霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第一四章 猩々島(しやうじやうじま)〔一四八九〕

インフォメーション
著者:出口王仁三郎 巻:霊界物語 第58巻 真善美愛 酉の巻 篇:第3篇 千波万波 よみ(新仮名遣い):せんぱばんぱ
章:第14章 猩々島 よみ(新仮名遣い):しょうじょうじま 通し章番号:1489
口述日:1923(大正12)年03月29日(旧02月13日) 口述場所:皆生温泉 浜屋 筆録者:北村隆光 校正日: 校正場所: 初版発行日:1925(大正14)年6月15日
概要: 舞台: あらすじ[?]このあらすじはMさん作成です(一部加筆訂正してあります)。一覧表が「王仁DB」にあります。[×閉じる]:
印度の国の北端、テルモン湖水を南に渡ったイヅミの国のスマの里に、バーチルという豪農があった。バーチルは何不自由なき身の上でありながら魚を取ることが好きで、妻のサーベルの諌めも聞かず、財産の整理もせずに舟を出して網を打ち釣り糸を垂れる毎日であった。
ある夜、バーチルは妻が寝静まった後に、僕のアンチーを連れて舟を出した。魚がよく釣れるのでそれに心を奪われていると、にわかに黒雲が起こって空には一点の星影も見えなくなり、激しい嵐にさらされた。
バーチルは動転して、取った魚を守るためにアンチーを舟から下ろそうとするほどであったが、ようやく我に返ってアンチーと二人で舟を転覆から守るために魚を湖水に抛りこみ始めた。しかし時すでに遅く、大津波に舟は飲まれて主従は湖水に投げ出されてしまった。
気が付くとバーチルは孤島に漂着し、たくさんの猩々に囲まれていた。すると一匹の大なる猩々が自分の顔を覗き込んで、同情の涙に暮れている。
この大きな猩々は女王であった。猩々の女王はバーチルを棲家に連れて行って介抱した。バーチルは三年の月日をこの猩々ヶ島で過ごした。二年目には猩々とバーチルの間に赤ん坊も生まれていた。
バーチルは何とか猩々の目を盗んで故郷へ帰ろうという思いから、猩々たちを連れて浜遊びに出た。たちまち二三丁ばかり沖合を通る船を認め、バーチルは両手を振って船に合図を送った。
猩々ヶ島の沖合に現れたのは、玉国別たちの船・初稚丸であった。伊太彦は人間が浜辺で手を振っているのを認めた。ヤッコスは恐ろしい猩々の島に上陸することを反対したが、玉国別は人間がいるなら助けなければならないと、上陸を決めた。
主な登場人物[?]【セ】はセリフが有る人物、【場】はセリフは無いがその場に居る人物、【名】は名前だけ出て来る人物です。[×閉じる]: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:0000-00-00 00:00:00 文字数:4190 OBC :rm5814
愛善世界社版:167頁 八幡書店版:第10輯 430頁 修補版: 校定版:178頁 普及版:66頁 初版: ページ備考:
001 印度(ツキ)の国(くに)の北端(ほくたん)、002テルモンの湖水(こすい)を南(みなみ)に渡(わた)つたイヅミの国(くに)のスマの里(さと)にバーチルと云(い)ふ豪農(がうのう)があつた。003バーチルは何(なに)不自由(ふじいう)なき身(み)であり乍(なが)ら、004暇(ひま)ある毎(ごと)に湖水(こすい)に船(ふね)を浮(うか)べ、005魚(うを)を漁(あさ)る事(こと)を唯一(ゆゐいつ)の楽(たのし)みとして居(ゐ)た。