霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第八章 帰鬼(きき)逸迫(いつぱく)〔一七三二〕

インフォメーション
著者:出口王仁三郎 巻:霊界物語 第68巻 山河草木 未の巻 篇:第2篇 恋火狼火 よみ(新仮名遣い):れんかろうか
章:第8章 帰鬼逸迫 よみ(新仮名遣い):ききいっぱく 通し章番号:1732
口述日:1925(大正14)年01月29日(旧01月6日) 口述場所:月光閣 筆録者:加藤明子 校正日: 校正場所: 初版発行日:1926(大正15)年9月30日
概要: 舞台: あらすじ[?]このあらすじはMさん作成です(一部加筆訂正してあります)。一覧表が「王仁DB」にあります。[×閉じる]:
大火災はタラハン市の過半を焼き払い、城内にまで飛び火、茶寮一棟を全焼した。市内には不逞首陀団、主義者団が横行し、目も当てられぬ惨状を呈した。全消防隊、目付け侍を繰り出し、ようやく消化、暴徒の鎮撫を見た。
左守は邸宅を焼かれ、部下を指揮して騒動の収拾にあたっていたが、騒動が収まったのを見て、大王の間に伺候した。するとすでに王は、この騒ぎに驚きのあまり発熱し、人事不省に陥っていた。
左守はこの事態に際して太子に指揮を仰ごうと、太子殿にやってきた。左守は自分の辞任と息子アリナの行く末を頼み込む。
太子(アリナの変装)は、自分は父王の危篤に際して自分が動くことはできないと説く。そして王に代わって左守の職を解き、復興院の総裁に任じた。そして他の重臣と協議の上、復興に力を尽くすように諭す。
左守が帰った後、シノブがやってきて、化けの皮がはがれるのを心配するアリナに気合を入れる。シノブが下がると、入れ違いに右守がやってくる。
右守は、臨終の床の王から太子を呼ぶように言われて、太子を王の床に連れて行こうとやってきたのであった。太子は後からすぐに行くと言って先に右守を返すが、ここで途方にくれてしまう。
そこへシノブがやってきて、太子が帰ってきたことを伝える。太子は父王が臨終であることを聞くと、狼狽のあまり、労働服を着替えるのを忘れてしまう。部屋に戻ってからそれに気づくが、右守が再び父王の臨終を告げに来ると、我を忘れて汚れた労働服のまま、病床に駆けつけてしまう。極度の近眼の右守も、太子の身なりに気がつかなかった。
主な登場人物[?]【セ】はセリフが有る人物、【場】はセリフは無いがその場に居る人物、【名】は名前だけ出て来る人物です。[×閉じる]: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2026-09-05 17:45:16 文字数:4797 OBC :rm6808
愛善世界社版:110頁 八幡書店版:第12輯 191頁 修補版: 校定版:110頁 普及版:69頁 初版: ページ備考:
001 タラハン市(し)の大火災(だいくわさい)は市(し)の過半(くわはん)を焼(や)き払(はら)ひ、002遂(つひ)には城内(じやうない)迄(まで)飛火(とびひ)して茶寮(ちやれう)一棟(ひとむね)を烏有(ういう)に帰(き)した。003城(しろ)の内外(ないぐわい)は阿鼻(あび)叫喚(けうくわん)の地獄(ぢごく)と化(くわ)し、004不逞(ふてい)首陀団(しゆだだん)や主義者(しゆぎしや)団(だん)が一致(いつち)協力(けふりよく)して、005強盗(がうたう)、006強姦(がうかん)、007殺人(さつじん)等(とう)の悪業(あくげふ)を逞(たくま)しふし目(め)も当(あ)てられぬ惨状(さんじやう)を演(えん)じた。008消防隊(せうばうたい)全部(ぜんぶ)、009並(ならび)に目付(めつけ)侍(さむらい)迄(まで)も繰出(くりだ)して、010漸(やうや)くに火(ひ)を消(け)し止(と)め暴徒(ばうと)の乱業(らんげふ)を喰(く)ひ留(とど)むる事(こと)を得(え)た。