霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第二章 恋盗詞(こひどうし)〔一七二六〕

インフォメーション
著者:出口王仁三郎 巻:霊界物語 第68巻 山河草木 未の巻 篇:第1篇 名花移植 よみ(新仮名遣い):めいかいしょく
章:第2章 恋盗詞 よみ(新仮名遣い):こいどうし 通し章番号:1726
口述日:1925(大正14)年01月28日(旧01月5日) 口述場所:月光閣 筆録者:加藤明子 校正日: 校正場所: 初版発行日:1926(大正15)年9月30日
概要: 舞台: あらすじ[?]このあらすじはMさん作成です(一部加筆訂正してあります)。一覧表が「王仁DB」にあります。[×閉じる]:
スダルマン太子は、城に帰ってより、スバール姫への激しい恋の思いに囚われていた。
アリナは太子の命を奉じ、密かにスバール姫を都へ迎えようと、再びタニグク山へとやってきた。
明け方、谷川の下流の森でシャカンナのかつての部下、山賊のハンナとタンヤが恋愛論を語り合っているのを立ち聞きする。
ハンナ:恋愛至上主義者。「恋愛なるものはあまりに神聖すぎて、かれこれと論議する事さえも出来ない」恋愛は「一種の感激」「人間乃至人生に対する、大きな自然に対する溜息」
タンヤ:倫理道徳主義者。「倫理の点を考慮して初めて神聖な恋愛とも言える」
タンヤとハンナは盗賊の相談を始める。二人はスバール姫をかどわかそうと決意し、シャカンナの隠れ家のほうへ進んでゆく。
アリナは親娘の危難を救おうと密かに二人の後をつけるが、追いつけずに見失ってしまう。
主な登場人物[?]【セ】はセリフが有る人物、【場】はセリフは無いがその場に居る人物、【名】は名前だけ出て来る人物です。[×閉じる]: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2026-08-28 20:06:33 文字数:7350 OBC :rm6802
愛善世界社版:27頁 八幡書店版:第12輯 159頁 修補版: 校定版:27頁 普及版:69頁 初版: ページ備考:
001 政治学(せいぢがく)の研究(けんきう)や、002新思想(しんしさう)の探究(たんきう)に没頭(ぼつとう)し、003タラハン国(ごく)上下(じやうげ)の現状(げんじやう)を痛歎(つうたん)の余(あま)り心身(しんしん)疲労(ひらう)し、004さしも明敏(めいびん)なりし頭脳(づなう)も霞(かすみ)を隔(へだ)てて山(やま)を見(み)るが如(ごと)く、005朦朧(もうろう)として鮮明(せんめい)を欠(か)ぎ006外(よそ)の見(み)る目(め)よりは、0061憂鬱(いううつ)病者(びやうしや)かと疑(うたが)はるる迄(まで)に煩悶(はんもん)苦悩(くなう)の結果(けつくわ)007殿内(でんない)深(ふか)く閉(と)ぢ籠(こ)もつて、008父王(ちちわう)の頑迷(ぐわんめい)固陋(ころう)なる骨董品(こつとうひん)的(てき)教訓(けうくん)を嫌(きら)ひ、009又(また)老臣(らうしん)共(ども)の時代(じだい)後(おく)れの古風(こふう)の頭(あたま)より絞(しぼ)り出(だ)した、010種々(しゆじゆ)の忠告(ちうこく)にも耳(みみ)を借(か)さず、011左守(さもり)の司(かみ)の悴(せがれ)アリナを唯一(ゆゐいつ)の慰安者(ゐあんしや)となし、012己(おの)が思想(しさう)の伴侶(はんりよ)となし鬱陶(うつたう)しき日(ひ)を送(おく)つて居(ゐ)たスダルマン太子(たいし)は、013偶々(たまたま)山野(さんや)の遊(あそ)びに山(やま)深(ふか)く迷(まよ)ひ込(こ)み、014不思議(ふしぎ)にも、015山奥(やまおく)に咲(さ)き匂(にほ)ふ姫百合(ひめゆり)の花(はな)に恋(こひ)の炎(ほのほ)を燃(も)やし、016心(こころ)を後(あと)に万斛(ばんこく)の涙(なみだ)を心中(しんちう)深(ふか)く湛(たた)え乍(なが)ら、017アリナと共(とも)にタラハン城内(じやうない)へ帰(かへ)つて来(き)た。
018 女(をんな)と云(い)ふものに対(たい)しては初心(うぶ)の太子(たいし)、019恋愛(れんあい)と云(い)ふものに対(たい)しても尚(なほ)更(さら)初心(うぶ)の太子(たいし)、020美(び)の神(かみ)の権化(ごんげ)とも見(み)るべき清浄(しやうじやう)無垢(むく)の乙女(をとめ)が、021人間界(にんげんかい)をかけ離(はな)れた、022浅倉谷(あさくらだに)の山奥(やまおく)に包(つつ)まれて居(ゐ)た其(その)容姿(ようし)に憧憬(どうけい)し、023数年来(すうねんらい)の沈鬱性(ちんうつせい)は一変(いつぺん)して、024危(あやふ)いかな025尊貴(そんき)の身(み)を保(も)ち乍(なが)ら、0251暗雲(やみくも)飛(と)び乗(の)りの離(はな)れ業(わざ)を演(えん)ぜむとし、026山霊(さんれい)水伯(すいはく)の精(せい)になつた美人(びじん)の相(さう)を、027自(みづか)らが得意(とくい)の絵筆(ゑふで)に描(ゑが)いて床(とこ)の間(ま)にかけ、028朝(あさ)な夕(ゆふ)な画像(ぐわざう)に向(むか)つて生(い)きたる人(ひと)に云(い)ふ如(ごと)く、029何事(なにごと)か独語(どくご)するに至(いた)つた。030この画像(ぐわざう)こそ人間(にんげん)の命取(いのちと)り、031男殺(をとこごろ)しの大魔者(だいまもの)である。