霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第一〇章 拘淫(こういん)〔一八一六〕

インフォメーション
著者:出口王仁三郎 巻:霊界物語 第64巻下 山河草木 卯の巻下 篇:第2篇 鬼薊の花 よみ(新仮名遣い):おにあざみのはな
章:第10章 拘淫 よみ(新仮名遣い):こういん 通し章番号:1816
口述日:1925(大正14)年08月20日(旧07月1日) 口述場所:丹後由良 秋田別荘 筆録者:松村真澄 校正日: 校正場所: 初版発行日:1925(大正14)年11月7日
概要: 舞台:橄欖山の坂道 あらすじ[?]このあらすじはMさん作成です(一部加筆訂正してあります)。一覧表が「王仁DB」にあります。[×閉じる]: 主な登場人物[?]【セ】はセリフが有る人物、【場】はセリフは無いがその場に居る人物、【名】は名前だけ出て来る人物です。[×閉じる]: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2026-05-07 16:45:08 文字数:6851 OBC :rm64b10
愛善世界社版:128頁 八幡書店版:第11輯 542頁 修補版: 校定版:130頁 普及版:63頁 初版: ページ備考:
001 橄欖山(かんらんざん)の坂道(さかみち)の木蔭(こかげ)に四五(しご)人(にん)のドルーズ人(じん)や、002アラブや、003猶太人(ユダヤじん)が労働服(らうどうふく)を着(き)た儘(まま)面白相(おもしろさう)に雑談(ざつだん)に耽(ふけ)りゐる。004その中(なか)の一人(ひとり)なるバルガンは、
005バルガン『オイ、006ガクシー、007汝(きさま)は此(この)間(あひだ)の戦争(せんそう)に行(い)つたといふ話(はなし)だが、008金鵄(きんし)勲章(くんしやう)でも貰(もら)つたのか。009花々(はなばな)しき功名(こうみやう)手柄(てがら)をして帰(かへ)るなぞと云(い)ひよつて、010近所(きんじよ)合壁(がつぺき)に送(おく)られ、011大変(たいへん)な勢(いきほひ)であつたが、012凱旋祝(がいせんいはひ)も根(ね)つから聞(き)いた事(こと)もなし、013いつの間(ま)にか吾々(われわれ)労働者(らうどうしや)仲間(なかま)に舞戻(まひもど)つて来(き)よつたが、014一体(いつたい)戦(たたか)ひの状況(じやうきやう)は何(ど)うなつたのぢやい』
015ガクシー『ドルーズ族(ぞく)のあの叛乱(はんらん)によつて仏軍(ふつぐん)から雇(やと)はれ、016ジェーベル・ドルーズの都(みやこ)、017ジェール[※1920年代、フランス委任統治下のシリアで、イスラム教系のドルーズ派(ドゥルーズ派)が居住する「ジャバル・ドゥルーズ国」が誕生した(Jabal al-Druze、「ドゥルーズの山」という意味。現在のシリア南部。1921-1936年)。その首都はスワイダ(As-Suwayda)という都市だが、「ジェール」という都市は不明。少し後ろの方では「ジェーダ」になっている。]に進軍(しんぐん)した時(とき)、018ドルーズ族(ぞく)の勢(いきほひ)猖獗(しやうけつ)にして、019仏軍(ふつぐん)は手(て)もなく打破(うちやぶ)られ、020みじめな態(ざま)で四方(しはう)八方(はつぱう)へ、021一(いち)時(じ)は散乱(さんらん)して了(しま)つたのだ。022其(その)時(とき)俺(おれ)は軍夫(ぐんぷ)として、023実(じつ)の所(ところ)は後(うしろ)の方(はう)に輸送(ゆそう)をやつてゐたが、024大砲(たいはう)の弾(たま)が、025間近(まぢか)にドンドン落(お)ちて来(く)るので、026何奴(どいつ)も此奴(こいつ)も腰(こし)を抜(ぬ)かし、027肝腎(かんじん)の軍夫(ぐんぷ)が、028兵隊(へいたい)に担架(たんか)に乗(の)せられて運(はこ)ばれるといふ惨(みぢ)めな態(ざま)だつたよ』
029バルガン『あれ丈(だけ)軍器(ぐんき)の整(ととの)うたフランスの精兵(せいへい)が、030なぜ又(また)暴民(ばうみん)団体(だんたい)たるドルーズ族(ぞく)に脆(もろ)くも打破(うちやぶ)られたのだ。031チとバランスがとれぬぢやないか』