011左守(さもり)は吾(わが)邸宅(ていたく)を焼(や)かれ、012命(いのち)辛々(からがら)部下(ぶか)を指揮(しき)して騒擾(さうぜう)鎮撫(ちんぶ)に努(つと)めて居(ゐ)たが、013やうやく騒動(さうだう)が治(をさ)まつたので蒼皇(さうくわう)として大王(だいわう)の居間(ゐま)に伺候(しこう)し見(み)れば、014大王(だいわう)は老病(らうびやう)にて臥床中(ぐわしやうちう)城下(じやうか)の大変(たいへん)を耳(みみ)にし、015驚(おどろ)きの余(あま)り発熱(はつねつ)甚(はなはだ)しく遂(つひ)に人事(じんじ)不省(ふせい)に陥(おちい)つて了(しま)つた。016かかる混雑(こんざつ)の際(さい)とて、017医者(いしや)も思(おも)ふやうに駆(か)けつけず、018重臣(ぢうしん)は困(こま)り切(き)つて大王(だいわう)が病室(びやうしつ)に首(くび)を鳩(あつ)め前後策(ぜんごさく)を講(かう)じて居(を)る。019左守(さもり)は最早(もはや)此(この)上(うへ)は太子(たいし)の君(きみ)に拝謁(はいえつ)して指揮(しき)を仰(あふ)がむものと、020禿頭(はげあたま)をテカテカ照(て)らし乍(なが)ら、021太子殿(たいしでん)に奉伺(ほうし)したのである。
022 左守(さもり)は例(れい)の如(ごと)く二拍手(にはくしゆ)しながら、023垂簾(すゐれん)の前(まへ)に低頭(ていとう)平身(へいしん)し、024稍(やや)慄(ふる)ひを帯(おび)たる声(こゑ)にて、
025左守『太子(たいし)殿下(でんか)に申上(まをしあ)げます。026本日(ほんじつ)は微臣(びしん)の不注意(ふちうい)より城下(じやうか)に大火災(だいくわさい)起(おこ)り、027不逞(ふてい)首陀団(しゆだだん)や主義者(しゆぎしや)団(だん)其(その)他(た)の暴徒(ばうと)、028暴威(ばうゐ)を逞(たくまし)ふし火(ひ)を放(はな)つて都(みやこ)の大半(たいはん)を烏有(ういう)に帰(き)し、029尚(なほ)飽(あ)き足(た)らず、030強盗(がうたう)、031強姦(がうかん)、032殺人(さつじん)など、0321所在(あらゆる)暴逆(ばうぎやく)を逞(たくまし)ふし、033タラハン市(し)は蚊(か)の鳴(な)くが如(ごと)き憐(あは)れな有様(ありさま)で厶(ござ)います。034大王(だいわう)様(さま)も御(ご)心配(しんぱい)のあまり俄(にはか)に病気(びやうき)新(あらた)まり、035いつ御(ご)昇天(しようてん)遊(あそ)ばすやも計(はか)られない悲惨事(ひさんじ)が湧出(ゆうしゆつ)致(いた)しました。036かかる惨状(さんじやう)を招来(せうらい)致(いた)しましたのも、037全(まつた)く小臣(せうしん)等(ら)が輔弼(ほひつ)の任(にん)を全(まつた)ふせざりし罪(つみ)で厶(ござ)いますれば、038天下(てんか)万民(ばんみん)に代(かは)り闕下(けつか)に伏(ふ)して罪(つみ)を謝(しや)し、039今日(こんにち)限(かぎ)り骸骨(がいこつ)を乞(こ)ひ奉(たてまつ)りますれば、040何卒(なにとぞ)、041時代(じだい)に目醒(めざ)めたる新人物(しんじんぶつ)をば登庸(とうよう)遊(あそ)ばされ、042国事(こくじ)の大改革(だいかいかく)を断行(だんかう)されむ事(こと)を希望(きばう)いたします。043左守(さもり)が職(しよく)を辞(じ)するに当(あた)りまして、044太子(たいし)殿下(でんか)にお願(ねが)ひ致(いた)して置(お)きたい事(こと)は、045悴(せがれ)の身(み)の上(うへ)で厶(ござ)います。046微臣(びしん)も老齢(らうれい)加(くは)はり、047殿中(でんちう)に入内(にふだい)致(いた)しますにも、048かくの如(ごと)く杖(つゑ)を持(も)たねばならぬやうな廃物(はいぶつ)で厶(ござ)いますから、049大王(だいわう)殿下(でんか)の後(あと)を追(お)うて何時(いつ)国替(くにがへ)をするやらも分(わか)りませぬ。050何卒(なにとぞ)悴(せがれ)の身(み)の上(うへ)をよろしくお願(ねが)ひ申(まをし)上(あ)げます』