032太子(たいし)の煩悶(はんもん)は以前(いぜん)に百倍(ひやくばい)し、033立(た)つても居(ゐ)ても居(ゐ)られないやうな様子(やうす)となつて来(き)た。034太子(たいし)の御心(みこころ)ならば、035仮令(たとへ)地獄(ぢごく)のドン底(ぞこ)でも、036一(ひと)つよりない命(いのち)でも無雑作(むざふさ)におつぽり出(だ)すと云(い)ふ忠臣(ちうしん)にして、037唯一(ゆゐいつ)の太子(たいし)の伴侶(はんりよ)たる左守(さもり)の悴(せがれ)アリナは、038夜(よる)窃(ひそか)に命(めい)を奉(ほう)じ、039山奥(やまおく)の名玉(めいぎよく)、040月(つき)の顔容(かんばせ)、041花(はな)の姿(すがた)、042温(あたた)かき雪(ゆき)の肌(はだへ)に包(つつ)まれた、043天津(あまつ)乙女(をとめ)の化身(けしん)を山奥(やまおく)より引(ひ)きずり出(だ)し、044秘(ひそか)に太子(たいし)の御心(みこころ)を慰(なぐさ)めむものと草鞋(わらぢ)脚絆(きやはん)に身(み)を固(かた)め、045服装(みなり)も軽(かる)き蓑笠(みのかさ)の夜露(よつゆ)を浴(あ)びて、046主(しゆ)を思(おも)ふ心(こころ)の一筋途(ひとすぢみち)、047一筋縄(ひとすぢなは)では行(ゆ)かぬ左守(さもり)のシャカンナを、048夏(なつ)の炎天(えんてん)に地上(ちじやう)万物(ばんぶつ)を霑(うるほ)す夕立(ゆふだち)の雨(あめ)のふるなの弁(べん)を振(ふる)ひ、049邪(じや)が非(ひ)でも、050縦(たて)でも横(よこ)でも頑固爺(ぐわんこおやぢ)を納得(なつとく)させ、051肝腎(かんじん)の玉(たま)を抱(いだ)いて帰(かへ)らねばおかぬと雄健(をたけ)びしながら、052タニグク山(やま)の山口(やまぐち)、053玉(たま)の川(かは)の下流(かりう)、054岩瀬(いはせ)の深森(もり)に着(つ)いた。055夜(よ)はほんのりと明(あ)け放(はな)れむとする時(とき)、056路傍(ろばう)の岩(いは)に腰(こし)打(う)ちかけ、057二(ふた)つの黒(くろ)い影(かげ)が何(なん)だか囁(ささや)き合(あ)つて居(ゐ)る。058谷川(たにがは)の岩(いは)にせかるる水音(みなおと)に遮(さへぎ)られつつ、059しかと言葉(ことば)の筋(すぢ)は解(わか)らない。060アリナは、061谷道(たにみち)に直立(ちよくりつ)して、062頭(あたま)を傾(かたむ)け思(おも)ふやう、063……もはや夜明(よあけ)に間(ま)もない暁(あかつき)の空(そら)に二人(ふたり)の男(をとこ)が囁(ささや)き、064合点(がつてん)のゆかぬ事(こと)だ哩(わい)、065噂(うはさ)に聞(き)く左守(さもり)のシャカンナが一(いつ)ケ月(げつ)以前(いぜん)迄(まで)抱(かか)えて居(ゐ)た山賊(さんぞく)の片割(かたわれ)ではあるまいか。066何(なに)は兎(と)もあれ足音(あしおと)を忍(しの)ばせ、067様子(やうす)を伺(うかが)ひ見(み)む……と息(いき)を凝(こ)らして進(すす)みよつた。068二(ふた)つの影(かげ)は傍(そば)に人(ひと)の寄(よ)り添(そ)ひ居(を)るとは知(し)らず、069盛(さか)んにメートルをあげて居(ゐ)る。
070ハンナ『オイ君(きみ)、071此(この)間(あひだ)天帝(てんてい)の化身(けしん)とか云(い)ふ山子(やまこ)坊主(ばうず)が連(つ)れて来(き)たダリヤ姫(ひめ)とか云(い)ふ美人(びじん)のことを思(おも)ひ出(だ)すと、072俺(おれ)のやうな恋愛(れんあい)観念(くわんねん)の濃厚(のうこう)な色男(いろをとこ)に取(と)つては、073実(じつ)に感慨(かんがい)無量(むりやう)だ。074君(きみ)だつて平素(へいそ)の偽善(ぎぜん)的(てき)言辞(げんじ)も兜(かぶと)を脱(ぬ)いで俺(おれ)の持論(ぢろん)に賛意(さんい)を表(へう)したく成(な)るだらう』
075タンヤ『堂々(だうだう)たる天下(てんか)の男子(だんし)が、076女々(めめ)しい恋愛(れんあい)だの、077神聖(しんせい)だなぞと騒(さわ)ぎ廻(まは)つて風俗(ふうぞく)壊乱(くわいらん)の火(ひ)の手(て)を煽(あ)ふり、078自分(じぶん)も又(また)その火中(くわちう)へ喜(よろこ)んで飛(と)び込(こ)んで行(ゆ)く悲惨(ひさん)の状態(じやうたい)を見(み)ると、079実(じつ)に世(よ)の中(なか)の奴(やつ)の腰抜(こしぬ)け加減(かげん)に愛想(あいさう)が尽(つ)きて了(しま)ふわ。080ヘン、081泥坊(どろばう)稼(かせ)ぎの身分(みぶん)でありながら、082恋愛(れんあい)の、083神聖(しんせい)のとは臍茶(へそちや)の至(いた)りだ。084オイ、085ハンナ、086そんなハンナリせぬ腰抜論(こしぬけろん)は聴(き)きたくないから、087俺(おれ)の前(まへ)ではもう言(い)つて呉(く)れな。088気分(きぶん)が悪(わる)くなるからのう』
089ハ『ヘン、090泥坊(どろばう)だつて恋愛論(れんあいろん)が出来(でき)ない理由(りいう)はあるまい。091先(ま)づ聞(き)き玉(たま)へ、092俺(おれ)の名論(めいろん)卓説(たくせつ)を』
093タ『今日(けふ)は僕(ぼく)も死(し)んだ女房(にようばう)の命日(めいにち)だから、094供養(くやう)の為(ため)に、095君(きみ)の迷論(めいろん)に対(たい)し充分(じゆうぶん)なる攻撃(こうげき)を試(こころ)みる心算(つもり)だが、096得心(とくしん)だらうねー』