032ガクシー『そこが所謂(いはゆる)戦争(せんそう)は水物(みづもの)といふのだ。033兵数(へいすう)の多(おほ)い方(はう)が勝(か)つ共(とも)、034武器(ぶき)の整頓(せいとん)した方(はう)が勝(か)つとも、035又(また)は武器(ぶき)の調(ととの)はない兵数(へいすう)の少(すく)ない方(はう)が勝(か)つとも、036それは時(とき)の運(うん)だから分(わか)らないワ。037何(なに)しろドルーズ族(ぞく)は一兵卒(いつぺいそつ)に至(いた)る迄(まで)地理(ちり)には精通(せいつう)して居(ゐ)る上(うへ)、038人(ひと)の和(わ)を得(え)てる上(うへ)、039あれ丈(だけ)の人気(にんき)だつたから、040其(その)虚勢(きよせい)丈(だけ)ででも勝(か)たねばならぬ道理(だうり)だ。041僅(わづ)か二万(にまん)位(ぐらひ)の叛乱軍(はんらんぐん)に五万(ごまん)のフランス兵(へい)が、042飛行機(ひかうき)も大砲(たいはう)も輜重車(しちようしや)も、043何(なに)もかも打(うつ)ちやつて、044命(いのち)カラガラ敗北(はいぼく)して了(しま)ひ、045ドルーズは敵(てき)の武器(ぶき)を応用(おうよう)して、046あく迄(まで)も頑強(ぐわんきやう)に戦(たたか)ひを続(つづ)けるものだから、047仏軍(ふつぐん)はたうとうジェーダの首都(しゆと)を占領(せんりやう)されて了(しま)つたのだい。048本当(ほんたう)に強(つよ)い者(もの)の弱(よわ)い、049弱(よわ)い者(もの)の強(つよ)い時節(じせつ)になつたものだ』
050バルガン『さうすると、051俺(おれ)達(たち)も社会(しやくわい)の弱者(じやくしや)として、052地平線(ちへいせん)下(か)に汗(あせ)にひたつて蠢動(しゆんどう)してゐるのだが、053何時(いつ)か又(また)頭(あたま)をあげる時(とき)があるだらうかな』
054ガクシー『あらいでかい、055有為(うゐ)転変(てんぺん)の世(よ)の中(なか)だ。056いつ迄(まで)も世(よ)は持切(もちきり)にはさせぬと、057どつかの神(かみ)さまもいつてゐる相(さう)だから、058未来(みらい)は必(かなら)ず吾々(われわれ)プロレタリヤの天下(てんか)だ。059まあまあクヨクヨ思(おも)はずに、060暫(しばら)く辛抱(しんばう)するのだな、061今日(けふ)も今日(けふ)とて、062エルサレムの町(まち)を温順(おとなし)う歩(ある)いてゐると、063俺(おれ)の風体(ふうてい)が醜(みにく)いとか怪(あや)しいとか云(い)ひやがつて、064スパイの奴(やつ)、065何処迄(どこまで)も尾行(びかう)してうせるのだ。066そして吐(ぬか)す事(こと)にや……君(きみ)はどつから来(き)た、067そして何処(どこ)へ行(ゆ)く。068何(なん)の用(よう)だ。069年(とし)は幾(いく)つだ。070姓名(せいめい)は何(なん)といふ……などと三文(さんもん)にもならぬおせつかいを遊(あそ)ばすのだから、071道(みち)も安心(あんしん)して歩(ある)けやしないワ。072丸(まる)で上(うへ)に立(た)つてゐる役人(やくにん)共(ども)は、073子供(こども)につつかれた蜂(はち)の巣(す)の番兵蜂(ばんぺいばち)の様(やう)な神経(しんけい)過敏(くわびん)になつてゐやがるのだからのう』
074バルガン『本当(ほんたう)に約(つま)らぬ世(よ)の中(なか)だの、075何時迄(いつまで)も此(この)儘(まま)にして置(お)こうものなら、076世界(せかい)はメチヤメチヤになるだらうよ。077どうしても此(この)調子(てうし)では十(じふ)年(ねん)たたぬ内(うち)に大革命(だいかくめい)が起(おこ)るだらうと思(おも)つてゐるのだ』
078ガクシー『そらさうだ、079生活難(せいくわつなん)や就職難(しうしよくなん)の叫(さけ)びがこれ丈(だけ)喧(やかま)しくなつて居(ゐ)るのだもの。080ブル階級(かいきふ)や役人(やくにん)共(ども)も可(い)いかげんに目(め)を醒(さ)ましやがらぬと、081たつた今(いま)、082俺(おれ)達(たち)と地位(ちゐ)転倒(てんたう)して彼奴(あいつ)等(ら)は惨(みじ)めな態(ざま)になるだらうよ。083俺(おれ)や其(その)世(よ)が来(く)る迄(まで)は死(し)んでも死(し)なれないのだ。084先祖(せんぞ)代々(だいだい)から彼奴(あいつ)等(ら)に虐(しひた)げられて来(き)たのだもの、085祖先(そせん)の恥(はぢ)を雪(すす)ぐのは、086吾々(われわれ)子孫(しそん)たる者(もの)の義務(ぎむ)だからなア。087最前(さいぜん)も此(この)山麓(さんろく)でトロッキーとかいふ男(をとこ)が、088労働団(らうどうだん)や農民団(のうみんだん)を集(あつ)めて過激(くわげき)な演説(えんぜつ)をやつて居(を)つたが、089聴(き)いてみれば一(いち)から十(じふ)迄(まで)御尤(ごもつと)も至極(しごく)だ。090併(しか)し乍(なが)ら、091あんな事(こと)を聞(き)いて居(を)らうものなら、092蜘蛛(くも)の巣(す)をはつた如(ごと)き警察(けいさつ)の網(あみ)にかかつて、093厭応(いやおう)なしに、094暗(くら)い所(ところ)へブチ込(こ)まれちや大変(たいへん)だと思(おも)ひ、095君子(くんし)は危(あやふ)きに近付(ちかづ)かずといふ筆法(ひつぱふ)で、096ここ迄(まで)スタスタやつて来(く)りや、097君(きみ)たち御(ご)連中(れんちう)の御(ご)集会(しふくわい)、098屹度(きつと)今頃(いまごろ)にや、099何(なに)か乱痴気(らんちき)騒(さわ)ぎが始(はじ)まつてるかも知(し)れないよ』