051 アリナはわざと荘重(さうちよう)な声(こゑ)にて、
052アリナ『ヤ左守(さもり)殿(どの)、053大変(たいへん)な事(こと)であつたのう。054嘸(さぞ)人民(じんみん)が困(こま)つて居(ゐ)るであらう。055汝(なんぢ)は国家(こくか)危急(ききふ)の此(この)場合(ばあひ)に当(あた)つて、056骸骨(がいこつ)を乞(こ)ふなどとは不心得(ふこころえ)千万(せんばん)にも程(ほど)がある。057日頃(ひごろ)高禄(かうろく)を与(あた)へておいたのは斯様(かやう)の際(さい)に尽(つく)させむ為(た)めの父(ちち)大王(だいわう)の思召(おぼしめし)ではないか。058併(しか)し乍(なが)ら、059不能(ふのう)をもつて能(のう)を強(し)ふるは君(きみ)たるものの道(みち)ではない。060汝(なんぢ)は幸(さいは)ひに061時代(じだい)に目醒(めざ)め余(よ)が意思(いし)をよく悟(さと)りをる賢明(けんめい)なる悴(せがれ)あれば、062彼(かれ)アリナを汝(なんぢ)と思(おも)ひ重(おも)く用(もち)ふるであらう。063必(かなら)ず心配(しんぱい)いたすな。064さうして汝(なんぢ)の家(いへ)は無難(ぶなん)であつたかのう』
065左(さ)『ハイ御(ご)親切(しんせつ)によくお尋(たづ)ね下(くだ)さいます。066仁慈(じんじ)のお言葉(ことば)、067何時(いつ)の世(よ)にかは忘却(ばうきやく)致(いた)しませうや。068吾(わが)邸宅(ていたく)は不逞(ふてい)首陀団(しゆだだん)の為(ため)に包囲(はうゐ)され、069第一着(だいいちちやく)に焼(や)きつくされて了(しま)ひました。070併(しか)し乍(なが)ら、071ウラルの神(かみ)様(さま)の御(ご)加護(かご)によりて生命(せいめい)は助(たす)けて頂(いただ)きました。072それよりも恐(おそ)れ多(おほ)いは、073大王(だいわう)様(さま)がいつも愛玩(あいぐわん)してお出(いで)になりました、074古今(ここん)の珍器(ちんき)を集(あつ)めた茶寮(ちやれう)の一棟(ひとむね)、075惜(をし)くも焼(や)き失(う)せました。076大王家(だいわうけ)歴代(れきだい)の重宝(ぢうほう)は此(この)茶寮(ちやれう)に納(をさ)めてありました。077実(じつ)に此(この)一事(いちじ)にても微臣(びしん)は責任(せきにん)を帯(お)びて骸骨(がいこつ)を乞(こ)はねばなりませぬ。078何卒(なにとぞ)、079おゆるしを願(ねが)ひ奉(たてまつ)ります』
080ア『や、081左守(さもり)其(その)方(はう)の申(まを)す言葉(ことば)も一応(いちおう)道理(だうり)があるやうだ。082汝(なんぢ)は是(これ)より此処(ここ)を引取(ひきと)り、083他(た)の重臣(ぢうしん)共(ども)と相談(さうだん)の上(うへ)復興院(ふくこうゐん)を創立(さうりつ)して、084再(ふたた)び元(もと)のタラハン市(し)に復帰(ふくき)すべく勉(つと)めて呉(く)れ。085太子(たいし)、086汝(なんぢ)左守(さもり)の職掌(しよくしやう)を父(ちち)に代(かは)つて免除(めんぢよ)する。087臣間(しんかん)の事業(じげふ)として復興院(ふくこうゐん)の総裁(そうさい)となれ』
