西南戦争で天下の人心騒擾たりし明治十年の秋、王仁が七歳の時であつた。父の吉松(梅吉)は船岡の産土の祭礼に参詣すべく、王仁を伴ひ生家へ帰つて往つた。其の序をもつて、船井郡雀部の漆差しの家に立寄り、無病息災の為と謂つて、王仁の腹部へ十数点の漆を差して貰つたのである。サアさうすると、王仁の身体一面に漆が伝播し、痒くて堪らぬので掻くと又それが伝播して、手足も胴も頭も顔も一面に瘡になつたので堪らない。終には手も足も動かぬやうになつて、身体一面漆負けの瘡だらけになつてしまつた。その時の痕跡は今に判然と王仁の腹部にその記念を止めてゐるのである。それが為に学齢が来ても小学校へ行くことが出来ない。それを祖母の宇能子が大変に心配して、平仮名から五十音、単語篇に百人一首、小学読本と漸次に教へて呉れられたので、十歳の春初めて入学した時は大変に読書力がついてをつて、何時も一時に三四級宛は飛び越して、十三歳の四月に上等四級で退学する事となつた。祖母は又彼の有名なる言霊学者中村孝道の家に生れたので言霊学の造詣は深かつた。王仁は十歳位の時から折々祖母の口から言霊の妙用を説明されたので、何時とはなく言霊の研究に趣味を持つ如うになり、山野に往つて傍らに人の居らぬのを考へて、力一杯の声を出してアオウエイと高唱して居つたのである。時々人に見付けられて笑はわれたり、発狂人と誤られた事もあつたのである。王仁が今日の言霊の神法を活用して天地に感応するやうになつたのも、全く幼時より修練の結果で、又神明の御加護と祖母の熱烈なる教育の賜である。