097ハ『面白(おもしろ)い、098僕(ぼく)の恋愛論(れんあいろん)に口(くち)を入(い)れる余地(よち)があるならやつて見(み)玉(たま)へ。099しどろもどろの受太刀(うけだち)が折(を)れて、100屹度(きつと)僕(ぼく)の軍門(ぐんもん)に降(くだ)るは火(ひ)を睹(み)るよりも明(あきら)かな事実(じじつ)だ。101オホン、102日進(につしん)月歩(げつぽ)文明(ぶんめい)の今日(こんにち)では、103恋愛論(れんあいろん)に趣味(しゆみ)を持(も)たないものは、104最早(もはや)人外(じんぐわい)の境域(きやうゐき)に自(みづか)ら堕落(だらく)して居(ゐ)るものだ。105この頃(ごろ)僕(ぼく)が大(おほい)に感(かん)ずる事(こと)は、106性欲(せいよく)とか恋愛(れんあい)と云(い)ふ事(こと)に関(くわん)する議論(ぎろん)が、107著(いちじる)しく抽象(ちうしやう)的(てき)に成(な)つて居(ゐ)ることだ。108然(しか)し凡(すべ)ての議論(ぎろん)が反芻(はんすう)的(てき)で一度(いちど)呑(の)み込(こ)んだものを、109わざと抽象(ちうしやう)的(てき)にして出(だ)して居(ゐ)る様(やう)に僕(ぼく)には見(み)えて成(な)らぬ。110ヤレ恋愛(れんあい)は神聖(しんせい)だとか偏的(へんてき)だとか、111性(せい)の問題(もんだい)は斯(か)くあるべきものだとか、112そんな風(ふう)に恋愛(れんあい)を自由(じいう)なものに考(かんが)へては不道徳(ふだうとく)だとか、113離婚(りこん)は絶対(ぜつたい)に不可(いけな)いとか云(い)つて、114婦人会(ふじんくわい)連中(れんちう)が首(くび)を鳩(あつ)めて決議(けつぎ)までやつたと聞(き)いて、115僕(ぼく)は不可思議(ふかしぎ)な心持(こころも)ちがするのだ。116恋愛(れんあい)とか性欲(せいよく)とか云(い)ふものは、117そんなに簡単(かんたん)に無雑作(むざふさ)に片付(かたづ)けらるるものだらうか。118今(いま)の所謂(いはゆる)文明(ぶんめい)人間(にんげん)の言(い)ふが如(ごと)く、119一(いち)で無(な)ければ二(に)、120二(に)で無(な)ければ三(さん)と云(い)ふやうに、121簡単(かんたん)に、122学問(がくもん)的(てき)乃至(ないし)知識(ちしき)的(てき)に片付(かたづ)けて了(しま)ふことの出来(でき)るものだらうか。123僕(ぼく)は何(ど)うも左様(さやう)な考(かんが)へは持(も)てないのだ』
124タ『ヘン、125国家(こくか)危急(ききふ)の場合(ばあひ)に当(あた)つた今日(こんにち)、126恋愛(れんあい)問題(もんだい)なんか唱(とな)へる奴(やつ)の野呂(のろ)さ加減(かげん)に呆(あき)れざるを得(え)ないわ。127そんな問題(もんだい)は極(きは)めて簡単(かんたん)に片付(かたづ)けて了(しま)ふ方(はう)が余程(よほど)人間(にんげん)らしいぢや無(な)いか。128アタ阿呆(あはう)らしい、129学問(がくもん)上(じやう)道徳(だうとく)上(じやう)から見(み)ても恋愛(れんあい)なんか口(くち)にする奴(やつ)は、130僕(ぼく)は人間(にんげん)の屑(くづ)だと思(おも)つて居(ゐ)る』
131ハ『オイ、132タンヤ、133君(きみ)は無味(むみ)乾燥(かんさう)な心理(しんり)を持(も)つて居(ゐ)る様(やう)だが、134世(よ)の中(なか)は理窟(りくつ)で何(なに)程(ほど)押(お)し通(とほ)したつて、135学問(がくもん)や知識(ちしき)でいくら攻(せ)めて行(い)つたつて、136恋愛(れんあい)と云(い)ふが如(ごと)き人間(にんげん)生涯(しやうがい)に関(くわん)する大問題(だいもんだい)を、137さう易々(やすやす)と片付(かたづ)ける訳(わけ)には行(ゆ)かないよ。138却(かへつ)てそれは空想(くうさう)だ、139徒労(とらう)だ。140どうしても人間(にんげん)には信仰(しんかう)と恋愛(れんあい)が無(な)くてはならないのだから、141此(この)問題(もんだい)は極(きわ)めて慎重(しんちよう)に研究(けんきう)すべき価値(かち)が充分(じゆうぶん)にあるよ』
142タ『恋愛(れんあい)と云(い)ふものは人(ひと)に由(よ)つて霊(れい)の方面(はうめん)から観察(くわんさつ)し、143或(あるひ)は肉(にく)の方面(はうめん)から見(み)たり、144自然(しぜん)から見(み)たり、145又(また)は単(たん)なる物質(ぶつしつ)から見(み)たりするのもあるが、146要(えう)するに道徳(だうとく)の範囲内(はんゐない)に於(おい)てでなければ、147神聖(しんせい)な恋愛(れんあい)を論議(ろんぎ)する事(こと)は出来(でき)ぬ。148万々一(まんまんいち)道徳(だうとく)を度外(どぐわい)したる恋愛(れんあい)を唱(とな)ふるものありとすれば、149夫(そ)れは人間(にんげん)以外(いぐわい)の動物(どうぶつ)の心理(しんり)状態(じやうたい)と云(い)ふべきものだ』