088左(さ)『殿下(でんか)の御(ご)台命(たいめい)誠(まこと)にもつて有難(ありがた)く感謝(かんしや)に耐(た)へませぬが、089世(よ)に後(おく)れたる禿頭(はげあたま)をもつて090どうして、0901今日(こんにち)の世(よ)の中(なか)の人心(じんしん)を治(をさ)め復興(ふくこう)の目的(もくてき)を達成(たつせい)する事(こと)が出来(でき)ませうか。091此(この)儀(ぎ)は何卒(なにとぞ)お許(ゆる)し下(くだ)さいませ。092実(じつ)の所(ところ)は玉(たま)の原(はら)の別荘(べつさう)に安臥中(あんぐわちう)、093火事(くわじ)と聞(き)いて驚(おどろ)き石段(いしだん)より転(ころ)げ落(お)ち、094大変(たいへん)な負傷(ふしやう)を仕(つかまつ)りました。095これがつけ入(い)りとなつて、096微臣(びしん)も遠(とほ)からぬ中(うち)帰幽(きいう)いたさねばなりますまい』
097ア『ヤアそれは思(おも)ひも寄(よ)らぬ気(き)の毒(どく)な事(こと)を致(いた)した。098アリナが居(を)れば其(その)方(はう)の介抱(かいはう)をさせたいのだが、099火災(くわさい)が起(おこ)ると共(とも)に殿内(でんない)を飛(と)び出(だ)し、100未(ま)だ何(なん)の消息(せうそく)も無(な)いのだから、101どうする事(こと)も出来(でき)ぬ。102余(よ)も斯(かか)る際(さい)には泰然(たいぜん)自若(じじやく)として軽挙(けいきよ)妄動(まうどう)を謹(つつし)み、103万一(まんいち)の時(とき)には父王(ちちわう)殿下(でんか)の後(あと)を継(つ)がねばならぬ。104どうか其(その)方(はう)より右守(うもり)其(その)外(ほか)一同(いちどう)によきに伝(つた)へて呉(く)れ』
105左(さ)『ハイ、106重(かさ)ね重(がさ)ね御(ご)親切(しんせつ)なお言葉(ことば)有難(ありがた)う厶(ござ)います。107そして悴(せがれ)のアリナは未(ま)だ帰(かへ)らないと承(うけたま)はりましたが、108もしやあの騒動(さうだう)に紛(まぎ)れ人手(ひとで)にかかつたのでは有(あ)りますまいか。109但(ただ)しは火(ひ)に囲(かこ)まれて焼死(やけじに)でも致(いた)したのでは厶(ござ)いますまいか』
110と涙声(なみだごゑ)になる。
111ア『父上(ちちうへ)、112いやいや父王(ちちわう)殿下(でんか)の御(ご)大病(たいびやう)とあれば余(よ)は茲(ここ)に謹慎(きんしん)を守(まも)つて居(ゐ)る。113アリナも可愛(かあい)さうだが、114彼(かれ)の事(こと)だから滅多(めつた)に命(いのち)を捨(す)つるやうな事(こと)はあるまい。115安心(あんしん)したがよからう』
116左(さ)『ハイ、117有難(ありがた)う厶(ござ)います。118失礼(しつれい)な事(こと)をお尋(たづ)ね致(いた)しますが、119殿下(でんか)には此(この)頃(ごろ)お声(こゑ)の色(いろ)がお違(ちが)ひ遊(あそ)ばすやうで厶(ござ)いますが、120お風(かぜ)でもお召(め)し遊(あそ)ばしたのでは厶(ござ)いますまいか。121尊貴(そんき)の御(おん)身(み)の上(うへ)、122何卒(なにとぞ)お大切(たいせつ)にお願(ねが)ひ致(いた)します。123人間(にんげん)は衛生(ゑいせい)が第一(だいいち)で厶(ござ)いますから』
124 アリナは此(この)言葉(ことば)にギヨツとし乍(なが)ら飽(あく)迄(まで)図々(づうづう)しく空呆(そらとぼ)け、