006妻(つま)のサーベルは何時(いつ)も『危険(きけん)な漁業(ぎよげふ)を止(や)めて家(いへ)におとなしく居(を)つて財産(ざいさん)の整理(せいり)をせよ』と諫言(かんげん)したが、007どうしても聞(き)かうとはせず、008女房(にようばう)の寝静(ねしづ)まつたのを考(かんが)へ浜辺(はまべ)に出(い)で例(れい)の如(ごと)く網(あみ)をうち釣(つり)を垂(た)れ、009あまり面白(おもしろ)いので何時(いつ)とはなしに沖(おき)へ沖(おき)へと流(なが)れ出(い)で、010到底(たうてい)一(いち)日(にち)で帰(かへ)る事(こと)の出来(でき)ない地点(ちてん)迄(まで)行(い)つて了(しま)つた。011舟(ふね)を出(だ)した夜(よ)は明(あ)け放(はな)れ、012その日(ひ)も亦(また)ズツポリ暮(く)れて、013日(ひ)の移(うつ)るを忘(わす)れて一生(いつしやう)懸命(けんめい)に一人(ひとり)の僕(しもべ)と共(とも)によく釣(つ)れるのに心(こころ)を奪(と)られて居(ゐ)た。
014 満天(まんてん)俄(にはか)に黒雲(くろくも)起(おこ)り、015一点(いつてん)の星影(ほしかげ)さへも見(み)えなくなり、016雨風(あめかぜ)烈(はげ)しく波(なみ)高(たか)く沢山(たくさん)な魚(うお)を舟(ふね)に積(つ)んで居(ゐ)ては到底(たうてい)危険(きけん)を免(まぬが)れ難(がた)くなつて来(き)た。017されど折角(せつかく)骨(ほね)を折(を)つて釣(つ)つた魚(さかな)をムザムザ湖中(こちう)へ投(な)げて了(しま)ふのは、018どうも惜(を)しくて堪(たま)らない、019だと云(い)つて少(すこ)しは重(おも)みを軽(かる)くせなくては到底(たうてい)舟(ふね)の覆没(ふくぼつ)は免(まぬが)れなくなつて来(き)た。020僕(しもべ)のアンチーは慄(ふる)ひ戦(をのの)き、021泣声(なきごゑ)を出(だ)して、
022アンチー『旦那(だんな)様(さま)、023どう致(いた)しませう。024到底(たうてい)此(この)暗(くら)がりに大暴風(おほあらし)と来(き)ては助(たす)かりこはありますまい。025貴方(あなた)が折角(せつかく)お釣(つ)りになつた此(この)魚(さかな)を一(ひと)つも残(のこ)らず湖(うみ)に投(とう)じて了(しま)ひませう。026さうすれば舟(ふね)が軽(かる)くなり、027どうなり、028こうなり何(ど)ツ処(か)の島(しま)に着(つ)いて命(いのち)を保(たも)つ事(こと)が出来(でき)ませう。029何卒(どうぞ)一匹(いつぴき)も残(のこ)らず棄(す)てさして下(くだ)さいませぬか』
030と泣声(なきごゑ)になつて歎願(たんぐわん)した。031バーチルは僕(しもべ)の言葉(ことば)に腹(はら)を立(た)て、032声(こゑ)を尖(とが)らして、
033バーチル『こりやアンチー、034俺(おれ)がこれ丈(だ)け危険(きけん)を犯(をか)して折角(せつかく)釣(つ)つた魚(さかな)を皆(みな)流(なが)せとは、035何(なん)と云(い)ふ失礼(しつれい)な事(こと)を云(い)ふ。036魚(さかな)が重(おも)たくて舟(ふね)が覆(かへ)る虞(おそれ)があると云(い)ふのなら、037貴様(きさま)のやうな重量(ぢうりやう)の多(おほ)い、038柄見倒(がらみだふ)しが湖(うみ)へ飛(と)び込(こ)めば此(この)舟(ふね)は余程(よほど)軽(かる)くなつて魚(さかな)が助(たす)かるのだ』
039と半狂(はんきやう)の男(をとこ)とて魚(さかな)にかけたら目(め)も鼻(はな)もない。040僕(しもべ)に対(たい)して実(じつ)に無慈悲(むじひ)極(きは)まる叱言(こごと)を云(い)つた。