150ハ『それは君(きみ)の無味(むみ)乾燥(かんさう)な頭脳(づなう)から割(わ)り出(だ)した一面(いちめん)の見方(みかた)であるが、151到底(たうてい)完全(くわんぜん)なる恋愛(れんあい)、152または性(せい)を捕捉(ほそく)したものとは言(い)はれない。153恋愛(れんあい)は元来(ぐわんらい)自然(しぜん)と同様(どうやう)に端倪(たんげい)すべからざる性質(せいしつ)のものだ。154極端(きよくたん)に言(い)へば、155恋愛(れんあい)なるものは余(あま)りに神聖(しんせい)過(す)ぎて、156彼(かれ)此(これ)と論議(ろんぎ)する事(こと)さへも出来(でき)ない位(くらゐ)のものだ。157恋愛(れんあい)を論議(ろんぎ)された時(とき)には、158モハヤ其(その)本当(ほんたう)のものは何処(どこ)かに去(さ)つて了(しま)つて居(ゐ)ると言(い)つても好(よ)い位(くらゐ)だ。159換言(くわんげん)せば、160恋愛(れんあい)は霊(れい)も肉(にく)も自然(しぜん)も物質(ぶつしつ)も凡(すべ)てを打(う)つて一丸(いちぐわん)と為(な)した処(ところ)にのみ、161恋愛(れんあい)の髣髴(はうふつ)が認(みと)められるもので、162何(なに)も彼(か)もが凡(すべ)て同時(どうじ)にあるのだ。163霊肉(れいにく)一致(いつち)とは好(よ)く言(い)つたものだが、164夫(そ)れでさへ充分(じゆうぶん)で無(な)い程(ほど)流動(りうどう)的(てき)なものだ。165だから恋愛(れんあい)を論(ろん)ずるに当(あた)つては君(きみ)の説(せつ)の様(やう)に、166普通(ふつう)の倫理学(りんりがく)的(てき)論法(ろんぱふ)で、167斯(か)うだから彼(ああ)だとか、168彼(ああ)だから斯(か)うだとか云(い)ふ事(こと)は出来(でき)ない。169普通(ふつう)一般(いつぱん)的(てき)の事実(じじつ)なら、170どんな事(こと)でも結果(けつくわ)から押(お)して考(かんが)へて行(ゆ)けば、171答(こた)へは可成(かなり)正確(せいかく)に出(で)て来(く)るが、172恋愛(れんあい)だけに限(かぎ)つて、173さう簡単(かんたん)に片付(かたづ)かないよ。174知識(ちしき)や倫理(りんり)的(てき)に成(な)つた時(とき)には、175最早(もはや)恋愛(れんあい)とか性(せい)とか言(い)ふものの粕屑(かすくづ)であつて、176君(きみ)の如(ごと)き学者(がくしや)や、177論客(ろんきやく)が何(なに)程(ほど)鹿爪(しかつめ)らしい議論(ぎろん)や意見(いけん)を立(た)てて、178自分(じぶん)こそは古来(こらい)の恋愛論(れんあいろん)の上(うへ)に新(あたら)しい、179そして的確(てきかく)な、180正当(せいたう)な、181一見地(いちけんち)を加(くは)へたものと自惚(うぬぼ)れて居(ゐ)ても、182徒(いたづら)に粕屑(かすくづ)を握(つか)んで金剛石(こんがうせき)の様(やう)に思(おも)つて大騒(おほさわ)ぎをして居(ゐ)るだけで、183恋愛(れんあい)の本体(ほんたい)は何時(いつ)の間(ま)にやら千万(せんまん)里(り)の遠方(ゑんぱう)へ滑(すべ)つて逃(に)げて往(い)つた後(あと)なのだ』
184タ『君(きみ)の説(せつ)は全然(ぜんぜん)道徳(だうとく)を無視(むし)し、185社会(しやくわい)の秩序(ちつじよ)が紊乱(びんらん)し、186家族(かぞく)制度(せいど)が破壊(はくわい)されても、187恋愛(れんあい)さへ満足(まんぞく)にやつて行(ゆ)けば、188それで天下(てんか)は泰平(たいへい)だと云(い)つたやうな悪思想(あくしさう)だ。189人間(にんげん)は自由(じいう)も恋愛(れんあい)も必要(ひつえう)のものだらうが、190社会(しやくわい)や家庭(かてい)の秩序(ちつじよ)を紊(みだ)してでも恋愛(れんあい)を神聖視(しんせいし)するのは、191動物性(どうぶつせい)を帯(お)びて、192外道(げだう)の主張(しゆちやう)だ。193僕(ぼく)は賛成(さんせい)する事(こと)は出来(でき)ないよ。194三角(さんかく)問題(もんだい)や、195離婚(りこん)問題(もんだい)が頻々(ひんぴん)として社会(しやくわい)に続出(ぞくしゆつ)するのも、196君(きみ)の如(ごと)き悪思想(あくしさう)のものが覇張(はば)るからだ。197恋愛(れんあい)といふものは、198成程(なるほど)神聖(しんせい)なものでは有(あ)るが、199少(すこ)しは慎(つつし)みと言(い)ふ事(こと)、200又(また)は倫理(りんり)の点(てん)を考慮(かうりよ)して始(はじ)めて神聖(しんせい)な恋愛(れんあい)とも云(い)へるものだと思(おも)ふ。201君(きみ)の恋愛論(れんあいろん)は所謂(いはゆる)風俗(ふうぞく)破壊論(はくわいろん)の変態(へんたい)だ』
202ハ『君(きみ)の様(やう)に、203恋愛(れんあい)を道徳(だうとく)的(てき)問題視(もんだいし)し過(す)ぎては、204その本体(ほんたい)は既(すで)に蔭(かげ)も形(かたち)も無(な)くなつて了(しま)ふ。205いつの間(ま)にか指(ゆび)の股(また)から滑(すべ)り落(お)ちて了(しま)つて居(ゐ)るのだ。206夫(そ)れにも気(き)が付(つ)かず、207後(あと)に残(のこ)つた恋愛(れんあい)の粕屑(かすくづ)許(ばか)りを捉(とら)へて、208彼(かれ)此(これ)と論議(ろんぎ)して居(ゐ)る様(やう)だ。209僕(ぼく)等(たち)は、210モウ少(すこ)し夫(そ)れを活動(くわつどう)的(てき)存在物(そんざいぶつ)として、211刹那(せつな)々々(せつな)に深(ふか)く触(ふ)れて行(ゆ)く事(こと)を念(ねん)とせなくては成(な)らないだらうと思(おも)ふのだ』