125ア『イヤ、126別(べつ)に病気(びやうき)でも何(なん)でもない。127実(じつ)は青春(せいしゆん)の時期(じき)だから声変(こゑがは)りが致(いた)したのだ。128そして余(よ)も昨夜(さくや)の大火事(おほくわじ)に些(すこ)しばかり気(き)を揉(も)んだものだから、129声(こゑ)が少(すこ)しく変(かは)つたのだらうよ。130必(かなら)ず必(かなら)ず心配(しんぱい)して呉(く)れるな。131又(また)汝(なんぢ)の悴(せがれ)アリナも屹度(きつと)無事(ぶじ)で居(ゐ)るだらう』
132左(さ)『ハイ、133有難(ありがた)う厶(ござ)います。134どうか衛生(ゑいせい)に御(ご)注意(ちうい)下(くだ)さいませ。135偏(ひとへ)にお願(ねが)ひ申上(まをしあ)げます』
136ア『爺(おやぢ)、137否(いな)左守(さもり)138心配(しんぱい)致(いた)すな。139人間(にんげん)の生涯(しやうがい)を衛生(ゑいせい)の二字(にじ)に威喝(ゐかつ)されて、140自分(じぶん)から半病人(はんびやうにん)になるやうな事(こと)は致(いた)さない。141人間(にんげん)は気(き)の持(も)ちやう一(ひと)つで病気(びやうき)なんか起(おこ)るものではない。142其(その)方(はう)も気(き)を確(たしか)に持(も)つて長生(ながいき)をしたがよからうぞ』
143左(さ)『何彼(なにか)とお取込(とりこ)みの中(なか)、144いつ迄(まで)お邪魔(じやま)を致(いた)しても済(す)みませぬから、145微臣(びしん)は引(ひ)き下(さが)りませう。146此(この)際(さい)御(ご)自愛(じあい)あらむ事(こと)を懇願(こんぐわん)致(いた)します』
147と云(い)ひ捨(す)て、148恭(うやうや)しく敬意(けいい)を表(あら)はし乍(なが)ら杖(つゑ)を力(ちから)に下(さが)り行(ゆ)く。149左守(さもり)は道々(みちみち)思(おも)ふやう、
150左守『どうも殿下(でんか)のお声変(こゑがは)り、151これは何(なん)かの原因(げんいん)が有(あ)るだらう。152どこともなしに今(いま)迄(まで)とは荘重(さうちよう)を欠(か)き、153さうして今日(けふ)は懸河(けんが)の弁舌(べんぜつ)、154ハテ合点(がてん)の行(ゆ)かぬ事(こと)だなア。155あの口調(くてう)は悴(せがれ)のアリナにそつくりだ。156然(しか)し何時(いつ)もアリナが悪智慧(わるぢゑ)をかうものだから、157言葉(ことば)づき迄(まで)が殿下(でんか)に感染(かんせん)したのだらう。158恐(おそ)れ多(おほ)い事(こと)だわい』
159と独語(ひとりご)ちつつ帰(かへ)り行(ゆ)く。
160 アリナはほつと一息(ひといき)し乍(なが)ら、
161アリナ『アヽ危(あぶ)ない事(こと)だつた。162又(また)しても爺(おやぢ)に訪問(はうもん)され肝玉(きもたま)がでんぐり返(がへ)つて仕舞(しま)つた。163幸(さいは)ひ爺(おやぢ)は胡麻(ごま)かしたが、164やがて右守(うもり)がやつて来(く)るだらう。165こいつは困(こま)つたものだなア』
166と腕(うで)を組(く)んで思案(しあん)の折柄(をりから)、167足早(あしばや)に簾(みす)を上(あ)げて入(い)り来(く)るは夜前(やぜん)情約(じやうやく)締結(ていけつ)を終(を)へたシノブであつた。
168シノブ『殿下(でんか)、169御(ご)心配(しんぱい)なさいますな。170あの調子(てうし)なれば大丈夫(だいぢやうぶ)で厶(ござ)いますよ。171現在(げんざい)の父上(ちちうへ)でさへも化(ばけ)の皮(かは)を剥(は)ぐ事(こと)が出来(でき)ず、172スダルマン太子(たいし)と信(しん)じ切(き)つて帰(かへ)られた位(くらゐ)ですから173右守(うもり)位(ぐらゐ)は何(なん)でもありませぬ。174そして右守(うもり)は名代(なだい)の近眼(きんがん)で厶(ござ)いますから御(ご)心配(しんぱい)なさいますな』