100バルガン『誰(たれ)でも可(い)いから、101確(しつか)りした犠牲者(ぎせいしや)が現(あら)はれると可(い)いのだがなア。102さうすりや俺(おれ)達(たち)ア、103漁夫(ぎよふ)の利(り)を占(しめ)て安楽(あんらく)に暮(くら)せるのだけれど、104何奴(どいつ)も此奴(こいつ)も小(こ)ざかしい人間(にんげん)許(ばか)りで、105自分(じぶん)の身命(しんめい)を賭(と)して矢面(やおもて)に立(た)つといふ大馬鹿(おほばか)が出(で)て来(こ)んで、106サツパリ駄目(だめ)だ。107かういふ時(とき)にや、108どうしても大馬鹿(おほばか)でなけりや、109世界(せかい)の改造(かいざう)が出来(でき)ないからのう』
110ガクシー『そらさうだ。111ドルーズ族(ぞく)の酋長(しうちやう)カンバスでさへも、112始(はじ)めは大変(たいへん)な勢(いきほひ)で矢面(やおもて)に立(た)ち、113二万(にまん)の民衆(みんしう)に武器(ぶき)を携帯(けいたい)させ、114フランス軍(ぐん)と勇敢(ゆうかん)に戦(たたか)ひ、115一(いち)時(じ)は大勝利(だいしようり)を博(はく)しよつたが、116いよいよ茲(ここ)といふ所(ところ)で、117俄(にはか)に怖気立(おぢけだ)ち、118安全(あんぜん)地帯(ちたい)に身(み)を逃(のが)れよつたものだから、119全軍(ぜんぐん)の士気(しき)頓(とみ)に阻喪(そさう)し、120折角(せつかく)取(と)つた首都(みやこ)も再(ふたた)び仏軍(ふつぐん)の手(て)に帰(き)し、121重立(おもだ)つた者(もの)は何(いづ)れも縛(ばく)につき、122ドルーズ族(ぞく)へは莫大(ばくだい)な賠償金(ばいしやうきん)を云(い)ひ付(つ)けられ、123ヤツトの事(こと)で、124カンバスの哀願(あいぐわん)に仍(よ)つて、125大赦令(たいしやれい)を布(し)かれ、126一件(いつけん)落着(らくちやく)するはしたものの、127ドルーズは酷(えら)い破目(はめ)に陥(おちい)つたものだ。128徹底(てつてい)的(てき)にどこ迄(まで)も犠牲(ぎせい)になるといふ奴(やつ)さへあれば、129あんな事(こと)は無(な)いのだけれどな、130何(なん)と云(い)つても烏合(うがふ)の衆(しう)だから、131バラモンには最後(さいご)迄(まで)敵(てき)する事(こと)は出来(でき)やしないワ。132之(これ)を思(おも)ふと吾々(われわれ)プロレタリヤの前途(ぜんと)も暗澹(あんたん)たるものだないか。133腹(はら)いせまぎれに、134夜中(やちう)密(ひそ)かに役所(やくしよ)の門(もん)に小便(せうべん)を屁(ひ)りかけたり、135糞(くそ)を垂(た)れた位(くらゐ)では何(なん)にも効(かう)はないし、136大頭(おほあたま)の一疋(いつぴき)や二疋(にひき)爆弾(ばくだん)でやつてみた所(ところ)で、137飯(めし)の上(うへ)の蠅(はへ)を追(お)ふやうなものだ。138先(せん)ぐり先(せん)ぐり次(つぎ)から次(つぎ)へと、139だんだん悪(わる)い奴(やつ)が現(あら)はれて、140益々(ますます)吾々(われわれ)に対(たい)して厳(きび)しい法律(はふりつ)を発布(はつぷ)したり、141三(さん)人(にん)寄(よ)つて話(はなし)をしても拘引(こういん)するといふ、142石(いし)で手(て)をつめたやうな目(め)に会(あ)はすのだから、143矢張(やつぱり)、144弱(よわ)い者(もの)の弱(よわ)い、145強(つよ)い者(もの)の強(つよ)い時節(じせつ)だ……と云(い)つても仕方(しかた)がない。146強(つよ)い者(もの)の弱(よわ)い、147弱(よわ)い者(もの)の強(つよ)い時節(じせつ)は万(まん)年(ねん)に一度(いちど)位(ぐらゐ)しか、148廻(めぐ)つて来(く)るものぢやない。149何(なん)だか日出島(ひのでじま)からブラバーサとかいふ宣伝使(せんでんし)がやつて来(き)て、150今(いま)に救世主(きうせいしゆ)が現(あら)はれるとか、151神(かみ)が表(おもて)に現(あら)はれて善(ぜん)と悪(あく)とを立別(たてわ)けするとか、152下(した)が上(うへ)になり、153上(うへ)が下(した)になるとか、154ほざいてゐるやうだが、155これも一種(いつしゆ)の宗教(しうけう)拡(ひろ)めの広告(くわうこく)に過(す)ぎないだらう。