212タ『恋愛(れんあい)は一夫(いつぷ)一婦(いつぷ)の厳守(げんしゆ)に由(よ)つて始(はじ)めて神聖(しんせい)たり得(う)るのだ。213そして人間(にんげん)たるものは飽(あ)くまでも一夫(いつぷ)一婦(いつぷ)の道(みち)を守(まも)つて行(ゆ)かねば人間(にんげん)としての品格(ひんかく)が保(たも)てない。214故(ゆゑ)に何処(どこ)までも倫理(りんり)的(てき)で無(な)くては、215恋愛(れんあい)は成立(せいりつ)せないと思(おも)つて、216僕(ぼく)は泥坊稼(どろばうかせぎ)の傍(かたはら)永年(ながねん)努力(どりよく)して居(ゐ)るのだ』
217ハ『他人(たにん)の婦女(ふぢよ)を強姦(がうかん)し、218財産(ざいさん)を掠奪(りやくだつ)するを以(もつ)てモツトーとする泥坊稼(どろばうかせぎ)の身(み)で居(ゐ)ながら、219一夫(いつぷ)一婦(いつぷ)論(ろん)や、220道徳心(だうとくしん)を以(もつ)て此(この)問題(もんだい)に対(たい)し、221永年(ながねん)の努力(どりよく)を惜(をし)まない君(きみ)の精神(せいしん)と勇気(ゆうき)には大(おほい)に感服(かんぷく)するが、222実際(じつさい)其(その)場(ば)に臨(のぞ)んで、223君(きみ)の堅固(けんご)な主張(しゆちやう)が守(まも)れるか守(まも)れないかは、2231第二(だいに)の問題(もんだい)として、224兎(と)に角(かく)も努力(どりよく)しようとする其(その)心懸(こころが)けは僕(ぼく)は愛(あい)する。225現(げん)に僕(ぼく)なども三角(さんかく)状態(じやうたい)の苦(くる)しい立場(たちば)に立(た)ち、226恋愛(れんあい)の好(よ)い加減(かげん)でない事(こと)を痛感(つうかん)し、227人間(にんげん)の魂(たましひ)の玩弄(ぐわんろう)すべからざることを痛切(つうせつ)に知(し)つた時(とき)には、228「矢張(やつぱり)一夫(いつぷ)一婦(いつぷ)の制度(せいど)が結構(けつこう)だなア。229さう云(い)ふ風(ふう)に出来(でき)て居(ゐ)るのだなア」と云(い)ふ風(ふう)に独語(どくご)せずには居(ゐ)られなかつた事(こと)もある。230故(ゆゑ)に僕(ぼく)も愛情(あいじやう)の濃(こまや)かな、231一夫(いつぷ)一婦(いつぷ)の仲(なか)、232お互(たがひ)に他(た)に目(め)を移(うつ)す余裕(よゆう)のない、233円満(ゑんまん)にして且(か)つ濃厚(のうこう)な夫婦(ふうふ)の仲(なか)を尊敬(そんけい)する一人(ひとり)だ。234併(しか)しそれは原則(げんそく)としてではない。235唯(ただ)好(よ)い事(こと)だと云(い)ふだけに止(とど)めたいのだ。236何故(なぜ)ならば237自然(しぜん)はそんなに簡単(かんたん)に言(い)つて了(しま)ふ事(こと)の出来(でき)るものでは無(な)いのだ。238又(また)一夫(いつぷ)一婦(いつぷ)が如何(いか)に理想(りさう)的(てき)であるからと言(い)つて、239皆(みな)の人間(にんげん)が訳(わけ)もなく行(おこな)ふ事(こと)が出来(でき)る様(やう)では、240又(また)出来(でき)るやうに此(この)自然(しぜん)が出来(でき)て居(ゐ)ては、241それこそ人生(じんせい)は単調(たんてう)になつて了(しま)つて、242微妙(びめう)な美(び)の波動(はどう)もなければ、243細微(さいび)な感情(かんじやう)の渦巻(うづまき)もなく、244全(まつた)く色彩(しきさい)のない荒涼(くわうりやう)たるものに成(な)つて了(しま)ふ。245否(いな)夫(そ)れだけならまだ我慢(がまん)が出来(でき)るとしても、246それでは結局(けつきよく)この人生(じんせい)が成(な)り立(た)つて行(ゆ)かない。247悪(わる)く型(かた)にはまつて了(しま)つた様(やう)になつて、248少(すこ)しの余裕(よゆう)もなく、249終(つひ)には破綻(はたん)百出(ひやくしゆつ)するに至(いた)るものだ。250また単(たん)に生殖(せいしよく)と云(い)ふ点(てん)から見(み)ても、251そんな事(こと)ではとても人生(じんせい)は成立(せいりつ)して行(ゆ)かないのは好(よ)く判(わか)る。252そこで君(きみ)の一夫(いつぷ)一婦(いつぷ)説(せつ)も悪(わる)くはないが、253皆(みな)の人間(にんげん)が夫(そ)れになつては困(こま)ると云(い)ふ形(かたち)になるのだ。254恋愛(れんあい)はモツト自由(じいう)で溌溂(はつらつ)として、255さうした人間(にんげん)の理智(りち)や意識(いしき)で拵(こしら)へた、256希望(きばう)とか理想(りさう)とか、257道義(だうぎ)とか品行(ひんかう)とか云(い)ふ型(かた)の様(やう)なものなどは、258幾何(いくら)出来(でき)ても、259手早(てばや)く且(か)つ容易(ようい)に内部(ないぶ)から打壊(うちこは)して了(しま)ふ強(つよ)い力(ちから)を持(も)たなければ成(な)らないと云(い)ふことになるのだ』
260タ『君(きみ)の如(ごと)き自由(じいう)恋愛論者(れんあいろんしや)の性欲(せいよく)万能(ばんのう)主義者(しゆぎしや)には、261僕(ぼく)も大(おほい)に面喰(めんくら)つた。262開(あ)いた口(くち)が閉(ふさ)がらないわ。263何(なん)なりと御(ご)勝手(かつて)に喋舌(しやべ)つたが好(よ)からうよ』