041アンチー『旦那(だんな)さま、042私(わたし)は幼(をさな)い時(とき)から貴方(あなた)の邸(うち)に養(やしな)はれた僕(しもべ)ですから、043貴方(あなた)のお命(いのち)に係(かか)はる様(やう)の事(こと)あれば、044お身代(みがは)りとなる事(こと)は覚悟(かくご)の前(まへ)で厶(ござ)います。045然(しか)し何程(なにほど)僕(しもべ)と云(い)つても、046矢張(やつぱ)り人間(にんげん)で厶(ござ)います。047魚(さかな)は幾何(いくら)でも獲(と)れませうが、048此(この)アンチーの体(からだ)は世界(せかい)に一(ひと)つほか有(あ)りませぬから、049そんな無慈悲(むじひ)な事(こと)を仰有(おつしや)らずに早(はや)く此(この)魚(さかな)を棄(す)てさせて下(くだ)さいませ』
050バーチル『その方(はう)は主人(しゆじん)の危難(きなん)を救(すく)ふと今(いま)申(まを)しただらう。051主人(しゆじん)が大切(たいせつ)に丹精(たんせい)を凝(こ)らして獲(と)つた此(この)魚(うを)を助(たす)けて、052何故(なぜ)其(その)方(はう)は重量(ぢうりやう)を減(げん)ずるために湖(うみ)に飛(と)び込(こ)まないのか。053そんな事(こと)で僕(しもべ)の務(つと)めが勤(つと)まるのか。054訳(わけ)の分(わか)らぬ代物(しろもの)だな』
055アンチー『旦那(だんな)様(さま)、056死(し)んだ魚(さかな)よりも私(わたし)の命(いのち)の方(はう)が余程(よつぽど)安(やす)いので厶(ござ)いますか。057そりや余(あんま)り没義道(もぎだう)ぢや厶(ござ)いませぬか』
058バーチル『馬鹿(ばか)申(まを)せ。059魚(さかな)は宅(うち)へ持(も)つて帰(かへ)れば自分(じぶん)も楽(たの)しみ村中(むらぢう)の奴(やつ)にも刺身(つくり)にしたり、060煮〆(にしめ)にしても、061焼(や)いて食(く)はさうと儘(まま)だ。062何程(なにほど)肥太(こえふと)つて居(ゐ)ても貴様(きさま)の体(からだ)が刺身(さしみ)にもなるかい。063誰(たれ)だつて一人(ひとり)でも喜(よろこ)んで戴(いただ)くものはない。064俺(おれ)に忠義(ちうぎ)を尽(つく)さうと思(おも)ふなら早(はや)く貴様(きさま)の方(はう)から飛(と)び込(こ)まぬか。065グヅグヅして居(ゐ)ると舟(ふね)が転覆(てんぷく)して了(しま)ふぢやないか。066貴様(きさま)一人(ひとり)の命(いのち)を亡(な)くするか、067二人(ふたり)の命(いのち)を亡(な)くするかと云(い)ふ瀬戸際(せとぎは)だ。068さア早(はや)く気(き)を利(き)かして飛(と)び込(こ)め』
069アンチー『これは又(また)怪(け)しからぬ事(こと)を仰有(おつしや)います。070貴方(あなた)はどうかして居(を)りますな。071俄(にはか)に仰有(おつしや)る事(こと)がへんになつたぢやありませぬか』
072 バーチルは暫(しば)らく俯向(うつむ)いて考(かんが)へて居(ゐ)たが俄(にはか)に、073驚(おどろ)いた様(やう)な声(こゑ)で、
074バーチル『やア如何(いか)にもさうだ。075余(あんま)り吃驚(びつくり)して魚(さかな)と人間(にんげん)の軽重(けいぢう)を誤(あやま)つて居(を)つた。076やア堪(こら)へて呉(く)れ、077せうもない事(こと)を云(い)つたものだ。078余(あんま)り魚(さかな)に気(き)をとられ頭(あたま)に気(き)を揉(も)んだものか、079妙(めう)な幻覚(げんかく)を起(おこ)したものだ。080さアお前(まへ)の云(い)ふ通(とほ)りにする。081さアさア魚(さかな)を放(ほ)つた放(ほ)つた』
