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12 小学校時代

インフォメーション
題名:12 小学校時代 著者:
ページ:23 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2023-10-01 18:26:49 OBC :B121808c15
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]神霊界 > 大正10年2月1日号(第134号)【出口王仁三郎執筆】 > 故郷乃二十八年
 穴太寺(あなをでら)の念仏堂を造作(ざうさく)して四間(よんま)に仕切り、(これ)を小学校に()てたのが偕行(かいこう)小学校といふのであつた。王仁(わたし)は十歳になつた年の四月に初めて入学したのである、校長は亀山の旧藩士で出口(でぐち)直道(なほみち)といひ月給五円を(きふ)されて居た。次に吉田(よしだ)有年(いうねん)といふ同じ亀山の藩士で月給三円の教師であつた。月給は安くても(その)時分は物価が今日と(ちが)つて非常に安い。一石(いつこく)の米価が三円七八十銭(ぐらゐ)で石油一斗(いつと)が二十銭以下であるから、かへつて今日の五十円の月給(とり)よりも生活(くらし)は安楽であつた。王仁(わたし)も十三歳から二円の月給で同校の助教師(じよけうし)として足掛(あしかけ)三年間奉職、下級の生徒に対して教鞭をふるつた事がある。
 それはさておき不思議なのは、王仁(わたし)には(なほ)といふ字の付いた名前の人に関係の多い事である。小学校の先生が出口直道(なほみち)氏であり、塾の先生が上田正直(まさなほ)氏であり、獣医学の先生が井上直吉(なほきち)氏であり、少年時代の指導者が斎藤直次郎(なほじらう)氏であり、王仁(わたし)父子(おやこ)を隠れて助けてくれたのは斎藤庄兵衛(しやうべゑ)氏の(しつ)なる直子(なほこ)夫人であり、書生(しよせい)奉公に行つた斎藤源治(げんぢ)氏の内室(ないしつ)で非常に大切に教導してくれたのは全く直子(なほこ)夫人であり、最後に大本開祖出口直子(なほこ)刀自(とじ)の養子となり、(あひ)(とも)に神業に奉仕する身となつたのである。実に言霊(げんれい)身魂(みたま)の因縁関係(ぐらゐ)不思議なものはないと思ふ。
 或時(あるとき)教師の吉田有年(いうねん)といふ先生が小学修身書を生徒に読み教へる時、大岡(おほをか)越前守(ゑちぜんのかみ)忠相(ただすけ)といふ字句に至つてタダアヒと読んだ。王仁(わたし)は余り可笑(をか)しくて聞くに忍びず、直ちに椅子を立つて、吉田先生、(ここ)はタダアヒぢやありませぬ、タダスケですと注意した。無学にして()つ頑固なる吉田先生は王仁(わたし)(げん)(たちま)ち打ち消して、満場の生徒に(むか)ひ、喜三郎は彼は馬鹿だから彼様(あん)なことを言ふのである。聞いてはならぬといつた。何にも知らぬ生徒()は吉田先生の説に服してタダアヒと大声に読む。王仁(わたし)は、アア斯様(かやう)な間違つた事を教へる先生に(つい)て教へられる生徒は不幸だ、どうしても先生に取消(とりけ)しをして貰はねばならぬと、一歩も譲らずタダスケを主張したのである。吉田先生は大変に立腹の様子で、真赤な顔をして『貴様は生徒の分際として教師に反抗するとは不都合な奴だ。懲戒(ちようかい)する、一寸(ちよつと)来い』といつて王仁(わたし)の細い手首を抜けんばかりに引張つて行かうとする。王仁(わたし)は一生懸命になつて出口先生を呼んだ。隣室に教鞭を執つて居つた直道(なほみち)先生は驚いて走り来られた。王仁(わたし)は吉田先生の読方(よみかた)(つい)てその正否の問答をなし()たるに、乱暴にも手首が抜ける(ほど)引き立てられ苦痛に堪へぬので、思はず出口先生の名を呼んだ事を詳細に答弁した。