264ハ『誤解(ごかい)しちや困(こま)るよ。265僕(ぼく)だつて決(けつ)して自由(じいう)恋愛(れんあい)主義者(しゆぎしや)ではない。266又(また)単(たん)に性欲(せいよく)の満足(まんぞく)のみを求(もと)めて世(よ)を乱(みだ)さうとするものでもない。267かつては僕(ぼく)は自然(しぜん)主義(しゆぎ)の唱道者(しやうだうしや)として、268獣類(じうるゐ)に近(ちか)い無残(むざん)な性欲(せいよく)を恣(ほしいまま)にするものだと云(い)ふやうに、269世間(せけん)から勝手(かつて)に定(き)められて了(しま)つたこともあつたが、270決(けつ)して僕(ぼく)は性欲(せいよく)万能宗(ばんのうしう)の信者(しんじや)ではない。271唯(ただ)僕(ぼく)は恋愛(れんあい)といふものは、272さういふ自由(じいう)な奔放(ほんぱう)なものだといふ事(こと)を主張(しゆちやう)するのだ。273単(たん)なる知識(ちしき)になつて了(しま)つては、274約(つま)り前(まへ)にも云(い)つた通(とほ)り、275粕屑(かすくづ)的(てき)論議(ろんぎ)になつて了(しま)つては、276溌溂(はつらつ)とした流動(りうどう)的(てき)存在(そんざい)としては、277到底(たうてい)そんな風(ふう)に定(き)めて了(しま)ふ事(こと)は出来(でき)ないと云(い)ふ事(こと)を言(い)ひたいのだ』
278タ『君(きみ)の説(せつ)の如(ごと)きそんな無検束(むけんそく)なことは許(ゆる)せない。279君(きみ)がさう言(い)ふ風(ふう)に恋愛(れんあい)なるものを見(み)るなれば、280それだけでモウ立派(りつぱ)な正札(しやうふだ)附(つ)きの自由(じいう)恋愛論者(れんあいろんしや)ではないか』
281ハ『その様(やう)にも浅(あさ)く考(かんが)へたら取(と)れるだろうが、282その点(てん)は実(じつ)に難(むつかし)いのだ。283そこに非常(ひじやう)に深(ふか)い細(こま)かい、284ともすれば見落(みおと)して了(しま)ひさうなデリケートな、285心理(しんり)的(てき)境地(きやうち)が存在(そんざい)して居(ゐ)るのだ。286それは一種(いつしゆ)の理解(りかい)であるとも云(い)はれるが、287又(また)一種(いつしゆ)の感激(かんげき)だと言(い)ひ得(う)る。288更(さら)に言(い)ひかへて人間(にんげん)乃至(ないし)人生(じんせい)に対(たい)する、289大(おほ)きな自然(しぜん)に対(たい)する溜息(ためいき)が在(あ)るとも言(い)へる。290約(つ)まり何(ど)うにも成(な)らないと云(い)ふ心持(こころもち)に近(ちか)いものだ。291恋愛(れんあい)なるものは到底(たうてい)見通(みとほ)しする事(こと)の出来(でき)るものではない。292単純(たんじゆん)であつて、293併(しか)も深奥(しんあう)なものだから、294取(と)らうと思(おも)へば直(すぐ)そこに在(あ)るが、295扨(さ)て何処(どこ)までいつても端倪(たんげい)されないものだ。296この心持(こころもち)が約(つ)まり恋愛(れんあい)の純(じゆん)な所(ところ)なのだ』
297タ『全然(ぜんぜん)君(きみ)の説(せつ)は二十(にじつ)世紀(せいき)頃(ごろ)に生(い)きて居(ゐ)た小説家(せうせつか)の田山(たやま)花袋(くわたい)の様(やう)なことを言(い)つてるぢやないか』
298ハ『当然(たうぜん)だよ。299実(じつ)は田山(たやま)花袋(くわたい)の恋愛説(れんあいせつ)に心酔(しんすゐ)して居(ゐ)るのだ、300アハヽヽヽ』
301タ『オイ、302もう夜(よ)が明(あ)けるぢやないか。303恋愛論(れんあいろん)も、304よい加減(かげん)に幕(まく)を卸(おろ)し、305弥々(いよいよ)これから本業(ほんげふ)に取(とり)かかるとせうかい。306此(この)間(あひだ)天帝(てんてい)の化身(けしん)と称(しよう)する玄真坊(げんしんばう)が連(つ)れて来(き)よつたダリヤ姫(ひめ)も頗(すこぶ)る素的(すてき)な美人(びじん)だつたが、307然(しか)し彼奴(あいつ)は、308既(すで)に鼻(はな)の先(さき)が割(わ)れて居(ゐ)る。309そんな古(ふる)めかしいものよりも、310どうだ、311甘(うま)く親分(おやぶん)の所在(ありか)を突(つ)き止(と)めて、312有(あ)らむ限(かぎ)りの胡麻(ごま)を擦(す)り、313元(もと)の如(ごと)く乾児(こぶん)に使(つか)つて貰(もら)ひ、314隙(すき)を考(かんが)へて、315スバール姫(ひめ)を奪(うば)ひ取(と)り、316タラハンの町(まち)へそつと連(つ)れ行(ゆ)き、317金(かね)にかへやうものなら、318一万(いちまん)両(りやう)や二万(にまん)両(りやう)は受(う)け合(あ)ひの西瓜(すゐくわ)だ。319どうだ一(ひと)つ二人(ふたり)が協力(けふりよく)して甘(うま)く目的(もくてき)を達成(たつせい)し、320其(その)金(かね)を以(もつ)て立派(りつぱ)な商売(しやうばい)を営(いとな)み、321天晴(あつぱれ)紳士(しんし)となつて世(よ)を送(おく)らうぢやないか。322恋愛論(れんあいろん)も恋愛論(れんあいろん)だが323俺(おれ)に云(い)はせれば花(はな)より団子(だんご)だ。324華(くわ)を去(さ)り実(じつ)に就(つ)くのが最(もつと)も安全(あんぜん)なるやり方(かた)だよ』