156何程(なにほど)宗教(しうけう)が愛(あい)を説(と)いても、157パンを与(あた)へてくれなくちや、158吾々(われわれ)は生存権(せいぞんけん)を保持(ほぢ)する事(こと)が出来(でき)ないのだからなア。159……ヤ、160何(なん)だか山下(やました)に当(あた)つて、161騒(さわ)がしい声(こゑ)がし出(だ)したぞ。162トロッキーの奴(やつ)、163どうやら警官隊(けいくわんたい)と格闘(かくとう)を始(はじ)めたらしいワイ。164ソロソロ降(お)りて壮快(さうくわい)な戦闘(せんとう)振(ぶ)りを見物(けんぶつ)せうぢやないか。165獅子(しし)の子(こ)か何(なん)ぞのやうに、166かう木(き)かげに潜伏(せんぷく)して、167世(よ)を呪(のろ)ひ、168悲鳴(ひめい)をあげて居(を)つても、169一文(いちもん)の所得(しよとく)もなし、170愉快(ゆくわい)もないからのう』
171バルガン『おけおけ、172コンナ時(とき)に出(で)るものぢやない。173側杖(そばづゑ)をくつて打(ぶ)ち込(こ)まれちや大変(たいへん)だ、174先(ま)づ嵐(あらし)の後(あと)の静(しづ)けさを見聞(けんぶん)するのが、175処世(しよせい)上(じやう)悧巧(りかう)なやり方(かた)だ。176それよりも腹(はら)いせに何(なに)か面白(おもしろ)い話(はなし)をせうぢやないか』
177ガクシー『俺(おれ)達(たち)に面白(おもしろ)い話(はなし)があつて堪(たま)らうかい、178朝(あさ)から晩(ばん)までブル階級(かいきふ)に酷(こ)きつかはれ、179僅(わづか)な賃銭(ちんせん)を恵(めぐ)まれて、180孜々(しし)として僅(わづか)に露命(ろめい)をつないでる悲惨(ひさん)な境遇(きやうぐう)にあつては、181到底(たうてい)面白(おもしろ)い味(あぢ)も分(わか)らず、182苦(くる)しい事(こと)許(ばか)りだ。183俺(おれ)が五六(ごろく)年前(ねんぜん)の事(こと)だつたが、184仕方(しかた)がないので、185人力車(じんりきしや)夫(ふ)をやつてゐると、186家主(やぬし)の奴(やつ)、187人並(ひとなみ)よりも高(たか)い店賃(たなちん)を取(と)り乍(なが)ら、188従僕(じゆうぼく)か何(なに)かのようにガクシーガクシーと口(くち)ぎたなく呼(よび)つけにしやがつて、189雪隠(せつちん)の掃除(さうぢ)までいひ付(つ)けくさる。190劫腹(ごふはら)でたまらないが、191怒(おこ)れば家(いへ)を出(で)て行(ゆ)けと云(い)ひやがるし、192裏店(うらだな)の隅々(すみずみ)迄(まで)貧民(ひんみん)でつまつてゐる此(この)際(さい)、193此処(ここ)を放(ほ)り出(だ)されたが最後(さいご)、194忽(たちま)ち親子(おやこ)が野宿(のじゆく)をせなくちやならず、195仕方(しかた)がないので辛抱(しんばう)して居(ゐ)ると、196しまひの果(はて)にや、197おれの嬶(かかあ)の名(な)を呼捨(よびすて)にさらすのだ。198けつたいの悪(わる)いの胸糞(むねくそ)が悪(わる)いのつて、199胸(むね)が張裂(はりさ)ける様(やう)だつた。200そこで俺(おれ)は道路(だうろ)の端(はた)に餓(う)ゑて、201死(し)にかけてる野良犬(のらいぬ)を一疋(いつぴき)拾(ひろ)つて来(き)て、202そいつに家主(やぬし)の名(な)を付(つ)け、203大(おほ)きな声(こゑ)で、204……コラ権州(ごんしう)々々(ごんしう)……と口汚(くちぎた)なく喚(わめ)き立(た)て、205其(その)度(たび)毎(ごと)に拳骨(げんこつ)で頭(あたま)を、206大家(おほや)の権州(ごんしう)だと思(おも)ひ、207撲(なぐ)りつけてやつた。208其(その)時(とき)や、209チツと許(ばか)り痛快(つうくわい)だつたが、210野良犬(のらいぬ)の奴(やつ)、211大変(たいへん)な大喰(おほぐらひ)をしよるので女房(にようばう)子供(こども)の腮(あご)が干上(ひあが)り相(さう)になつた。212此奴(こいつ)にや一(ひと)つ俺(おれ)も面(めん)くらはざるを得(え)なかつたが、213それでも人間(にんげん)は意地(いぢ)だ。214こんな所(ところ)で屁古(へこ)たれちや、215男(をとこ)が立(た)たないと、216要(い)らぬ所(ところ)へ力瘤(ちからこぶ)をいれ、217働(はたら)いても働(はたら)いても、218皆(みな)犬(いぬ)にしてやられる。219苦(くるし)み果(は)ててる矢先(やさき)へ、220大家(おほや)の権州(ごんしう)奴(め)、221大(おほ)きな犬(いぬ)を俄(には)かに三疋(さんびき)も飼(か)ひやがつて、222其奴(そいつ)に俺(おれ)の名(な)と女房(にようばう)の名(な)と伜(せがれ)の名(な)を付(つ)けやがつて、223家内中(かないぢう)が寄(よ)つて集(たか)つて呼(よ)びつけにしやがるので、224俺(おれ)もこんな所(ところ)で屁古垂(へこた)れちや仕方(しかた)がない。