082と、083ここに主従(しゆじゆう)は一生(いつしやう)懸命(けんめい)に折角(せつかく)釣(つ)つた魚(さかな)を掴(つか)んでは海中(かいちう)に投(な)げ、084掴(つか)んでは投(な)げして、085漸(やうや)く半分(はんぶん)許(ばか)り放(ほか)し出(だ)したと思(おも)ふ時分(じぶん)に、086虎(とら)の咆(ほ)ゆるが如(ごと)き音(おと)をして襲(おそ)ふて来(き)た大海嘯(おほつなみ)にバツサリと呑(の)まれて、087舟(ふね)諸共(もろとも)波(なみ)に捲(ま)き込(こ)まれて了(しま)つた。088二人(ふたり)は暗夜(あんや)の荒湖(あらうみ)に落(お)ち込(こ)み、089最早(もは)や如何(いかん)ともする事(こと)が出来(でき)ないので運(うん)を天(てん)に任(まか)して居(ゐ)た。
090イヅミの国(くに)のスマの里(さと)
091首陀(しゆだ)の豪農(がうのう)バーチルは
092妻(つま)の諫(いさ)めも聞(き)かばこそ
093気色(けしき)の悪(わる)い夜(よる)の海(うみ)
094こんな時(とき)には何時(いつ)よりも
095獲物(えもの)が多(おほ)いと云(い)ひ乍(なが)ら
096僕(しもべ)アンチー伴(ともな)ひて
097スマの浦(うら)より舟(ふね)を出(だ)し
098何時(いつ)もにもなき豊漁(ほうれふ)に
099うつつを抜(ぬ)かし知(し)らぬ間(ま)に
100沖合(おきあひ)遠(とほ)く流(なが)れ出(い)で
101一夜(いちや)を明(あ)かし晨(あした)より
102又(また)もや黄昏(たそがれ)過(す)ぐる迄(まで)
103一心(いつしん)不乱(ふらん)に漁(すなど)りし
104夜中(よなか)の頃(ころ)となりし時(とき)
105一天(いつてん)俄(にはか)に掻(か)き曇(くも)り
106黒白(あやめ)も分(わ)かぬ暗(やみ)となり
107忽(たちま)ち襲(おそ)ふ暴風雨(ばうふうう)
108波(なみ)は高(たか)まり白波(しらなみ)の
109鬣(たてがみ)震(ふる)ひ釣舟(つりぶね)に
110噛(か)みつき来(きた)る恐(おそ)ろしさ
111虎(とら)咆(ほ)え猛(たけ)り竜(りよう)吟(ぎん)じ
112獅子(しし)の猛(たけ)びの物凄(ものすご)く
113風(かぜ)と波(なみ)との唸(うな)り声(ごゑ)
114撓(たゆ)まず屈(くつ)せずバサバサと
115網(あみ)打下(うちお)ろし様々(さまざま)の
116大(おほ)きな魚(さかな)を漁(あさ)りつつ
117現(うつつ)になれる折(をり)もあれ
118漁船(ぎよせん)を木(こ)の葉(は)の散(ち)る如(ごと)く
119上下(じやうげ)左右(さいう)に翻弄(ほんろう)し
120身辺(しんぺん)危(あやふ)くなりければ
121ここに主従(しゆじゆう)二人(ふたり)連(づ)れ
122種々(いろいろ)雑多(ざつた)と争(あらそ)ひつ
123折角(せつかく)捕(と)らへし魚族(ぎよぞく)をば
124スツカリ海(うみ)に投(な)げやりて
125せめて命(いのち)を拾(ひろ)はむと
126あせる折(をり)しも山岳(さんがく)の
127様(やう)なる波(なみ)に船体(せんたい)は
128忽(たちま)ち呑(の)まれて無残(むざん)にも
129水(みづ)の藻屑(もくず)となりにけり
130僕男(しもべをとこ)のアンチーは
131行衛(ゆくゑ)不明(ふめい)となり果(は)てて
132呼(よ)べど帰(かへ)らぬ死出(しで)の旅(たび)
133聞(き)くも憐(あは)れな次第(しだい)なり
134大海中(おほわだなか)に衝(つ)つ立(た)てる
135人(ひと)の恐(おそ)れて寄(よ)りつかぬ
136猩々(しやうじやう)ケ島(しま)の磯端(いそばた)に
137打上(うちあ)げられしバーチルが
138波(なみ)に体(からだ)を翻弄(ほんろう)され
139息(いき)絶(た)え絶(だ)えになりし時(とき)
140猩々(しやうじやう)の王(わう)が現(あら)はれて
141手早(てばや)く陸(くが)へ救(すく)ひ上(あ)げ