325ハ『俺(おれ)もお前(まへ)と約束(やくそく)して此処(ここ)迄(まで)やつて来(き)たのだが、326あのスバール姫(ひめ)はどことはなしに優(やさ)しみがあり、327あれ程(ほど)の美人(びじん)を娼婦(せうふ)に売(う)るのは何(なん)だか可愛(かあい)さうな気(き)がする。328甘(うま)く目的(もくてき)を達(たつ)したら、329あの女(をんな)をそんな泥水(どろみづ)に落(おと)さず、330どうだ俺(おれ)の女房(にようばう)にスツパリと呉(く)れる雅量(がりやう)はないか。331俺(おれ)だつて何時(いつ)迄(まで)も金鎚(かなづち)の川流(かはなが)れぢやあるまい。332きつと頭(あたま)を上(あ)げる時(とき)がある。333其(その)時(とき)にはお前(まへ)に百万(ひやくまん)両(りやう)でもお礼(れい)をするからなア』
334タ『ヘン、335甘(うま)い事(こと)を仰有(おつしや)りますわい。336お前(まへ)のやうな猿面(さるめん)野郎(やらう)がスバール姫(ひめ)を恋慕(れんぼ)するなんて性(しやう)に合(あ)はないわ。337そんな空想(くうさう)を描(ゑが)くよりも、338甘(うま)く姫(ひめ)を奪(うば)ひ取(と)り、339お金(かね)にした方(はう)が何(なに)程(ほど)徳(とく)だか知(し)れないよ。340又(また)かりに、341貴様(きさま)の女房(にようばう)にスバール姫(ひめ)が成(な)つたとした所(ところ)で、342貴様(きさま)のド甲斐性(がひしやう)では姫(ひめ)を満足(まんぞく)さす事(こと)も出来(でき)まいし、343終(しまひ)の果(はて)には……ド甲斐性(かひしやう)なしだ、344腰抜(こしぬ)け野郎(やらう)だ、345馬鹿(ばか)野郎(やらう)だ……と姫(ひめ)の方(はう)から愛想(あいさう)尽(つ)かされ、346捨(す)てられるのは今(いま)から見(み)えて居(ゐ)る。347万々一(まんまんいち)山奥(やまおく)に育(そだ)つた未通娘(おぼこむすめ)だから、348お前(まへ)の意思(いし)に従(したが)ふにした所(ところ)で349俺(おれ)をどうするのだ。350貴様(きさま)が出世(しゆつせ)した時(とき)俺(おれ)に報酬(ほうしう)をやると云(い)うたが、351貴様(きさま)の力(ちから)ではミロクの世(よ)迄(まで)待(ま)つた所(ところ)で到底(たうてい)覚束(おぼつか)ない話(はなし)だ。352それよりも甘(うま)く手(て)に入(はい)つたら売(う)り飛(と)ばすに限(かぎ)るよ』
353ハ『俺(おれ)とスバール姫(ひめ)とが円満(ゑんまん)なホームを作(つく)り、354そして姫(ひめ)は天成(てんせい)の美人(びじん)だから、355立派(りつぱ)な美人(びじん)を生(う)むに相違(さうゐ)ない。356世(よ)の諺(ことわざ)にも出藍(しゆつらん)の誉(ほまれ)とか云(い)つて、357あんなものがこんなものを生(う)んだかと云(い)ふ事(こと)もある。358雀(すずめ)が鷹(たか)を生(う)む譬(たとへ)もある。359然(しか)るに況(いは)んや孔雀(くじやく)にも比(ひ)すべきスバール姫(ひめ)、360出来(でき)た子(こ)はきつと鳳凰(ほうわう)以上(いじやう)だらう。361その鳳凰(ほうわう)を今(いま)から貴様(きさま)にやる事(こと)の約束(やくそく)して置(お)かう。362貴様(きさま)が夫(それ)を女房(にようばう)にせうと363何万(なんまん)円(ゑん)に売(う)り飛(と)ばさうと勝手(かつて)だ。364暫(しばら)く時節(じせつ)を待(ま)つてくれ。365時節(じせつ)さへ来(く)れば煎豆(いりまめ)にも花(はな)が咲(さ)くと云(い)ふからのう』
366タ『ヘン、367馬鹿(ばか)らしい、368俺(おれ)だつて矢張(やつぱり)男(をとこ)だ。369貴様(きさま)がスバール姫(ひめ)に恋慕(れんぼ)した如(ごと)く、370俺(おれ)だつて矢張(やつぱり)恋慕(れんぼ)の心(こころ)は同様(どうやう)だ。371お前(まへ)は恋愛(れんあい)々々(れんあい)と議論(ぎろん)許(ばか)りで立派(りつぱ)に喋舌(しやべ)り立(た)てるが、372いつも見事(みごと)に成功(せいこう)した事(こと)はあるまい。373十(じふ)人(にん)口説(くど)いて一人(ひとり)応(おう)ずれば一割(いちわり)に当(あた)るから、374まんざら捨(す)てたものではないとお前(まへ)は何時(いつ)も云(い)つて居(ゐ)るが、375百(ひやく)人(にん)千(せん)人(にん)口説(くど)いたつて、376其(その)御(ご)面相(めんさう)では半人(はんにん)だつて応(おう)ずるものはあるまい。377今(いま)迄(まで)一人(ひとり)でも成功(せいこう)したものがあるなら云(い)つて見(み)よ』
378ハ『ヘン、379偉(えら)相(さう)に云(い)ふない。380俺(おれ)だつて恋愛(れんあい)については、381聊(いささ)か自信(じしん)をもつて居(ゐ)るのだ。382まづ僕(ぼく)の女(をんな)に対(たい)する恋愛(れんあい)の実際(じつさい)は、383今日(けふ)迄(まで)の経験(けいけん)上(じやう)、384いつでも半分(はんぶん)丈(だ)けは必(かなら)ず成就(じやうじゆ)して居(ゐ)るのだ。385要(えう)するに恋愛(れんあい)なるものは、386男女(だんぢよ)二人(ふたり)の間(あひだ)に合意(がふい)的(てき)に成立(なりた)つものだから、387其(その)合意(がふい)的(てき)の半分(はんぶん)、388即(すなは)ち男(をとこ)の俺(おれ)だけは確(たしか)に成功(せいこう)するが、389未(いま)だ嘗(かつ)て、390女(をんな)の方(はう)に、391実際(じつさい)の事(こと)を云(い)へば出来(でき)た事(こと)が無(な)い。392それだから僕(ぼく)の恋愛(れんあい)は半分(はんぶん)は間違(まちがひ)なくきつと成就(じやうじゆ)するのだ』