225もつと犬(いぬ)を集(あつ)めて大家(おほや)の家内中(かないぢう)の名(な)をつけて、226呼(よび)つけにしてやらうと思(おも)つたが、227能(よ)く能(よ)く考(かんが)へてみれば、228大(おほ)きな家(うち)に三夫婦(みふうふ)もけつかつて、229子(こ)や孫(まご)総計(そうけい)二十八(にじふはち)匹(ひき)も居(ゐ)やがるものだから、230たうとう根負(こんまけ)して旗(はた)をまき、231矛(ほこ)を収(をさ)めて、232一時(いちぢ)ジェールの都(みやこ)迄(まで)逃出(にげだ)して了(しま)つたのだ。233本当(ほんたう)に仕方(しかた)のないものだよ』
234バルガン『ハヽヽヽヽ、235そら失敗(しつぱい)だつたね。236さうだから、237昔(むかし)の賢人(けんじん)とか君子(くんし)とかいふ阿呆者(あはうもの)が、238長(なが)い者(もの)にまかれよ……とか、239衆寡(しうくわ)敵(てき)せず……とか、240ほざきよつたのだ。241何程(なんぼ)面白(おもしろ)い話(はなし)が無(な)いといつても、242失敗(しつぱい)許(ばか)りぢやあるまい。243お前(まへ)だつて、244永(なが)い事(こと)人力屋(じんりきや)をして居(を)れば、245些(ちつ)と位(ぐらゐ)ボロい事(こと)もあつただらう』
246ガクシー『いやもう失敗(しつぱい)だらけだ。247エー、248コーツと、249何時(いつ)やらの夕(ゆふ)まぐれだつた。250ジェールの都(みやこ)の郊外(かうぐわい)を歩(ある)いてると、251大(おほ)きなデーツプリと太(ふと)つた、252布袋(ほてい)のやうな男(をとこ)がやつて来(き)よつて、253俺(おれ)は万民(ばんみん)に福(ふく)を与(あた)へる福(ふく)の神(かみ)だから、254一(いち)時間(じかん)許(ばか)り乗(の)せて呉(く)れないか、255……と云(い)ひよつたので、256お金(かね)は幾(いく)ら下(くだ)さるか……といへば、257お前(まへ)に金(かね)をやつては福(ふく)が退(い)ぬ。258俺(おれ)さへ乗(の)せておけば、259屹度(きつと)汝(そなた)の内(うち)は明日(あす)から繁昌(はんじやう)すると云(い)ひよつたので、260此奴(こいつ)ア願(ねが)うてもない事(こと)だ、261一(いち)時間(じかん)許(ばか)り無料働(ただばたらき)しても構(かま)はぬ、262八卦(はつけ)みて貰(もら)つても三十銭(さんじつせん)五十銭(ごじつせん)は取(と)られるのだ……と思(おも)ひ、263クソ重(おも)たい、264太(ふと)い福(ふく)の神(かみ)を乗(の)せて、265町中(まちぢう)を右(みぎ)へ左(ひだり)へウロつきまはつた所(ところ)、266モウ之(これ)で可(い)いと言(い)ひよつたので梶棒(かぢぼう)下(お)ろしよると、267一寸(ちよつと)便所(べんじよ)へ行(い)つて来(く)ると吐(ぬか)しよつてなア。268便所(べんじよ)へ入(はい)ると姿(すがた)が見(み)えなくなつて了(しま)つたので、269それから俺(おれ)も便(べん)が催(もよほ)したので便所(べんじよ)に入(はい)り、270沢山(たくさん)の雪隠(せつちん)の戸(と)を開(あ)けて、271一々(いちいち)点検(てんけん)してみたが、272影(かげ)も形(かたち)もない。273此奴(こいつ)アいよいよ福(ふく)の神(かみ)だ、274姿(すがた)が消(き)えたのだ。275キツと明日(あす)から福(ふく)があるに違(ちが)ひないと、276吾(わが)家(や)へ帰(かへ)り、277車(くるま)をしまはうとすると、278そこへ財布(さいふ)が残(のこ)つてゐる。279下(さ)げてみると中々(なかなか)重(おも)い。280ヤ此奴(こいつ)アしめた。281いかにも福(ふく)の神(かみ)様(さま)だわイ。282有難(ありがた)う頂戴(ちやうだい)致(いた)しますと五六遍(ごろくぺん)頭(あたま)の上(うへ)へ捧(ささ)げ、283神棚(かみだな)へまつり、284塩(しほ)をふつて、285其処辺(そこら)中(ぢう)清(きよ)め、286開(あ)けて見(み)た所(ところ)、287大枚(たいまい)百(ひやく)両(りやう)の丸金(まるきん)が目(め)を剥(む)いてけつかる。