二十八歳の頃
家族親族友垣等にせめられていやいやながら田の草を取る
稲の田の草とりをれば治郎松はお前の所作は似合ふとからかふ
治郎松『これからは狐狸を祀らずに百姓をせよ信用回復のために
穴太には禅宗寺も観音堂も立派にあるから狸はまつるな』
十分にお前は改心してをらぬ臀に狸の尾があるとわらふ
治郎松にくさぐさ誹られからかはれ腹立つままに草とりてをり
百姓にみが入りてをらぬ取つたあとに稗があるぞとやかましく言ふ
神様のこと思ひつつ田草とりて稗一株を抜き忘れをり
稗の株泥つきしまま抜きとりて投ぐる拍子に治郎松にあたる
俺の顔に泥ふりかけたと怒りたちて鍬をふりあげわが臀を打つ
無意識にかかつた泥を鍬をもて臀を打つとはあんまりだと詰る
泥田の争ひ
治郎松『馬鹿いふな貴様は知つてゐながらに俺を恨んで泥掛けたのだ』
治郎松は小癪な野郎といひながら又鍬上げてわが臀を打つ
忍耐は神の教と腹立をこらへてわざとあやまりてみし
口ばかり心の中ではこの俺を馬鹿にしてるとますます怒る
あやまつてをれども言葉が上つ調子その手はくはぬと又臀をうつ
腹の虫承知いたさずたちまちに堪忍袋の緒はきれにけり
治郎松の鍬をやにはにひつたくり野中の深井戸に投げ捨てにけり
百姓の一の宝のわが鍬を井戸に投げたと怒りて組みつく
われもまた負けてはをらず治郎松に武者振りついて田に倒しけり
稲植ゑし泥田の中に両人は組みつはぐれつ揉みあひにけり
両人は泥にまみれて呶鳴りつつ半泣声をあげてあらそふ
隣田に草とりをりし与三といふ狂人親爺がかけつけて来る
治郎松と喜楽の喧嘩は面白い俺も加勢と二人をなぐる
治郎松は狂人親爺になぐられて血を出しながら与三に組つく
治郎松と狂人与三の両人が水田の中にごろごろしてをり
両人が争ふすきをうかがひて小便ひりかけ逃げ出しにけり
小便をかけられながら両人は一生懸命知らずに争ふ
田毎田ごと草とりをりし村人の老若男女はその場に集る
打たれたる臀の痛さにびつこひきて倒けつ転びつわが家に帰れり
八十五の老婆はわが臀の傷をみて涙ながらに介抱されたり
草刈りて山より帰りし由松は母とともどもわが傷みてをり
こりや兄貴如何して臀をきられたと吃り尋ねる由松をかし
きられても助けぬやうなやくざ神これから兄貴まつるなといふ
ほんとうの神なら治郎松をさかさまに懲らす力がある筈といふ
溝狸奴狐祀つた仏罰でよいこらしめと弟が笑ふ
おひおひに臀はれあがり痛み出し身動きならず病床に唸る
神なれば兄貴の臀をなほさんかと由松いかりて祭壇をこはす
叔父の来訪
由松の急報により船岡の妙霊教師の叔父は来たれり
わが叔父の妙霊教師清六は妙妙妙と祈り出したり
妙妙と祈るをかしさ堪へをれば傷所にひびきてますます痛む
妙妙を嫌うた罰でこんなことになつたと叔父はわれをいましむ
清六『由松が狸といふも無理はない妙妙さんをいやがるお前を』
それみたか叔父も狸というてゐる妙妙まつれと由松いたける
臀痛め寝てゐる俺を妙妙といふ宗教は絶対嫌ひだ
妙なことお前はいうとわが叔父は妙な顔して妙妙と祈る
妙妙をまつらなこれから叔父でない甥ではないと吾をおどせり
勘当をされてもかまはぬ神といふ親がわしにはあると答ふる
神様が親なら何故にこの傷をなほしてくれぬと由松が詰る
神様が親なればこそ大難を小難にまつりかへ下さつたのだ
こりや兄貴とぼけたことをぬかすなと由松怒りて水ぶちかける
腹立てど身動きならぬ悲しさに腮辺にわれは紅涙ながせり
おひおひに熱高まりてわが頭鐘つく如く痛みだしたり
わんわんと頭は痛み耳なりて苦しき枕べに妙妙の声
わが叔父は一心不乱に汗流し一万回の妙妙を宣る
妙妙としわがれ声をきかされてわが精神は妙にいら立つ
おせつかひ
株内のお政婆さんがたづね来てわが病床に首振りもの言ふ
お政『松さんとお前はえらい喧嘩して臀きられたといふではないか
穴太寺の観音様を拝まずにお前は狸を祀つた罰よ』
やかましい去んでおくれとわれ言へばお政婆さんが目をつりあげる