393タ『ウフヽヽヽ、394ヘン馬鹿(ばか)らしい。395貴様(きさま)はよい馬鹿(ばか)だなア。396馬鹿者(ばかもの)の典型(てんけい)とは貴様(きさま)の事(こと)だよ。397議論(ぎろん)許(ばか)り立派(りつぱ)にベラベラ喋舌(しやべ)るが天成(てんせい)の鈍物(どんぶつ)だから、398否(いな)馬鹿(ばか)野郎(やらう)だからお話(はなし)にならないわ』
399ハ『どこやらの教(をし)へにも「阿呆(あはう)になつて居(ゐ)て下(くだ)されよ。400阿呆(あはう)程(ほど)結構(けつこう)なものはないぞよ。401阿呆(あはう)になつて居(を)らねば物事(ものごと)成就(じやうじゆ)致(いた)さぬぞよ」と云(い)ふ事(こと)があるぢやないか。402阿呆(あはう)は所謂(いはゆる)馬鹿(ばか)野郎(やらう)だ。403俺(おれ)は馬鹿(ばか)野郎(やらう)をもつて天下(てんか)の誇(ほこ)りとして居(ゐ)るのだ。404良(よ)う考(かんが)へて見(み)よ。405彼奴(あいつ)は学者(がくしや)だ、406智者(ちしや)だ、407才子(さいし)だ、408策士(さくし)だと世間(せけん)から云(い)はれて居(ゐ)る小賢(こざか)しい人間(にんげん)よりも、409世(よ)の中(なか)は馬鹿(ばか)野郎(やらう)の方(はう)が最後(さいご)の勝利(しようり)を占(し)むるものだ。410天下(てんか)に油断(ゆだん)のならぬものは、411美人(びじん)の鼻声(はなごゑ)と、412阿呆(あはう)と、413暗(やみ)の夜(よ)だと云(い)ふぢやないか。414況(いは)んや現代(げんだい)の如(ごと)き神経(しんけい)過敏(くわびん)の病的(びやうてき)の世(よ)の中(なか)では、415馬鹿(ばか)でなくては、416世(よ)に立(た)つ事(こと)は出来(でき)ないよ。417如何(いか)に猛烈(まうれつ)なバチルス[※「バチルス」とはラテン語で Bacillus 枯草菌(こそうきん)のこと。自然界に広く分布し、病原性はないが、結膜炎などの原因になる場合もある。納豆菌など。]にも犯(をか)されず、418バクテリヤにも左右(さいう)されず、419俗物(ぞくぶつ)共(ども)の相手(あひて)にもしられず、420万事(ばんじ)がボーとして無頓着(むとんちやく)でトボケたやうな、421馬鹿気(ばかげ)た処(ところ)に処世(しよせい)上(じやう)、422無限(むげん)の妙味(めうみ)があるのだ。423馬鹿(ばか)なるかな、424馬鹿(ばか)なるかなだ。425サアこれからお前(まへ)と俺(おれ)と一致(いつち)してこの大馬鹿(おほばか)を尽(つく)しに行(ゆ)かうぢやないか。426シャカンナに取捉(とつつか)まえられて、427死損(しにぞこ)ねになるもよし、428スバール姫(ひめ)に肱鉄(ひぢてつ)をかまされて馬鹿(ばか)を見(み)るもよし、429兎(と)も角(かく)人間(にんげん)は馬鹿(ばか)に場数(ばかず)を踏(ふ)まねば何事(なにごと)も成功(せいこう)しないものだ。430一層(いつそう)の事(こと)思(おも)ひ切(き)つて431浅倉谷(あさくらだに)の方面(はうめん)へ馬鹿力(ばかぢから)を現(あら)はし強行軍(きやうかうぐん)と出(で)かけようぢやないか。432こんな所(ところ)に鳶(とび)の糞(ふん)を頭(あたま)から浴(あ)びて石仏(いしぼとけ)のやうに取越(とりこし)苦労(くらう)をして居(ゐ)るのも馬鹿(ばか)らしい。433サア行(ゆ)かう』
434タ『よし、435もうかうなりや仕方(しかた)がない、436馬鹿(ばか)序(ついで)だ。437全隊(ぜんたい)進(すす)め オ一二(いちに)』
438と谷間(たにま)の細路(ほそみち)を小足(こあし)に刻(きざ)み乍(なが)らチヨコチヨコ進(すす)み行(ゆ)く。439アリナは万感(ばんかん)交々(こもごも)胸(むね)にたたへつつ、440二人(ふたり)の話(はなし)を聞(き)いて飽(あく)迄(まで)追跡(つゐせき)し……父娘(おやこ)の危難(きなん)を救(すく)はにやならぬ。441いや却(かへ)つて父娘(おやこ)両人(りやうにん)を都(みやこ)へ引(ひ)き出(だ)すには好(よ)い機会(きくわい)が出来(でき)たのかも知(し)れない……といそいそしながら進(すす)み行(ゆ)く。442併(しか)し乍(なが)ら平坦(へいたん)な都大路(みやこおほぢ)を車馬(しやば)の便(べん)によつて歩(あゆ)んで居(ゐ)たアリナの足(あし)の運(はこ)びは、443到底(たうてい)山野(さんや)に慣(な)れた山賊(さんぞく)の足跡(あしあと)を追撃(つゐげき)するには余程(よほど)の困難(こんなん)を感(かん)ぜられた。444二人(ふたり)の小盗児(せうとる)の影(かげ)は445いつの間(ま)にか山(やま)の裾(すそ)に遮(さへ)ぎられて見(み)えなくなつて仕舞(しま)つた。
446(大正一四・一・五 新一・二八 於月光閣 加藤明子録)
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