逐一事情を聞いた上、出口先生は吉田有年(いうねん)先生に(むか)ひ、ここは生徒の読んだタダスケが本当だ、君もモ少し(しら)べて置き給へと、校長から生徒の眼の前で警告された。王仁(わたし)の小さき心は治まつたが、(ただ)治まらぬのは吉田先生の胸の(うち)である。其の以後は吉田先生の態度は一変し、王仁(わたし)に対する憎悪心は日を逐うて峻烈を極め、一字でも一句でも読み誤らうものなら(たちま)打擲(ちやうちやく)するのみか、麻縄(あさなは)の太いので後手(うしろで)に縛り上げ、大きな珠算(そろばん)の上に一時間余りも(すわ)らすといふ()うな虐待をされたのである。実に其頃(そのころ)の教育者といふものは乱暴極まるものであつた。
 ()る暖かい春の日に、吉田先生は全級の生徒を校庭に集めて体操を教へて居つた。王仁(わたし)其中(そのなか)に加はつて稽古を受けた。たまたま隣村天川村(てんがはむら)といふ部落の雪駄(せつた)直しが学校の前を直し直しと呼びつつ通過した。吉田教員は忽ち之を(ゆびさ)して生徒に(むか)つて、お前(たち)よく見よ、(いま)学者(がくしや)生徒(せいと)の喜三郎さまの御父上がお通りだと、大声()げて王仁(わたし)が父の家は貧窮下賤なりとの意を諷刺した。無心無邪気な生徒は吉田と共に手を()つて笑ふのであつた。王仁(わたし)は悔しさ残念さを(こら)へて(もく)して居た。吉田先生はなほ虫が治まらぬと見え、学校の雪隠(せつちん)(ゆびさ)して、アア其処(そこ)に見よ、喜三郎さまの立派なお家が建つてあると、我家(わがや)倭小(わいせう)にして不潔なる事を諷刺し(また)手を()つて笑ふ。生徒も(また)一緒になつて器械的に笑ふのであつた。それからといふものは、生徒も吉田先生の真似をし、面白半分に乞食や非人などに途中で逢ふ時は、忽ち之を(ゆびさ)して、喜三郎さまのお父さんが通る、お母さんが何処(どこ)かへ御出(おい)でになると、大きな生徒までが面白がつて侮辱し、()けかけた雪隠(せつちん)があると喜三郎さまの立派な御宅だと嘲り笑ふのであつた。
 王仁(わたし)は子供ながらも憤怒の(きよく)に達し、発言者たる吉田先生の下校を途中に待ち受け、青杉垣(あをすぎがき)の中から吉田先生目掛(めが)けて、竹の(さき)(くそ)をつけたまま腰の(あたり)を突き差し其儘(そのまま)自分の(たく)()げ帰つた。吉田先生は非常に立腹して王仁(わたし)に退校を命じた。王仁(わたし)も承知が出来ず、直ちに出口校長に(むか)つて始終の次第を申告した。校長は直ちに学務委員の斎藤弥兵衛(やへゑ)氏と協議の上、吉田有年(いうねん)を免職し、王仁(わたし)には一旦退校を命じて其場(そのば)を無事に済ませ、数日の(のち)王仁(わたし)を吉田の代用教師として月給二円を給される事となつたのである。
 この斎藤弥兵衛(やへゑ)といふ人は余程(ちが)つた人で、時々かういふ皮肉な所置をとる人であつた。今日(こんにち)は学校教育の方針も改良され、夢にも(かく)の如き乱暴な教育家は居らぬが、王仁(わたし)の幼時の教育者の態度は実に無茶なことをしたものである。王仁(わたし)()く無情なる人々と交はり、世情の冷酷なる惨状と仁愛なる人の温情とを表裏より味はうことが出来たのも、全く今日になつて考へて見れば、神様の御仁慈を以て王仁(わたし)心魂(しんこん)を幼時より鍛煉させ給うたのであると熟々(つくづく)感謝する次第である。(また)吉田先生の王仁(わたし)に対する虐待的行為も王仁(わたし)の為には大恩師であつた事を感謝せずには居られないのである。
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