつ)て御(ご)出勤(しゆつきん)を願(ねが)ひます。236幸(さいは)ひ私(わたし)は大黒主(おほくろぬし)の寵愛(ちようあい)を得(え)て居(を)りますから、237其(その)段(だん)は大変(たいへん)に好都合(かうつがふ)で厶(ござ)ります。238折(をり)を見(み)て鬼雲姫(おにくもひめ)様(さま)を元(もと)の奥様(おくさま)に直(なほ)つて貰(もら)ふやうに取計(とりはか)らひませう。239それに付(つ)いては到底(たうてい)私(わたし)一人(ひとり)の力(ちから)で及(およ)びますまいから、240あなたと私(わたし)と力(ちから)を併(あは)せて、241ハルナの城内(じやうない)を先(ま)づ清(きよ)め、242悪魔(あくま)を郤(しりぞ)けようでは厶(ござ)いませぬか』
243鬼熊別『そこ迄(まで)の女(をんな)の貴女(あなた)の御(ご)決心(けつしん)、244イヤもう実(じつ)に感服(かんぷく)仕(つかまつ)りました。245左様(さやう)なれば、246私(わたし)も貴女(あなた)の真心(まごころ)に感(かん)じ、247身(み)を挺(てい)して大改革(だいかいかく)にかかりませう。248何卒(どうぞ)御(ご)内助(ないじよ)を願(ねが)ひます様(やう)、249実(じつ)の所(ところ)昨夜(さくや)あなたは御存(ごぞん)じなけれども、250大黒主(おほくろぬし)様(さま)の御(ご)内命(ないめい)にて近侍(きんじ)の者(もの)等(ら)数十(すうじふ)名(めい)、251吾(わが)館(やかた)へ襲来(しふらい)し、252夜陰(やいん)に紛(まぎ)れて吾(わが)命(いのち)を奪(うば)はむと致(いた)されました。253其(その)計略(けいりやく)を或(ある)者(もの)より承(うけたま)はり、254家老(からう)の熊彦(くまひこ)が計(はか)らひにて、255あの橋(はし)を落(おと)させておいた様(やう)な次第(しだい)で厶(ござ)いますから、256何(いづ)れ大黒主(おほくろぬし)様(さま)より一問題(ひともんだい)が私(わたし)に対(たい)し持上(もちあ)がるものと、257覚悟(かくご)は致(いた)して居(を)ります』
258 石生能(いその)姫(ひめ)はこれを聞(き)いて驚(おどろ)き呆(あき)れ、259身(み)を震(ふる)はしながら、
260石生能姫『ソリヤまあ真実(しんじつ)で厶(ござ)いますか、261大変(たいへん)な事(こと)になるとこで厶(ござ)いました。262ヤ私(わたし)がこれから帰(かへ)りまして、263それとはなしに探(さぐ)つてみませう。264又(また)あなたに難題(なんだい)のかかるやうなことは決(けつ)してさせませぬから………あゝモウ暫(しばら)く御(お)邪魔(じやま)が致(いた)したいので厶(ござ)いますが、265余(あま)り長(なが)くなると又(また)疑惑(ぎわく)の種(たね)を蒔(ま)きますから、266お名残(なごり)惜(を)しう厶(ござ)いますが、267これにて失礼(しつれい)致(いた)します…………』
268と妙(めう)な目使(めづか)ひにて鬼熊別(おにくまわけ)を見守(みまも)つた。269あゝ斯(か)くの如(ごと)き心(こころ)正(ただ)しき石生能(いその)姫(ひめ)も恋(こひ)には迷(まよ)ふ心(こころ)の闇(やみ)、270上下(じやうげ)の隔(へだて)なしとはよく云(い)つたものである。271鬼熊別(おにくまわけ)は石生能(いその)姫(ひめ)に左様(さやう)な心(こころ)ありとは、272夢(ゆめ)にも知(し)らず、273嬉(うれ)し涙(なみだ)を流(なが)しながら、274石生能(いその)姫(ひめ)の手(て)を固(かた)く握(にぎ)り、
275鬼熊別『コレ姫(ひめ)様(さま)、276随分(ずゐぶん)気(き)を付(つ)けなさいませ。277貴女(あなた)の体(からだ)は大切(たいせつ)なお身(み)の上(うへ)、278私(わたくし)と貴女(あなた)と力(ちから)を合(あ)はして居(を)りさへすれば、279ハルナの都(みやこ)は大丈夫(だいぢやうぶ)で厶(ござ)います』
280と一層(いつそう)強(つよ)く手(て)を握(にぎ)りしめた。281石生能(いその)姫(ひめ)は日頃(ひごろ)思(おも)ひ込(こ)んだ鬼熊別(おにくまわけ)に手(て)を固(かた)く握(にぎ)られ、282嬉(うれ)しさに胸(むね)を轟(とどろ)かせ、283覚束(おぼつか)なげに細(ほそ)き手(て)を伸(の)べて、284力限(ちからかぎ)り鬼熊別(おにくまわけ)の手(て)を握(にぎ)り返(かへ)し、285流(なが)し目(め)に顔(かほ)を見上(みあ)げて、286ホロリと一雫(ひとしづく)涙(なみだ)の雨(あめ)と共(とも)に名残(なごり)惜(を)しげに後振返(あとふりかへ)り振返(ふりかへ)り、287館(やかた)をしづしづと立(た)つて帰(かへ)り行(ゆ)く。288鬼熊別(おにくまわけ)は玄関口(げんくわんぐち)まで姫(ひめ)を見送(みおく)り、289そこにて別(わか)れを告(つ)げ、290午後(ごご)は必(かなら)ず参勤(さんきん)すべきことを約(やく)して、291暫(しば)しの別(わか)れを告(つ)げた。292後(あと)に鬼熊別(おにくまわけ)は神殿(しんでん)に向(むか)ひ、293感謝(かんしや)祈願(きぐわん)の祝詞(のりと)を奏上(そうじやう)し………あゝ未(いま)だバラモン神(しん)は吾(われ)等(ら)を捨(す)て給(たま)はざるか、294有難(ありがた)し勿体(もつたい)なや………と両手(りやうて)を合(あは)せ、295感謝(かんしや)の涙(なみだ)を滝(たき)の如(ごと)く流(なが)すのであつた。
296(大正一一・一一・一 旧九・一三 松村真澄録)
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