288コリヤ、289祝(いはひ)をせにやなるまいと、290俥引(くるまひき)友達(ともだち)や近所(きんじよ)合壁(がつぺき)を集(あつ)めて、291其(その)中(なか)の金(かね)を三十(さんじふ)円(ゑん)許(ばか)りはり込(こ)んだ積(つも)りで、292百(ひやく)円(ゑん)の金(かね)を料理屋(れうりや)に見(み)せつけて置(お)き、293仕出(しだ)しをさして、294一生(いつしやう)懸命(けんめい)に福(ふく)の神(かみ)さまを讃美(さんび)し、295呑(の)めや唄(うた)への大散財(おほさんざい)をやつて居(を)ると、296昨夜(さくや)の福(ふく)の神(かみ)奴(め)、297ポリスと共(とも)にやつて来(き)よつて、298棚(たな)の上(うへ)にある財布(さいふ)に目(め)をつけ、299……これは昨夜(さくや)俥(くるま)の上(うへ)に忘(わす)れて置(お)いた金(かね)だとぬかし、300有難(ありがた)うとも御(ご)苦労(くらう)とも吐(ぬか)さず、301ポリスの奴(やつ)おまけに、302拾得物(しふとくぶつ)の隠匿罪(いんとくざい)ででもあるやうな面(つら)して、303睨(ね)めつけて帰(かへ)つて了(しま)ひやがつた。304怪体(けたい)が悪(わる)いの悪(わる)くないのつて、305其(その)時(とき)丈(だ)けは女房(にようばう)にも申訳(まをしわけ)立(た)たず、306穴(あな)でもあれば入(はい)りたい様(やう)な気(き)がしたよ。307それから料理屋(れうりや)の奴(やつ)、308三十(さんじふ)円(ゑん)の催促(さいそく)に毎日(まいにち)日日(ひにち)やつて来(き)やがる。309どれ丈(だけ)働(はたら)いたつて、310三十(さんじふ)円(ゑん)はおろか三(さん)円(ゑん)の金(かね)も出来(でき)ないので、311女房(にようばう)に因果(いんぐわ)を含(ふく)め、312又(また)もや貧民窟(ひんみんくつ)の端(はし)つぱへ宿替(やどかへ)をしてやつたのだ。313ホンの一晩(ひとばん)ヌカ喜(よろこ)びをした丈(だけ)だつたよ。314運(うん)の悪(わる)い者(もの)といふ奴(やつ)ア、315する事(こと)なす事(こと)悪(わる)いものだ。316あゝあ、317本当(ほんたう)に世(よ)の中(なか)が厭(いや)になつて了(しま)つたワイ』
318バルガン『ウツフヽヽ、319其(その)時(とき)の嬶(かか)の顔(かほ)が見(み)たかつたのう』
320ガクシー『丸切(まるき)り出来損(できそこな)ひの今戸焼(いまどやき)のダルマみた様(やう)な顔(かほ)をしてふくれた時(とき)にや、321俺(おれ)も聊(いささ)か面目玉(めんぼくだま)をつぶしたよ。322エーエ、323怪体(けたい)の悪(わる)い、324序(ついで)にも一(ひと)つ話(はな)してやろ。325これも人力(じんりき)引(ひ)いてゐた時(とき)の話(はなし)だ。326日輪(にちりん)様(さま)が西(にし)の山(やま)の端(は)に半身(はんしん)を隠(かく)された時分(じぶん)、327一人(ひとり)のお客(きやく)がやつて来(き)て、328……オイ俥屋(くるまや)、329俺(おれ)はジェールの都(みやこ)を見物(けんぶつ)に来(き)た者(もの)だが、330人(ひと)の顔(かほ)の見(み)えぬ様(やう)になる迄(まで)、331十銭(じつせん)与(や)るから乗(の)せて呉(く)れぬか、332……と吐(ぬか)すので、333此奴(こいつ)あボロい、334三町(さんちやう)か五町(ごちやう)歩(ある)きや、335ズツポリと日(ひ)が暮(く)れるだろ。336其(その)間(あひだ)に十銭(じつせん)の金(かね)まうけはボロいと、337二(ふた)つ返事(へんじ)でお客(きやく)を乗(の)せ、338ゴロゴロと引張(ひつぱり)出(だ)した所(ところ)、339二(に)時間(じかん)たつても三(さん)時間(じかん)たつても下(お)りようとぬかさず、340とうと、341夜明(よあ)け頃(ごろ)迄(まで)俥(くるま)を引(ひ)かされた。342それでもまだ、343人(ひと)の顔(かほ)が見(み)えるぢやないか、344とお客(きやく)は吐(ぬか)す。345可怪(をか)しいと空(そら)を仰(あふ)いで見(み)ると、346何(なん)の事(こと)だ、347十四日(じふよつか)の月夜(つきよ)だつた』
348バルガン『ハヽヽ可(い)い馬鹿(ばか)だな。349どうで運(うん)の悪(わる)い奴(やつ)のする事(こと)はそんなものだ。350おまけに余程(よほど)の頓馬(とんま)だからな、351フヽヽヽ』
352 四五(しご)人(にん)の労働者(らうどうしや)も共(とも)に声(こゑ)を揃(そろ)へてゲラゲラと笑(わら)つてゐる。353そこへ守宮別(やもりわけ)、354お花(はな)の両人(りやうにん)は何(なん)だか意茶(いちや)つき乍(なが)ら坂路(さかみち)を上(のぼ)つて来(き)た。