175アリナ『いや誰(たれ)かと思(おも)へば、176汝(なんぢ)は女中頭(ぢよちうがしら)のシノブぢやないか。177今日(こんにち)の場合(ばあひ)178陽気(やうき)な事(こと)は云(い)つて居(を)れない。179居間(ゐま)に下(さが)つて来客(らいきやく)の接待(もてなし)でも致(いた)したが好(よ)からうぞ』
180シ『ホヽヽヽ、181殿下(でんか)182よう白々(しらじら)しいそんな事(こと)が仰(おほ)せられますなア。183妾(わらは)はどこ迄(まで)も殿下(でんか)のお傍(そば)は離(はな)れませぬ。184殿下(でんか)の挙措(きよそ)動作(どうさ)は一々(いちいち)次(つぎ)の間(ま)から調(しら)べて居(を)りますから』
185ア『大変(たいへん)な警戒線(けいかいせん)を張(は)つたものだなア、186まるきり監視附(かんしづき)のやうなものだわい。187アヽ太子(たいし)の役(やく)も窮屈(きうくつ)なものだなア』
188シ『一国(いつこく)の王者(わうじや)にならうと思(おも)へば189少々(せうせう)位(ぐらゐ)の窮屈(きうくつ)は忍(しの)ばなければなりますまい。190茲(ここ)二三(にさん)日(にち)は特別(とくべつ)訪問者(はうもんしや)が多(おほ)う厶(ござ)いませうから、191確(しつか)りして居(ゐ)て下(くだ)さいませ』
192ア『アヽ、193スダルマン太子(たいし)は何(なん)だつて帰(かへ)つて厶(ござ)らぬのだらう。194「半日(はんにち)でよいから代(かは)つて貰(もら)ひたい」と仰有(おつしや)つたが、195こんな所(ところ)へ右守(うもり)や重臣(ぢうしん)がどしどしやつて来(きた)ら196終(しま)ひには化(ば)けの皮(かは)が現(あら)はれて了(しま)ふがなア』
197シ『これだけの騒動(さうだう)、198如何(いか)に呑気(のんき)の太子(たいし)様(さま)だとて悠々(いういう)スバール姫(ひめ)に現(うつつ)を抜(ぬ)かしてお出(いで)になる筈(はず)はありませぬ。199もう帰(かへ)つてお出(いで)になるでせうから、200もう暫(しばら)く辛抱(しんばう)して下(くだ)さいませ。201天下(てんか)分目(わけめ)の関ケ原(せきがはら)、202王者(わうじや)になるか、203平民(へいみん)に下(さが)るかの分水嶺(ぶんすいれい)ですから』
204ア『それもさうだ。205誰(たれ)が来(く)るか分(わか)らないから、206其方(そなた)は早(はや)く簾(みす)の外(そと)へ罷(まか)り下(さが)つたがよからう。207余(よ)は心配(しんぱい)でならないわ』
208シ『ホヽヽヽ、209「余(よ)は心配(しんぱい)でならないわ」などと、210たうとう本当(ほんたう)の太子(たいし)に言葉(ことば)つきだけはなつて仕舞(しま)はれましたなア。211左様(さやう)なれば邪魔者(じやまもの)は罷(まか)り下(さが)るで厶(ござ)いませう』
212と、213つんと立(た)ち、214ぷりんとして畳(たたみ)をぽんぽんと二(ふた)つ三(み)つ蹴(け)つて一間(ひとま)の内(うち)に姿(すがた)をかくした。215それと入(い)れ違(ちが)ひに慌(あわ)ただしくやつて来(き)たのは右守(うもり)であつた。216右守(うもり)は型(かた)の如(ごと)く二拍手(にはくしゆ)し、217頭(かしら)を床(ゆか)に下(さ)げ乍(なが)ら、