142真水(まみづ)を口(くち)に啣(ふく)ませて
143漸(やうや)く命(いのち)を救(すく)ひける
144実(げ)に面白(おもしろ)き物語(ものがたり)
145畳(たたみ)の波(なみ)に浮(うか)びたる
146長方形(ちやうはうけい)の舟(ふね)に乗(の)り
147敷島(しきしま)煙草(たばこ)を燻(くゆ)らせて
148ここ迄(まで)述(の)べて北村(きたむら)の
149隆光彦(たかてるひこ)の筆(ふで)の先(さき)
150写(うつ)して千代(ちよ)に伝(つた)へむと
151万年筆(まんねんひつ)の剣尖(けんさき)を
152原稿(げんかう)用紙(ようし)につきつけて
153あらあらここに記(しる)し置(お)く
154ああ惟神(かむながら)々々(かむながら)
155御霊(みたま)幸(さち)はひましませよ。
156 バーチルはフツと気(き)がつけば夜(よ)は已(すで)に明(あ)け放(はな)れ、157自分(じぶん)は名(な)も知(し)らぬ孤島(こたう)の磯端(いそばた)に横臥(わうぐわ)し、158沢山(たくさん)の猩々(しやうじやう)が集(あつ)まり来(きた)つて『キヤーキヤー』と鳴(な)き立(た)て乍(なが)ら自分(じぶん)の周囲(しうゐ)を蟻(あり)の如(ごと)く取巻(とりま)いて居(ゐ)る。159傍(かたはら)に優(すぐ)れて大(だい)なる一匹(いつぴき)の猩々(しやうじやう)が自分(じぶん)の顔(かほ)を見(み)てさも同情(どうじやう)に堪(た)へざるものの如(ごと)く首(くび)を傾(かたむ)け涙(なみだ)を流(なが)して居(ゐ)る。160よくよく見(み)れば噂(うはさ)に聞(き)いた猩々(しやうじやう)の島(しま)である。
161バーチル『ああ私(わし)は恐(おそ)ろしい斯(こ)んな島(しま)へ漂着(へうちやく)したのか。162あまり自我心(じがしん)が強(つよ)い為(ため)に女房(にようばう)の諫(いさ)めも聞(き)かず隠(かく)れて漁(れふ)に出(で)たのが一生(いつしやう)の不覚(ふかく)だつた。163さうして僕(しもべ)のアンチーは如何(どう)なつたであらう。164ああ恐(おそ)ろしい事(こと)になつた。165帰(かへ)らうと思(おも)つても舟(ふね)はなし、166猩々(しやうじやう)の餌(ゑじき)になつて了(しま)ふのか』
167と恐怖心(きようふしん)に駆(か)られて怖(おそ)れ戦(をのの)いて居(ゐ)た。
168 意外(いぐわい)にも猩々(しやうじやう)の王(わう)とも覚(おぼ)しき大猿(おほざる)は親切(しんせつ)さうにバーチルに背(せな)を向(む)け、169『吾(わが)背(せ)に負(お)はれよ』との意(い)を形容(けいよう)に示(しめ)して居(ゐ)る。170バーチルは『もう斯(か)うなつては因果腰(いんぐわごし)を定(き)めるより仕方(しかた)がない。171彼(かれ)等(ら)の為(な)すがままに任(まか)さむ』かと猩々(しやうじやう)の背(せな)に怖々(こはごは)乍(なが)ら抱(だ)きついた。172猩々(しやうじやう)は背(せ)に負(お)ふたまま、173きつい岩山(いはやま)をいと安々(やすやす)と登(のぼ)り、174頂上(ちやうじやう)の屏風(びやうぶ)を立(た)てた様(やう)な岩(いは)に穿(あ)いてある深(ふか)い洞穴(ほらあな)の中(なか)へ、175サツサと連(つ)れ込(こ)んで了(しま)つた。176バーチルは岩窟(いはや)の中(なか)に導(みちび)かれ、177胸(むね)を轟(とどろ)かして居(ゐ)ると、178珍(めづ)らしき果物(くだもの)を小猿(こざる)にむしらせ来(きた)つて皮(かは)を剥(む)き等(など)して、179之(これ)を喰(く)へよと勧(すす)めるのである。