高天原の最奥における霊国および天国の天人は、すべて愛の善徳を完備し信の真善を成就し、智慧証覚に満ちている。ゆえに中間天国以下の天人のように決して信を説かず、信についても知らない。また神の真についても論究しない。
なぜなら、最高天人は大神の神格に充たされ、愛善信真はこれ天人の本体であるからである。だから他界の天人のように、これは果たして善なりや、悪なりや、などと真理を争うことはない。
また最奥天人は視覚ではなく、その聴覚によって宇宙に瀰漫せるアオウエイの五大父音の音響如何によってその証覚を円満にしていく。
大本神諭にあるごとく、生まれ赤子の心は清浄無垢であるから、たとえ智慧証覚は劣るといえども、その清浄無垢が最奥天国に和合する。またすべての物欲をすてて老後を楽しみ罪悪に遠ざかり、天命を楽しむ老人は、証覚ありかつ無垢な者であることを現している。
大本開祖は夫を見送り世間的生涯を終えて無垢の生涯に入り給うた時、初めて神は予言者として神格に充たされた聖霊を降し給うたのは、開祖の身魂を清浄無垢に復活し、その精霊をして天国の籍におかせ給うたからである。
ゆえに開祖は生前においてすでに霊的復活をせられたのである。これを霊的人格の再生という。大神は、人間の齢が進むにしたがってこれに善と真とを流入し給うものである。まず人間を導いて善と真との知識に入らしめ、不動不滅の智慧に入らしめ、最後に証覚に進ませ給う。
しかし現代の人間は、齢が進むにしたがってますます奸智に長け、表面は世捨て人のごとく装うといえども、その実ますます不良老年の域に進む者が大多数である。
老齢にいたってもますます権謀術数をたくましうして世間的権勢を掌握し無上の功名としている人物のごときは、霊界から見れば憐れむべき盲者である。無智にしてその日の労働にいそしみ不遇の生活を生涯送りし人間が、霊界に至って神の恩寵に浴し、善と真との徳に包まれるのである。
神には一片の偏波もないことを信じ、ひたすら神を愛し神に従い、正しき予言者の教えに信従すれば、生前に物質上の満足は得られなくても、その内分に受ける歓喜と悦楽は、とうてい現界の富者や権力者や智者学者のうかがい知ることはできない。
この物語の主人公たる初稚姫は再び天の命を受け、地上に降誕して大本開祖となり、世間的務めを完成し、八人の子女を生みそれぞれ神界の内的事業に奉仕せしむべく知らず知らずの間にその任を果たし、そして仁愛と信の智を発揮して地獄界を照破する神業に奉仕し、その任務を終えて後事を瑞霊に充たされた予言者に託し、ここにめでたく昇天復活されたのである。
ゆえに開祖は生前よりその容貌はあたかも少女のごとく、正音は優雅微妙にして、開祖に接近する者はその円満な霊容に感化され霊光に照らされ、善人は信従し尊敬し、悪人を嫌忌し恐怖したのである。
開祖の前身たる初稚姫もまた神代における神格者にして大予言者であった。しかしてその霊徳を深く秘して和光同塵の態度をもってあまねく万民を教化すべく、霊的・自然的活動を続け給うたのである。
神は瑞月を呼んで大化け物と宣らせ給うた。現代人はこれを聞いて、大悪人や権謀術数家のごとく認める者も少なくない。しかし神格に充たされた者を、頑迷不霊の地獄界に籍を置いた人間の目からみたときは、眼くらみ頭痛み息苦しくなり、恐怖心に駆られて、予言者を大怪物としか見ることができないものである。このような頑迷の徒を神の光明に浴せしめ、天国の生涯を送らせるのは実に最大難事である。
大正五年、口述者が役員室で神諭を紐解いていると、高島久子があわただしく居間に走ってやってきて、一厘の秘密を知らせるという。瑞月は厳然として神の道に秘密などないことを説き諭すと、高島久子の精霊は大いに怒ってわが耳をつかみ頬をたたいて狂い回った。
瑞月はやむを得ず霊縛をかけて彼女の動きを止め、また神に祈ってお許しを乞うた。起き上がった彼女は悪態をつきながら開祖の居間に侵入した。久子の精霊は開祖の容貌を拝するや、アッと仰向けに倒れ、開祖に悪態をつきながら吾が居間に戻ってきて、仁王立ちとなって瑞月をにらみつけた。
そこに開祖が梅の杖をつきながらちょっと障子を開けてのぞかれた。久子はまたもやキャッと叫んでその場に転倒し、毬のように表に駆け出してしまった。
後で高島久子に聞けば、開祖の居間の障子を開くやいなや、開祖の肉体は金色燦爛たる光明に満ち、その御姿を熟しすることができず、恐ろしくなって自分の守護神が一生懸命駆け出した、と答えた。
またあるときは修行場へ暴れこんで修行者に馬乗りになって小便をかけたりしたが、聖場で小便をしても神罰が当たらなかったのは神格が高いからだ、などと誇っている始末である。神は畜生が糞尿を垂れても看過したまう、これと同じ道理であることがわからないのである。
自愛心強く世間愛を善事としている人間はかえってこのような奇矯な行いを神秘とみなし、人間業でできることではないと感心するのである。
悪霊は、開祖の身内であれば決して悪神が憑依すべきものでない、という人々の思い込みを利用し、高島久子を従えてしまうと、二三の迷える信者を引き連れて八木に逃げ帰り、兇党界の団体をますます大ならしめ、大神の神業を妨害せんと企みつつある。
久子本人は元来開祖を思うこと深く、無知にして比較的その心も清ければ、兇霊も開祖の神諭を非難することはできなかった。そこで表面には厳瑞二霊を尊敬し信従するごとく装い、狂惑した久子を使って世人を魔道に引き入れようと企みつつあるのである。
この悪霊の教えを妙に曲解して随喜渇仰し随伴している者がたくさん現れてきたのは、神界のために実に悲しむべきことである。八木の停車場で狂態を演じて人々を驚かせ、大本の教えを破壊せんと企んだこともあった。
兇霊はこの筆法を用いてあるときは変性男子を極力賞賛し、また対する者の心の中に男子・女子を否んでいることを認めるときは声をひそめて頻りに誹謗し、吾が薬籠中のものになそうと企むものである。初稚姫と高姫の今後の活動は、これに類するものが多ければ巻頭に引証することとした。