お政『御先祖の応挙さんは金剛寺に絵をかいてござる仏信者よ
御先祖は仏になつてござるのに神祀るとは不心得のお前
神様と思つたお前は奴狸をまつつてゐるといふがほん当か』
狸なら一時も早くくすべ出せと水ばなすすりていさめる婆さん
仏法がいやなら幸ひ叔父さんの妙妙さんに従へといふ
やかましい頭が痛むとわれいへば罰あたり奴とお政が睨む
穴太寺の観音様が松さんの手をかり臀を打たしたといふ
喧しいうるさい早く去なんかとわれやけくそになりて呶鳴れり
お政『妙妙さん狸が憑いてをりまする早く退散さして下さい』
清六『奴狐と溝狸奴とが憑いてゐるわが念力で退けて見せます』
わが叔父は妙妙称へ心経をお政が一心不乱にとなへる
隣からおむつ婆さんが聞きつけてわが家に来たり法華経を読む
南無阿弥陀妙妙妙法蓮華経言霊一つになりてうるさき
われもまた負けずおとらず苦しき息を惟神霊幸倍坐世と宣る
またしても惟神惟神ぬかすかとおむつ婆さん珠数もてなぐる
治郎松の母親おこの婆さんがこの場にあらはれ顎しやくりをり
枕べに直立しながらおこの婆さんがにたりと笑ふいやらしき顔
溝狸早く去なぬか与三はんに憑つて伜を苦しめたといふ
おこの『田の中で狂人与三に睾丸を握られ松が目をまはしたぞや
これも皆お前のわざと思うたら親のわしには腹が立つぞえ
喜楽さんはこんな男でなかつたに狸が憑いて無茶をし出した
仏様のお蔭で松はなほつたがこの奴狸は出さねばおかぬ』
治郎松はちんば曳きひき入り来たり狸狸と舌出して笑ふ
この狸三千年の劫を経たしたたかものよ容易にのくまい
わが叔父は一心不乱に妙妙と称へてみれど何の変なし
法華経も禅宗の読経も験なく尻と頭の痛みなほらず
今板額
彼の女忽ち泣きつつ入り来たり今大阪ゆ帰りしといふ
治郎松に尻打たれしと聞くよりも忽ち松にくつてかかれり
板額といはれし彼女は治郎松の横面ぴたりとなぐり倒せり
治郎松もおこの婆さんも由松も手に唾して彼女に組みつく
三人にくらひつかれて板額は悠悠庭にふるひ落せり
隣村の宣伝なせし石田こすゑは噂ききつけ急ぎ帰れり
治郎松は貴様も敵の片割れと石田こすゑをなぐりとばせり
驚きて石田こすゑはいち早く交番さしてはせゆきにけり
苦しめるわが病床を中にして有象無象の囁き高し
靴の音高くきこえて警官はわが家に急ぎ入り来たりけり
松、おこの、お政に、おむつ、板額、こすゑ、由松、清六、一斉に訴ふ
治郎松が負傷させたは罪なりと巡査の言葉に母子はふるふ
治郎松を訴へますかとわが耳に小声で巡査ささやきにけり
治郎松はこれを聞くよりふるへ出し両掌を合せて巡査を拝む
喜楽さんの意見次第と警官は松の頼みをはねつけてをり
治郎松はわが枕辺に掌を合せお前はたすけの神さんといふ
現金な治郎松の態度のをかしさに俺は神ではないと首ふる
そんな事おつしやらずして治郎松をお助けあれと一同合掌す
溝狸奴狐の俺は親分だ人間の言葉はわからぬといふ
治郎松『これからは狸狐とはいひませぬ喜楽の神さんおたすけ下さい』
板額は座敷の中にあぐら組みわからぬ奴と巡査に言ひをり
おこの『意地悪きことを言はずにわが伜たすけて下され邪魔させませぬ』
さすがにもわが子の可愛さおこの婆さんは涙流して拝むあはれさ
お政『喜楽さん親類同志のことぢやないかあとが大事ぢや料簡しなさい』
おむつ『近所同志喧嘩をするのは見つともない和合するのが仏のみこころ』
清六『親類の人を訴へ敵にしてお前はそれをよいと思ふか』
母『どんなことで世話になるかもわからない近い親類は一番大事よ』
由松『訴へるなら訴へよこら兄貴俺は懲役してもかまはぬ』
由松は改心せよといひながらわが痛き尻無性に打つなり
そんな事してはならぬと警官にいはれ由松ちぢまりて泣く
警官の仲裁によりていつたんはこの争ひも安くをさまる
治郎松はやつと胸をば撫でおろしお前は偉いと追従のみ言ふ
これからはお前のすること一言も邪魔は入れぬと誓ふ治郎松