朝未明、夜来の雨は止まず風さへ加はりて、四方の山々は雨雲の幕曳きまはし、天地に水気ただよふ。小雀の声十姉妹の囀りも旅の吾には一種の情味こそあれ。淑子の君は結婚間近くなりて凡ての準備に忙しく緑の黒髪を桃割に結びたる艶麗なる容姿は一目有情の男子をして悩殺さしむべき危険性を帯びたり。俳人鳴球氏是を見て
「桃割は貞操を割るの始めなり」
と紙片に書きて淑子嬢に手交したるに、嬢は直に
「桃割は愚丸髷主の花」
と返したるに満座一時に春めきて賑はしく、其笑声は三階の吾机上にも響きたるまま誌しおきぬ。
「桃割の天窓はやがて桃太郎 割り出す為の準備なるらん」
○追想歌
一
二名の洲に渡らむと
法の花咲く花明山の
天恩郷を後にして
一行五人亀岡の
駅に自動車馳せてゆく
見送る人は百余名
各自にハンカチ振り乍ら
汽笛の声と諸共に
二
後ふり返り眺むれば
公孫樹の茂る高台に
輝き渡る神集殿
月宮殿の鉄骨は
朝日に赤く照り映えて
名残を惜む如くなり
激潭飛沫の保津の渓
水の流れも矢の如く
弓如すトンネル潜り抜け
嵐山鉄橋打ち渡り
新緑萌ゆる川の辺の
嵐峡館や水青む
千鳥ヶ淵を右手に見て
万代動かぬ亀山の
長トンネルに吸はれけり
花より団子の嵯峨の宿
乗降客の声高く
聞く間もあらずまつしぐら
法の花映ゆ妙心寺
花園駅もかすみつつ
鉄路も二條や丹波口
東西真宗大巨刹
本願寺堂左手にし
三
明石通ひの急行に
一行五人はのりかへて
初夏の風吹く田圃路を
流れも清き桂川
鉄橋高く打ち渡り
西へ西へと向日町
上る山崎高槻や
客も吹田の里越えて
よしもあしきも浪花江の
大阪駅に着きにけり
難波分所の内藤氏
始め宣信数十人
二名の旅を送らむと
同車し従ふ神戸駅
船待つ間の三時間
神戸分所に参拝し
夕飯よばれ大前に
航海無事を祈りつつ
法談しばし時満ちて
汽笛の声に一同は
波止場をさして急ぎけり
乗り込む船は浦戸丸
一千三百二十噸
見送る宣使まめ人の
好意に感謝の涙しつ
数十條のテープをば
甲板上より投げやれば
先を争ひ手に握る
四
時刻来たれば浦戸丸
錨を捲きて動き出す
テープは次第に伸び伸びて
五色の波を中空に
彩りながら行く行かぬ
互に姿の見えぬまで
ハンカチ旗なぞ振りかざし
月照る瀬戸の海原を
千思万考乗せながら
無心の船は進み行く
嗚呼惟神惟神
五
雷声轟く波の上
渦巻き渡る鳴戸灘
危険区域の潮流も
安々夢にのり越えて
まなこ醒ませば室戸岬
二万燭光の灯台は
海の面を射照して
往き来の船を守りけり
太平洋の荒浪も
今日は殊更平穏に
魚鱗の波に月映えて
壮観たとふる物もなし
東の空は白みつつ
優しく聞ゆる海鳥の
声に漸く眼さむれば
土佐の島影青々と
緑の衣着飾りて
吾一行の旅立ちを
微笑み迎ふる風情なり
風光明媚ときこえたる
浦戸湾内のり入れば
右と左の島々は
霞のきぬに包まれて
潮水青く風清く
数多の漁船を揺り乍ら
浪を蹴立てて桟橋に
吾のる船はつきにけり
五月七日の七時頃
支部長その他に迎へられ
高知の市中突きぬけて
分所の神前に拝礼し
筆山風致賞しつつ
流れも清き鏡川
牛追橋のほとりなる
六
年にお米の二度獲れる
天恵豊なな土佐の国
果物みのり野菜もの
外に優れし味の良さ
南に太平の洋を抱き
気候順良く暖かき
常磐の春の風光を
遠き神代の昔より
弥継ぎ継ぎに恵まれて
今に変らぬ山の色
青岳翠巒重畳し