180意外(いぐわい)の猩々(しやうじやう)の態度(たいど)に、181ヤツと胸(むね)を撫(な)で下(お)ろし、182体(からだ)が疲(つか)れて縄(なは)の様(やう)にグニヤグニヤになつて居(ゐ)るのを、183暫(しば)し休養(きうやう)せむとゴロリと横(よこ)になつた。184猩々(しやうじやう)は木(こ)の葉(は)の半(なかば)乾(かわ)いたのを厚(あつ)く敷(し)いて、185バーチルを抱(かか)へ自分(じぶん)が手枕(てまくら)をして母親(ははおや)が赤(あか)ン坊(ばう)の添乳(そへち)をする様(やう)に、186いと親切(しんせつ)に体中(からだぢう)を撫(な)で擦(さす)り、187介抱(かいはう)に熱中(ねつちう)して居(ゐ)る。188かくの如(ごと)くしてバーチルは三(さん)年(ねん)の月日(つきひ)を此(この)猩々(しやうじやう)ケ島(しま)に送(おく)る事(こと)となつた。189此(この)猩々(しやうじやう)は牝(めす)であつて此(この)島(しま)の動物(どうぶつ)の王(わう)である。190猩々(しやうじやう)の外(ほか)に鹿(しか)や兎(うさぎ)が棲(す)んで居(ゐ)た。191されど兎(うさぎ)も鹿(しか)も時々(ときどき)猩々王(しやうじやうわう)の側(そば)にやつて来(き)て睦(むつ)まじげに遊(あそ)んで居(ゐ)る。
192 二年目(にねんめ)に猩々(しやうじやう)とバーチルの間(あひだ)に半人(はんにん)半獣(はんじう)の妙(めう)な赤(あか)ン坊(ばう)が生(うま)れた。193猩々(しやうじやう)の王(わう)は掌中(しやうちう)の玉(たま)と慈(いつくし)み、194バーチルに自慢(じまん)さうに抱(いだ)かせたり、195自分(じぶん)が顔(かほ)を嘗(な)めたり乳(ちち)を飲(の)まして其(その)子(こ)の成人(せいじん)を待(ま)つものの如(ごと)くであつた。196バーチルも国(くに)へ帰(かへ)らうと思(おも)つても肝腎(かんじん)の舟(ふね)はなし、197又(また)猩々王(しやうじやうわう)の目(め)を忍(しの)んで帰(かへ)る訳(わけ)にも行(ゆ)かなかつた。198バーチルは三(さん)年(ねん)の間(あひだ)猩々(しやうじやう)と同棲(どうせい)し、199大抵(たいてい)表情(へうじやう)を以(もつ)て意志(いし)を通(つう)ずる事(こと)が出来(でき)る様(やう)になつて来(き)た。200何(なん)となく浜辺(はまべ)へ出(で)たくなつて堪(たま)らないので猩々王(しやうじやうわう)に身振(みぶり)を以(もつ)て浜辺(はまべ)に遊(あそ)びに行(ゆ)かうかと云(い)つた。201猩々王(しやうじやうわう)も嬉(うれ)しげに頷(うなづ)いて子(こ)を抱(だ)き乍(なが)ら数多(あまた)の小猿(こざる)を従(したが)へ、202バーチルの身辺(しんぺん)を守(まも)り乍(なが)ら、203嶮峻(けんしゆん)な岩山(いはやま)を下(くだ)つて磯端(いそばた)に出(で)て蟹(かに)を追(お)ひかけたり、204砂(すな)を掘(ほ)つたり、205色々(いろいろ)の慰(なぐさ)みをして嬉(うれ)しさうに夏(なつ)の磯辺(いそべ)遊(あそ)びをやつて居(ゐ)た。
206 忽(たちま)ち二三丁(にさんちやう)ばかり沖合(おきあひ)を白帆(しらほ)を上(あ)げて通(とほ)る船(ふね)がある。207此(この)附近(ふきん)は容易(ようい)に船(ふね)の通(とほ)る事(こと)の出来(でき)ない、208暗礁(あんせう)点綴(てんてつ)の危険(きけん)区域(くゐき)である。209バーチルは此(この)舟(ふね)を見(み)るより両手(りやうて)を打振(うちふ)り打振(うちふ)り、210人間(にんげん)が此(この)島(しま)に漂着(へうちやく)して居(ゐ)ると云(い)ふ合図(あひづ)を示(しめ)した。211船頭(せんどう)のイールはフツと此(この)姿(すがた)を見(み)て驚(おどろ)いた様(やう)な声(こゑ)で、