218右守『恐(おそ)れ乍(なが)ら右守(うもり)の司(かみ)、219太子(たいし)殿下(でんか)に申(まをし)上(あ)げます。220昨夜(さくや)以来(いらい)221城下(じやうか)大混乱(だいこんらん)の状況(じやうきやう)は222左守(さもり)の司(かみ)より上申(じやうしん)致(いた)したで厶(ござ)いませうから、223私(わたくし)は重(かさ)ねて申(まをし)上(あげ)ませぬ。224殿下(でんか)におかせられても御(ご)壮健(さうけん)の御(おん)顔(かほ)を拝(はい)し225右守(うもり)身(み)に取(と)つて恐悦(きようえつ)至極(しごく)に存(ぞん)じ奉(たてまつ)ります。226就(つ)きましては大王(だいわう)様(さま)の御(ご)容態(ようたい)俄(にはか)に新(あらた)まり、227幽(かすか)の息(いき)の下(した)より「殿下(でんか)を呼(よ)べ」と仰(おほ)せられます。228どうか一(いち)時(じ)も早(はや)く大王(だいわう)のお居間(ゐま)迄(まで)御(ご)賁臨(ふんりん)を願(ねが)ひ奉(たてまつ)ります』
229 アリナは一(ひと)つ脱(のが)れて又(また)一(ひと)つ、
230アリナ『アヽ偽太子(にせたいし)もつらいものだ。231大王(だいわう)殿下(でんか)の傍(そば)には沢山(たくさん)の看病人(かんびやうにん)も居(を)るだらう、232重臣(ぢうしん)共(ども)も居(を)るだらう。233そんな所(ところ)へ往(ゆ)かうものなら忽(たちま)ち秘密(ひみつ)が露見(ろけん)して、234フン縛(じば)られて了(しま)ふかも知(し)れない』
235と心(こころ)に非常(ひじやう)な驚(おどろ)きを感(かん)じたが、236横着者(わうちやくもの)の事(こと)とてわざと素知(そし)らぬ顔(かほ)をして、
237アリナ『何(なん)と申(まを)す、238父王(ちちわう)殿下(でんか)が御(ご)危篤(きとく)と云(い)ふのか。239それでは早速(さつそく)参上(さんじやう)致(いた)さねばなるまい、240余(よ)は是(これ)より衣服(いふく)を着替(きか)へ241神(かみ)様(さま)に拝礼(はいれい)致(いた)し父王(ちちわう)殿下(でんか)の平癒(へいゆ)を祈(いの)り242直(ただ)ちに参上(さんじやう)いたすによつて其(その)由(よし)を父王(ちちわう)に伝(つた)へて呉(く)れ』
243右守(うもり)『殿下(でんか)のお言葉(ことば)で厶(ござ)いますが、244錦衣(きんい)のお着替(きか)へも結構(けつこう)、245神(かみ)様(さま)へのお祈(いの)りも結構(けつこう)で厶(ござ)いますが、246最早(もはや)御(ご)臨終(りんじう)で厶(ござ)いますから、247直(ただ)ちにお越(こ)し下(くだ)さいませ。248私(わたくし)がお供(とも)を致(いた)します。249早(はや)く親子(おやこ)の御(ご)対面(たいめん)を遊(あそ)ばしませ。250後(あと)で如何(いか)程(ほど)お悔(く)やみ遊(あそ)ばしても返(かへ)らぬ事(こと)で厶(ござ)いますから』
251アリナ『余(よ)は直(ただち)に参(まゐ)る。252サ早(はや)く其(その)方(はう)は余(よ)に構(かま)はず父(ちち)のお側(そば)に行(い)つて呉(く)れ。253余(よ)はどうしても神(かみ)に祈(いの)らねば気(き)が済(す)まぬ。254早(はや)くこの場(ば)を立(た)ちのき父王(ちちわう)の傍(そば)に行(ゆ)かぬか』
255と声(こゑ)に力(ちから)を籠(こ)めて呶鳴(どな)りつけたり。256右守(うもり)は鶴(つる)の一声(ひとこゑ)に止(や)むなく立(た)つて帰(かへ)り行(ゆ)く。257後(あと)にアリナは、
258アリナ『アヽ困(こま)つた事(こと)が出来(でき)たものだ。259やつぱり左守(さもり)の悴(せがれ)のアリナで居(ゐ)る方(はう)がよい。260アヽどうしてこの難関(なんくわん)を切(き)り抜(ぬ)けようか』
261と項垂(うなだ)れて居(ゐ)る。262そこへ女中頭(ぢよちうがしら)のシノブが走(はし)り来(きた)り、