355バルガン『オイオイ、356彼奴(あいつ)が日出島(ひのでじま)からやつて来(き)たといふ、357フンゾ喰(ぐら)ひの泥酔(どろよひ)の守宮別(やもりわけ)といふ奴(やつ)だ。358そしてあの婆(ばば)は石灰(いしばひ)ガマの鼬(いたち)のやうにコテコテと白粉(おしろい)をぬつて若(わか)う見(み)せてゐやがるが、359お寅(とら)といふ気違婆(きちがひばば)に違(ちがひ)ないよ。360一(ひと)つ腹(はら)いせに嬲(なぶ)つてやらうぢやないか』
361ガクシー『なぶつたつて仕方(しかた)がないぢやないか。362何(なん)とか因縁(いんねん)をつけて、363懐(ふところ)の金(かね)でも、364おつぽり出(だ)さすよにせなけや、365忽(たちま)ち明日(あす)の生計(せいけい)が立(た)たないからの』
366バルガン『それもさうだ、367一(ひと)つ相手(あひて)になつてみよう』
368と云(い)ひ乍(なが)ら、369守宮別(やもりわけ)の前(まへ)にツカツカと進(すす)み寄(よ)り、
370バルガン『エ、371一寸(ちよつと)物(もの)をお尋(たづ)ね申(まをし)ますが、372日出島(ひのでじま)からお越(こし)になつてゐる、373守宮別(やもりわけ)さまといふ立派(りつぱ)な宣伝使(せんでんし)様(さま)は貴方(あなた)ぢや厶(ござ)いませぬか』
374守宮別『ウン、375俺(おれ)は守宮別(やもりわけ)だ。376何(なん)ぞ用(よう)かな』
377バルガン『ハイ、378別(べつ)に用(よう)といふては厶(ござ)いませぬが』
379守宮別『何(なん)だい、380用(よう)がなけりや、381アタ邪魔(じやま)臭(くさ)い、382尋(たづ)ねるに及(およ)ばぬぢやないか』
383バルガン『オイ、384ガクシー、385之(これ)から汝(きさま)の番(ばん)だ。386何(なん)だか尋(たづ)ねる様(やう)な事(こと)があるやうに云(い)つてたぢやないか。387ドンドンと、388それ、389物(もの)になる迄(まで)尋(たづ)ねるのだぞ』
390ガクシー『ヨシ来(き)た。391之(これ)からが俺(おれ)の本舞台(ほんぶたい)だ。392モシモシ守宮別(やもりわけ)さま、393此(この)御(ご)婦人(ふじん)はお寅(とら)さまでせうね。394最前(さいぜん)も聞(き)いて居(を)れば、395神聖(しんせい)にして犯(をか)す可(べか)らざる此(この)霊山(れいざん)へ、396お寅(とら)さまと意茶(いちや)つきもつて、397お登(のぼ)りになつたが、398左様(さやう)な事(こと)をやつて貰(もら)ふと、399聖地(せいち)が汚(けが)れますよ。400エルサレムの市民(しみん)がこんな事(こと)を聞(き)かうものなら、401お前(まへ)さま、402どんな事(こと)になるか知(し)れませぬぜ』
403守宮別『ハツハヽヽヽ、404妬(や)くない妬(や)くない、405アレは、406あやめのお花(はな)といつて、407日出島(ひのでじま)切(き)つての別嬪(べつぴん)だ。408お寅(とら)なンか古(ふる)めかしいワ。409今日(けふ)更(あらた)めて結婚式(けつこんしき)をあげ、410此(この)霊山(れいざん)へ御(お)礼参(れいまゐ)り傍(かたがた)、411新婚(しんこん)旅行(りよかう)と洒落(しやれ)てゐるのだ。412神(かみ)さまだつて、413聖場(せいぢやう)だつて、414夫婦(ふうふ)が参(まゐ)るのを咎(とが)める理由(りいう)はあるまい。415自由(じいう)の権(けん)だ。416放(ほ)つといてくれ』
417ガクシー『放(ほ)つとけといつても、418放(ほ)つとけぬワイ』
419守宮別『ソンナラ何(ど)うするといふのだ』
420ガクシー『汝(きさま)の生命(いのち)を頂戴(ちやうだい)するのだ、421覚悟(かくご)せい』
422守宮別『ハヽヽヽヽ、423おあいにくさま。424一(ひと)つより無(な)い大事(だいじ)な大事(だいじ)な生命(いのち)は、425新夫人(しんふじん)の花子(はなこ)嬢(ぢやう)にサーツパリ与(あた)へて了(しま)うたのだ。426モウ此(この)上(うへ)やらうといつたつて、427やる物(もの)がないワイ』
428お花『ホヽヽヽ、429もしもし皆様(みなさま)、430守宮別(やもりわけ)さまの命(いのち)は皆(みな)このお花(はな)が頂戴(ちやうだい)したのですよ』
431ガクシー『エー、432のろけよるない。433ここを何(なん)と心得(こころえ)てゐやがる』
434お花『ここはパレスチナの中心地(ちうしんち)、435エルサレムの市街(しがい)を下(した)に見(み)る、436キリスト再臨(さいりん)に名(な)も高(たか)き、437橄欖山(かんらんざん)の中腹(ちうふく)ですよ』
438ガクシー『そらなーんぬかしてけつかる。439誰(たれ)がソンナ事(こと)を聞(き)いてゐるかい。440サ、441汝(きさま)の命(いのち)と守宮別(やもりわけ)の命(いのち)と、442二(ふた)つ乍(なが)ら一緒(いつしよ)に貰(もら)はう、443サ覚悟(かくご)せい』
