二十八歳の頃
山王の山の尾の上を晃晃とかがやきのぼる十三夜の月
高熊の雌岩のかげにうづくまりわれただ一人瞑想にふける
大いなる雌岩の背に月てりてかたへは暗く影を落せり
琴滝の落つる水音夜あらしに吹かれみだるるしぶきに月照る
琴滝のふもとにひそびそ人の声きこゆるさまのいぶかしきかな
足音を忍ばせながら琴滝の上にひそびそ忍びよりたり
息こらし琴滝の上ゆうかがへば裸体の男二人たちをり
ほそぼそと落つる滝水浴びながらまたもやあやしき神憑してをり
ありがたい勿体ないぞ疑ふな俺はまことの天狗と言ひをり
疑ひはいたしませねど下司熊の行ひわが腑に落ちぬといふ爺
神の道にゐながら人をそしるとは怪しからぬぞときめつけてをり
世の人を泣かせ博奕はうちたれど改心のけふは神が使ふぞ
またしても偽神憑なしながら欲ぼけ親爺を下司熊あやつる
五万円の金のありかを神ならば知らして下されと祈れる親爺よ
その方の妹を女房にいたすなら百万円でも与ると言ひをり
ありかさへ先にお知らせ下さらば妹はすぐにあげますと言ふ
そりやいかぬ妹を先に下司が妻に渡せ順序が違ふと言ひをり
この下司に若しだまされてはわが妻にすまずと親爺頭ふりをり
現金な親爺なるかな欲ぼけて神第一といふこと知らぬか
神第一は知つてをります人第一は私はどしてもせぬと爺いふ
どこまでもこの神憑疑ふならば勝手にせよと下司熊いひをり
勝手にするくらゐなりせば真夜中にこの奥山には来ぬと爺いふ
恋と欲とにとぼけた男両人が滝をあびつついさかひてをり
天狗の実体
をかしさにわれは思はずふきだしてワツと笑へば二人は黙せり
あの声はどうやら喜楽に違ひない探そぢやないかと相談してをり
両人は手早く衣を身にまとひ滝の左右に分れてのぼる
ほの暗き雌岩のかげにうづくまり息をこらして忍びゐたりき
両人は恋と欲とに目がくらみわが姿さへ目に入らぬらし
喜楽奴は巌窟の中にゐるだらうなどと言ひつつ山かけ登る
両人のたち去るあとを月かげにすかしてほつと一息つきたり
蚊にさされ夜露にしめり苦しさをこらへて雌岩のかげに吾をり
しんしんと夜は更けわたり月高く頭上の木の間にかがやきにけり
われもまた雌岩のかげを這ひ出でて巌窟近くしのび寄りたり
五万円のありかありかと西塔は執念深く連発してをり
五万円の金よりまづは千円の金のありかを知らすと下司いふ
高熊の三つ葉つつじのその下に小判千両いけありと下司いふ
そんな事昔から俺は知つてゐるそりやこの山の伝説ぢやないか
伝説は知つてをれども本当の金のありかは誰も知るまい
三つ葉つつじありかわかればその下を掘れば出るよと偽神憑いへり
その三つ葉つつじのありかを神ならば今知らせよとなじる欲爺
そんな無茶いふ奴神も困るぞよなどと熊公の偽神憑
三つ葉つつじありかも知らぬ神ならば偽神憑と欲爺怒る
その方は神信心はおもてむき金かねばかりぬかす奴かな
貴様こそ神鰹節にわが妹恋にとぼけて欲しがる奴だよ
喧嘩
今晩に金のありかがわからねば尻くらへ観音妹はやらぬ
土手南瓜七お多福のすべた女を誰がもらふかと啖呵きる下司
妹を土手南瓜とは何を云ふ聞きずてならぬとなじる西塔
どこまでも金のありかは知らさぬと偽神憑威猛高にいふ
貴様らに金のありかは聞かずとも喜楽さがして聞くといふ爺
こら親爺喜楽にきくなら真夜中に何故この方をひきだしたか馬鹿め
一村の公爵さんを馬鹿奴とは何ぬかすかと頭をなぐる
俺だとて尋常大学出身者だ馬鹿にするなとゐたける熊公
両人の争ひますますしげくなり巌窟の前にて組うちをなす