212イール『あ、213皆様(みなさま)、214一寸(ちよつと)御覧(ごらん)なさいませ。215あの島(しま)は猩々(しやうじやう)ケ島(しま)と云(い)つて猩々(しやうじやう)ばかりが棲(す)んで居(ゐ)ますが、216不思議(ふしぎ)な事(こと)には人間(にんげん)らしいものが磯端(いそばた)に立(た)つて、217数多(あまた)の猩々(しやうじやう)に取囲(とりかこ)まれ、218手(て)を振(ふ)つて居(を)ります。219随分(ずいぶん)沢山(たくさん)の猩々(しやうじやう)ですよ』
220伊太(いた)『何(なに)、221猩々(しやうじやう)の島(しま)、222そりや面白(おもしろ)からう』
223と云(い)ふより早(はや)く苫屋根(とまやね)の中(なか)から舳(へさき)に這(は)ひ出(で)てよくよく見(み)れば、224イールの云(い)つた通(とほ)り人間(にんげん)らしいものが頻(しき)りに腕(うで)を振(ふ)つて居(ゐ)る。
225伊太(いた)『もし、226先生(せんせい)、227どうやら、228あの島(しま)に人間(にんげん)が漂着(へうちやく)して居(ゐ)る様子(やうす)です。229一(ひと)つ何(なん)とかして舟(ふね)を寄(よ)せ調(しら)べて行(ゆ)かうぢやありませぬか』
230ヤッコス『あれは大変(たいへん)な悪(わる)い猩々(しやうじやう)が居(ゐ)るのです。231あんな処(ところ)へ行(ゆ)かうものなら、232皆(みな)両眼(りやうがん)を刳(く)り抜(ぬ)かれ命(いのち)を取(と)られて了(しま)ひます。233そんな険呑(けんのん)な処(ところ)へ行(ゆ)くものぢやありませぬ。234決(けつ)して悪(わる)い事(こと)は申(まを)しませぬ。235お止(や)めなさいませ』
236伊太(いた)『先生(せんせい)、237側(そば)まで船(ふね)を寄(よ)せて調(しら)べて見(み)ようぢやありませぬか。238別(べつ)に上陸(じやうりく)さへせなければ危険(きけん)はありませぬ。239兎(と)も角(かく)人間(にんげん)か獣(けだもの)か、240よく調(しらべ)て、241人間(にんげん)ならば助(たす)けてやらねばなりますまい。242是非(ぜひ)とも船(ふね)を着(つ)け度(た)いものですな』
243玉国(たまくに)『成程(なるほど)、244お前(まへ)の云(い)ふ通(とほ)りだ。245どうも人間(にんげん)らしい。246あんな無人島(むじんたう)に獣(けだもの)と同棲(どうせい)してるのだらう。247何(なに)か面白(おもしろ)い話(はなし)が聞(き)けるかも知(し)れない。248兎(と)も角(かく)僅(わず)か二三丁(にさんちやう)の処(ところ)だから、249船頭(せんどう)さま、250一寸(ちよつと)船(ふね)をつけて呉(く)れまいか』
251イール『はい、252初稚(はつわか)様(さま)と云(い)ふお方(かた)に沢山(たくさん)なお金(かね)を頂(いただ)き、253又(また)宣伝使(せんでんし)の仰有(おつしや)る通(とほ)りにして呉(く)れとのお頼(たの)みで厶(ござ)いますから仰(おほ)せに従(したが)ひませう』
254玉国(たまくに)『や、255そりや有難(ありがた)い、256そんなら頼(たの)む』
257 『はい』と答(こた)えてイールは舳(へさき)を転(てん)じ水先(みづさき)を考(かんが)へ乍(なが)ら漸(やうや)くにして磯辺(いそべ)に着(つ)いた。
258(大正一二・三・二九 旧二・一三 於皆生温泉浜屋 北村隆光録)
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