444お花『お易(やす)い御用(ごよう)、445何卒(どうぞ)、446生命(いのち)をお取(と)りやしたら、447頼(たの)んでおきますが、448守宮別(やもりわけ)さまと一緒(いつしよ)に体(からだ)を引括(ひつくく)つて葬(はうむ)つて下(くだ)さいや』
449ガクシー『エー、450此奴(こいつ)アたまらぬ、451まだ惚(のろ)けてゐやがる。452箸(はし)にも棒(ぼう)にもかからぬ代物(しろもの)だな』
453お花『ホヽヽヽ、454どうで、455お前(まへ)さま方(がた)の手(て)に合(あ)ふやうな女(をんな)ぢや厶(ござ)いませぬワイな。456お前(まへ)さまは其(そ)んな事(こと)いつてお金(かね)が欲(ほ)しいのだろ。457お金(かね)が欲(ほ)しけらほしいと、458なぜ男(をとこ)らしうスツパリ言(い)はぬのだい』
459ガクシー『斯(か)うしてここに六(ろく)人(にん)も待(ま)つてゐるのだから、460少々(せうせう)の目(め)くされ金(がね)位(ぐらゐ)貰(もら)つたつて仕方(しかた)がないワ。461とつとと百(ひやく)両(りやう)許(ばか)しよこせ、462さうすりや、463無事(ぶじ)に此(この)関所(せきしよ)を通過(つうくわ)さしてやるワ。464淫乱婆(いんらんばば)奴(め)が……』
465お花『ホヽヽ、466妾(わたし)は衆生(しゆじやう)済度(さいど)の為(ため)、467此(この)世(よ)に現(あら)はれた真宗(しんしう)の開山(かいざん)いんらん上人(しやうにん)ですよ。468肉食(にくじき)妻帯(さいたい)、469勝手(かつて)たるべしといふ宗門(しうもん)を開(ひら)いたのだから、470別(べつ)に守宮別(やもりわけ)さまと手(て)をつないで聖地(せいち)を歩(ある)いたつて、471霊山(れいざん)の法則(はふそく)に反(そむ)きも致(いた)しますまい。472アタ甲斐性(かひしやう)のない。473大(おほ)きな荒男(あらをとこ)が六(ろく)人(にん)も寄(よ)つて、474百(ひやく)両(りやう)呉(く)れなんて、475よくも言(い)へたものだな、476せめて一万(いちまん)両(りやう)出(だ)してくれと何故(なぜ)言(い)はぬのだい』
477ガクシー『一万(いちまん)両(りやう)でも十万(じふまん)両(りやう)でも、478請求(せいきう)するこたア知(し)つてるが、479其(その)面(つら)で大(おほ)きな事(こと)いつたつて、480持(も)つて居(ゐ)相(さう)な事(こと)がない。481それだから、482汝(そなた)の風体(ふうてい)相応(さうおう)に百(ひやく)両(りやう)と云(い)つたのだ』
483お花『ヘン、484ソンナ貧乏(びんばふ)と思(おも)つて下(くだ)さるのかい。485コレ御覧(ごらん)、486此(この)貯金帳(ちよきんちやう)にチヤンと一万(いちまん)両(りやう)付(つ)いてるでせう。487併(しか)し乍(なが)ら何程(なにほど)請求(せいきう)したつて、488やるやらぬは此方(こつち)の自由(じいう)だ。489そんなら仕方(しかた)がないから、490百(ひやく)円(ゑん)恵(めぐ)んで上(あ)げませう。491今後(こんご)は必(かなら)ず必(かなら)ず無心(むしん)を云(い)つちやなりませぬよ』
492と云(い)ひ乍(なが)ら、493百(ひやく)円(ゑん)束(たば)を放(ほ)り出(だ)せば、
494ガクシー『ヤア、495これはこれは有難(ありがた)う、496三拝(さんぱい)九拝(きうはい)、497正(まさ)に頂戴(ちやうだい)仕(つかまつ)ります。498どうか又(また)宜(よろ)しう御(お)願(ねがひ)申(まを)します』
499お花『嫌(いや)だよ、500もうこれつ切(き)りだから、501覚悟(かくご)しなさい。502サ、503守宮別(やもりわけ)さま、504早(はや)くお山(やま)の頂上(ちやうじやう)迄(まで)参(まゐ)りませう』
505 斯(か)かる所(ところ)へ十四五(じふしご)人(にん)の武装(ぶさう)した憲兵(けんぺい)警官(けいくわん)現(あら)はれ来(きた)り、506バルガン、507ガクシーを始(はじ)め四(よ)人(にん)の労働者(らうどうしや)を有無(うむ)をいはせず、508ふん縛(じば)り、509坂路(さかみち)を引立(ひつた)てて行(ゆ)く。510お花(はな)は之(これ)を見(み)るより又(また)守宮別(やもりわけ)が下(くだ)らぬ義侠心(ぎけふしん)を出(だ)してくれては面倒(めんだう)だと、511守宮別(やもりわけ)の手(て)を無理(むり)無体(むたい)に引張(ひつぱ)り急坂(きふはん)を登(のぼ)り行(ゆ)く。
512(大正一四・八・二〇 旧七・一 於由良秋田別荘 松村真澄録)
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