伯耆の国の大山は、日本台地の要である。八岐大蛇の憑依せる大黒主の曲津見が、簸の川上に割拠して風雨をおこし洪水をおこし、稲田姫を悩ませ人の命を取ろうとしたことこそうたてけれ。
大正十二年癸亥年の春、如月の日光輝く夜見ヶ浜、小松林の中央に堅磐常盤に築いた神の恵みの温泉場、浜屋旅館の二階の間にて、いつもの通りに横に臥し、真善美愛第九巻、波斯と月の国境にてテルモン山の館に住まう小国別けの物語。
三千年の末までもその功を残した三五教の三千彦が、難行苦行の経緯をいよいよ語り、ただ一言も洩らさじと万年筆を走らせる。五十七巻の物語を完全に委曲に述べ終えて、綾の聖地の家苞になさしめ給へと大神の御前に謹み願ぎまつる。
三五教は大神の直接内流を受けて、愛の善と信の真をもって唯一の教理となし、智愛勇親の四魂を活用させ、善のために善を行い、用のために用を勤め、真のために真を励む。
ゆえにその言行心は常に神に向かい、神と共にあり、いわゆる神の生き宮にして天地経綸の主宰者たるの実を挙げ、生きながら天国に籍を置き、神の意志そのままを地上の蒼生に宣伝し実行し、もって衆生一切を済度するをもって唯一の務めとしていたのである。
バラモン教やウラル教その他の数多の教派のごとく、自愛または世間愛に堕して知らず知らずに神にそむき、虚偽を真理と信じ、悪を善と誤解するがごとき行動はとらなかったのである。
自愛および世間愛に堕落せる教えはいわゆる外道である。外道とは天地惟神の大道に外れた教えを言う。これみな邪神界に精霊を蹂躙され、知らず知らずに地獄界および兇党界に堕落したものである。
外道には九十五の種類があって、その主なるものはカビラ・マハールシといい、大黒主のことである。三五教の真善美の言霊に追いまくられて自転倒島の要と湧出した伯耆の国の大山に八岐大蛇の霊と共に割拠し、六師外道という悪魔を引き連れて天下をかく乱し、ついに素盞嗚尊によって言向け和されたのである。
六師外道の悪魔たちとは、
君臣父子の道を軽んじ優勝劣敗をもって人生の本義となし、死後の霊魂を否定するブランジャーカーシャバ
人間の善悪・吉凶・禍福はすべて動かせない運命から来ると主張するマスカリー・ガーシャリーブトラ
人間の苦は何もしなくても八万劫が来れば自然に道を得ると主張するサンジャイーヴィ・ラチャーブトラ
現世の苦しみ・苦行こそが来世の歓楽・栄華を約束すると説くアザタケー・シャカムバラ
種々雑多の利己的・形体的・自然的・世界的愛を盛んに主張するカクダカー・トヤーヤナ
人間の苦楽はすべて宿命・運命によって因縁が決まっておりそれを研究すべきだと説くニルケラントー・ヂニヤー・ヂブトラである。
続いて人間の十二因縁を説く。
無明とは、過去一切の煩悩である。
行とは、過去煩悩の造作をいう。
識とは、現世母の体中に託する陰妄の意識をいう。
名識の名とは心の四蘊である。
色とは形質の一蘊である。
六入とは、母の体中にある中において六根を成するをいう。
触とは、三四才までに外的の塵埃の根源に触れるを覚える状態をいう。
愛(え)とは、生まれて五六才より十二三才までの間に強く外部の塵埃を受けて好悪の識別を起こすをいう。
愛(あい)とは、十四五才より十八九才までの間に外塵を貪り愛する念慮を生じるをいう。
取とはニ十才以後いっそう強く外塵に執着の念を生じるをいう。
有とは、未来三有の果を招くべき種々の業因を造作し、積集するをいう。
生とは未来六道または八衢の中に生じるをいう。
老死とは未来愛生の身体、またついに朽壞するをいう。
この十二因縁はどうしても人間として避けるべからざることである。しかしながら、この十二因縁の関門を通過して、初めて人間は神の生涯に入り、永遠無窮の真の生命に入って、天人的生活を送るべきものである。
しかるに総ての多くの人間は、九十五種外道のために心身を曇らされたちまち地獄道に進み入り、宇宙の大元霊たる神に背き、無限の苦をなめるに至る者が多い。ゆえに神は厳瑞二霊を地上に下し天国の福音をあまねく宣伝せしめ、一人も残らず天国の住民たらんと聖霊を充たして予言者に来らせ給うたのである。
いかに現世において聖人賢人、有徳者と称えられるとも、霊界の消息に通じず、神の恩恵を無みするものは、その心すでに神に背けるがゆえに、とうてい天国の生涯を送ることはでき難いものである。約束なき救いは決して求められないものである。
ゆえに神は前にシャキームニ・タダーガタを下して霊界の消息を世人に示し給い、またハリストスやマホメットその他の真人を予言者として地上に下し、万民を天国に救う約束を垂れさせられた。されど九十五種外道の跋扈はなはだしく、神の約束を信ずるものほとんど無きに至った。それゆえ世はますます暗黒となり、餓鬼、畜生、修羅の巷となってしまった。
ここに至仁至愛なる皇大神は、この惨状を救うために厳瑞二霊を地上に下し、万民に神約を垂れ給うたのである。アアされど、無明暗黒の中に沈める一切の衆生は、救世の慈音に耳に傾くる者は少ない。実に思ってみれば悲惨の極みである。