263シノブ『もし、264アリナ様(さま)、265殿下(でんか)が帰(かへ)られました。266サアサア早(はや)く衣裳(いしやう)をお着替(きか)へなさいませ』
267アリナ『何(なに)268殿下(でんか)がお帰(かへ)りか、269それや結構(けつこう)だ。270や、271助(たす)け船(ぶね)が帰(かへ)つたやうなものだ。272何処(どこ)に居(ゐ)られるか』
273シノブ『労働服(らうどうふく)を着(き)た儘(まま)裏口(うらぐち)に立(た)つて居(を)られます』
274 アリナは急(いそ)いで裏口(うらぐち)に走(はし)り出(い)で、
275アリナ『ヤ殿下(でんか)、276よう帰(かへ)つて下(くだ)さいました。277今(いま)や私(わたくし)の化(ばけ)の皮(かは)の現(あら)はれむとする所(ところ)、278父王(ちちわう)殿下(でんか)には今(いま)や御(ご)臨終(りんじう)で厶(ござ)います。279サア早(はや)くお会(あ)ひ下(くだ)さいませ。280さうして私(わたし)は錦衣(きんい)を脱(ぬ)ぎ捨(す)て元(もと)のアリナに帰(かへ)つて了(しま)ひます。281今(いま)が危機(きき)一髪(いつぱつ)の正念場(しやうねんば)、282サ早(はや)く錦衣(きんい)にお着替(きか)へ下(くだ)さいませ。283何時(いつ)重臣(ぢうしん)共(ども)が来(く)るかも分(わか)りませぬ』
284 太子(たいし)は父(ちち)の臨終(りんじう)と聞(き)き着物(きもの)を着替(きか)へる事(こと)を忘(わす)れ、285又(また)アリナも狼狽(らうばい)の余(あま)り、286太子(たいし)に錦衣(きんい)を着(き)せる事(こと)を忘(わす)れて了(しま)つた。287太子(たいし)はそのまま駆(か)けつけ火鉢(ひばち)の前(まへ)に坐(すわ)つて見(み)た。
288太(たい)『ヤ、289これや大変(たいへん)だ。290労働服(らうどうふく)の儘(まま)だ。291何(なん)とかして早(はや)く錦衣(きんい)と着(き)かへねばなるまい。292オイ、293アリナその錦衣(きんい)を早(はや)く持(も)つて来(こ)い』
294と呼(よ)べど叫(さけ)べど295アリナは狼狽(らうばい)の余(あま)り錦衣(きんい)を女中(ぢよちう)部屋(べや)に投(な)げ捨(す)て、296トランクの中(なか)より有合(ありあは)せの寝衣(ねまき)を取(と)り出(だ)して着替(きか)へ、297便所(べんじよ)の中(なか)に潜(ひそ)んで慄(ふる)つて居(ゐ)た。298一方(いつぱう)太子(たいし)は如何(いかが)はせむと焦慮(せうりよ)して居(ゐ)る。299其所(そこ)へ慌(あわ)ただしく右守(うもり)の司(かみ)がやつて来(き)て、300簾(みす)の外(そと)より泣声(なきごゑ)を絞(しぼ)り乍(なが)ら、
301右守『殿下(でんか)302早(はや)くお出(いで)下(くだ)さいませ。303御(ご)臨終(りんじう)で厶(ござ)います』
304 この声(こゑ)に太子(たいし)は父(ちち)の臨終(りんじう)と聞(き)いて何(なに)も彼(か)も打(う)ち忘(わす)れ、305汚(きたな)い労働服(らうどうふく)の儘(まま)、306右守(うもり)の後(あと)に跟(つ)いて大王(だいわう)の病床(びやうしやう)に駆(か)けつけたり。307右守(うもり)は近眼(きんがん)の事(こと)なり308余(あま)り慌(あわ)てて居(ゐ)るので、3081太子(たいし)の労働服(らうどうふく)が目(め)につかざりけり。
309(大正一四・一・六 新一・二九 於月光閣 加藤明子録)
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