両人はからみあひたるそのままに断崖の上より渓間に落ちたり
断崖ゆ落ちたる刹那に思はずもわれは神号宣りあげにけり
両人の上に恙の無かれかしと少時祈りぬ天地の神に
宗襄の仁
両人の安否いかにと露わけてわれ谷底にうかがひよりぬ
谷底をいてらす月のかげにみれば組みつきしまま倒れてゐたりき
谷水を掬ひて二人が顔面にそそげばうんと息吹きかへせり
虫のなくやうなか細き声しぼり感謝してゐる爺さんのあはれさ
下司熊はハツと気がつきぽつぽつとわれに逆襲こころみにけり
断崖ゆ突いて落して殺さむとしたる喜楽を訴へると云ふ
こら喜楽明日警察に訴へるそれがいやなら金出せといふ
訴へるならうつたへろ生命をたすけて貰うた恩人のわれを
手と足のこの深傷を証拠にて訴へるとて逆捻くはせり
西塔は下司の言葉にいかりたち罰あたり奴と泣きつ怒りつ
下司熊は悪の本性あらはしてそろそろわれにもつれかかりぬ
真夜中に精州の滝でわれ等二人おどかしよつたは喜楽と下司いふ
かうなればやぶれかぶれだ神憑みな嘘だつたと舌を出しをり
この親爺金のありかを迫るゆゑ偽神憑も困つたと笑ふ
一匹の牛をこの方に渡さねば突き落したと訴へてやる
喜楽奴が魔術つかつて断崖ゆ落しよつたと無茶いふ熊公
西塔と下司の芝居と知らずして心弱きわれ牛とられけり
牛とりしそのあくる日は西塔の妹下司の妻となりをり
下司熊は牛一匹を強奪し羽織袴をさらへてかへる
井戸ばたに行水したるそのすきに羽織も袴も下司がもちゆく
西塔も下司もその後はわが家にたづね来たらず顔そむけゐる
我利亡者
高熊山青草しげる谷底を松ケ枝の月無心に照らせり
下司熊の無理難題の馬鹿らしさ彼が心をわれあはれみぬ
金と恋に餓ゑたる二人の痩犬を救ひしと思へば心清しき
痩せこけし二人はあばらの壁下地夜目にも見ゆるばかりなりけり
素裸になりて滝水浴びる状はさながら地獄の亡者に似たりき
骨と皮ばかりの肉体滝壺に浸して鰈のごとく泳げり
皎皎と月は二人の黒き背を骨もとほれと光りさし居り
両人の痩せたる身体見るにつけ吾は思はず涙にくれたり
色と金に餓ゑたる二人も一匹の牛をもらうて神に感謝す
神様のお蔭で喜楽が牛くれたと滝に打たれて感謝して居り
西塔と下司の二人はわが前に必ずたのむと掌を合し居り
心からの感謝にあらずと知りながら痩せた姿をあはれみ牛やる
牛くれる喜楽は誠の神様と云ひつつ二人が掌を合せをり
偽神憑やつたらどうかとからかへば偽にあらずと熊公むきになる
千両万両
五万円のありかは知らぬが千両のありかを知つて居るとからかふ
下司熊は両手を頭上にさし上げて吾は野天狗喜楽たのむといふ
野天狗のうつるやうなる下司熊にありかは知らせぬ修行せいといふ
西塔は両掌をあはして五百円が三百円でも結構といふ
万両は西塔の庭に千両は高熊山になれりとわれ云ふ
こりや喜楽馬鹿にするのか千両や万両の実は何処にもあるわい
こんな事云つてからかふ喜楽奴が又牛やらうと嘘をいふのか
乳牛は奥條の農家にあづけあれば勝手に持つてゆけと吾いふ
又御意の変らぬうちと両人は夜更けの谷道くだりて帰る
両人が帰りし後姿見送りて吾はつくづく世を淋しみぬ
大方の人の心はかくもあるかと思へば淋し夜更けの深山
西塔や下司の身魂を正道に復させたまへと祈り久しき
神界は正神邪神の区別あり欲に迷へば邪神になぶらる
西塔は今や邪神に誑されて下司熊の頤使に従へるなり
其こころ正しかりせば正神に感合すべき神界の規
下司熊の曇れる魂と西塔の欲惚け心と合致せるらし
両人が色と欲とに目のいろを変へて騒げるさま憐れなり