霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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徒然のままに

インフォメーション
題名:徒然のままに 著者:月の家
ページ:614
概要: 備考:2023/10/08校正。著作集第3巻(p10真の幸福)には真ん中の一部分だけ掲載されている。 タグ: データ凡例: データ最終更新日:2023-10-08 01:00:39 OBC :B121805c277
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]『東北日記 二の巻』昭和3年8月5日
 現代の世相は人情美(にんじやうび)なぞといふことは薬にしたくても無い。人間らしく人情らしく云つて居るのはほんの表面だけで、自己愛の為め装飾品たるの感がある。金銭上の事になると親子兄弟親族でも、金銭は他人だ、兄弟は他人の始まりだと公然言ひ放つて真理だと思つて居る。少しでも家の景気が良いと見た時は、親類風(しんるゐかぜ)を吹かして盛んに寄り付きたがるが、一度(ひとたび)窮地に陥つた時は一向に相手にせないばかりか、伯父でも叔母でも従兄弟(いとこ)でも素知らぬ(つら)をする。さうなると親類なんかよりも友人の方が何程()いか知れない。(こと)に信仰上の友達なぞは(しん)(ちから)になるものである。
 自分()も此の点に(つい)ては幾度(いくたび)も経験を()めた一人である。真個(しんこ)に気の合つた友達なら親身(しんみ)になつて世話をして呉れる事もあるだらう。(しか)()れも独身者(どくしんもの)の時代で、眷属(けんぞく)が相当に多く出来て苦しい世帯(しよたい)に追はれるやうになつては、兎角(とかくk)家庭の内部から論議や苦情が出てやり(にく)い、到底信仰の友達の様な訳には行かない。
 恋だ愛だと云つて夢の様になつて居る気楽な時代は良いが、それも一年二年三年と継続すれば凡てが経済的に取り扱はれる様になつて、無能無力だとか腰抜(こしぬけ)オヤヂだとか、弁天さまの方から蔑視されて一向に情緒が無くなつて了ふ。恋愛至上論なんか一時(いちじ)の云はばキワものである。今日の世の中は恋も愛も自己擁護を中心として継続される。斯様(かやう)な恋や愛の中味には三文(さんもん)の価値も(ちから)も無い。既にその時の中味なるものは(すで)(すで)腐朽(ふきう)して居るのだ。
 地位だとか、名誉だとか、金銀だとか、好男子(かうだんし)だとか、美女だとか、曲線美だとか、肉体が()うだとか(さかん)に論議されるのも、ホンの当座の場当りでなければ、たはむれである。死ぬほど惚れた、生命(いのち)を捧げる、生かしなりと殺しなりと君の自由にして呉れなどとのぼせて居ても、米塩(べいえん)小遣銭(こづかひせん)を供給しなくなつたら、直ぐに肱鉄(ひぢてつ)の乱射はまだ(おろ)か、あらゆる軽侮(けいぶ)嘲罵(てうば)の雨を浴びせかけるのだ。故に無産者には恋の味覚なんか余裕が無い。それは(その)恋が中心でなく生活の手段だつたからである。
 親分乾児(こぶん)の関係も自他(あひ)利する処から出発してゐる。宗教の信仰も現代の世相は大部分それから出発してゐるのだ。故にその利が(あひ)反した時は直ぐに反目(はんもく)分離して了ふ。大本の事件の(おこ)つた(のち)、四五の熱心な信仰家らしく見えて居た連中が(たちま)弊履(へいり)を捨つるが如き態度で別れたのみか、聖地までも少々ばかりの金の為に裁判までして差押(さしおさ)へ、神様や恩師に対して弓を引いた者さへあつた。現代の人情といふものは(まこと)にひからびて了つた。(かれ)(これ)悉皆(しつかい)自己愛生活中心から出発する。それが今の世相だから(たま)らない。(これ)でも人間様だらうか。
 無我夢中に人情美を発揮した時代は何物を見ても喜ばしい。宇宙の一切が親友の()うに懐かしい。それが生活を中心として取扱(とりあつ)はれる様になつた時には、総てが心淋しく感ずる。心の底に何か物足らぬ淋しみを感じて一向に気乗りがせない。(せい)を神に托する事を知らない人間の総ての()(かた)は、実に自他共に淋しみを感ずる。
 (うま)れたばかりの、世間と一切没交渉(ぼつかうせふ)な愛児の為に尽すといふ事は、相手は何も知らず平気の平三(へいざ)でも尽す方は心持ちがよい。人の知らぬ()に人の為にした事、世間一般の人類が何も知らぬ()に、世間人類の為に尽した事は(とて)気持(きもち)がよい。心中する処まで惚れたなら(さだ)めて(こころよ)い事であらう。親を無上と思ひ、恩師を最上と考へ、恋女(こひをんな)を至上と想ひ、女は恋男(こひをとこ)を無上と考へて、それに終始する事の出来るものは、()かれ悪しかれ議論は抜きとして、人間としての幸福である。一歩進んで神を至上無二の本体として信仰し()るなれば、天下に(これ)(ぐらゐ)至上至高の幸福は無いのである。世間から見て馬鹿で愚純で(しか)(おほ)(おほ)(おほ)馬鹿者で、信ずるだけしか能の無い人間(ぐらゐ)幸福なものは無い。
 (わづ)かの差異を探り出して如何(いか)にも天下の真理でも発見した如く、理性に勝つ人ほど天下に不幸なものは無い。さう云ふ人の心の底には必ず淋しい淋しい(ある)ものが潜んでゐる。愚者(ぐしや)がこの世に幸福なのか、賢者が幸福か、賢愚の別は何にあるのか。自分の心に尋ねて見て、それに満足の出来るものが世界第一の幸福者であると思ふ。
 主人は終始一貫生活資料を求むべく一生懸命社会の競争場裡(ぢやうり)馳駆(ちく)して働いて心身を痛めて居る。仮令(たとへ)其間(そのかん)花見(はなみ)遊山(ゆさん)や茶屋遊びがあつたにしろ、()(かく)一人の手で稼ぎ、それに妻子や召使(めしつかひ)の男女が幾人かあるのを相当に養つて行く。其上(そのうへ)世間と(はづ)かしく無い交際もして行かねばならぬ。そこに家の主人たるものの悲哀があり苦悩がある。
 女房は家政を是程(これほど)上手に()つて居るのに、それが主人の眼に見えない。何時(いつ)払箱(はらひばこ)になるかも知れぬ。此頃(このごろ)主人は第二号を置いて居るらしい。私(ぐらゐ)不幸な女は無い。死んだ方が結局こんな苦しみが無いだらうと愚痴(ぐち)る。召使の男女は何程(なにほど)忠実に勤めて居ても、命令一下(いつか)(たちま)ち身の浮沈(ふちん)がきまると云ふ。それも相当に理窟はある。そこで()れらの一切の雑念を無くしようと思へば、神の(をしへ)に従ひ神を信仰して宗教的に生きるか、独り者で(くら)すに限る。独りで労作して独りで食ふ、それが一番に単調で文句が無い。(しか)(なが)(その)独り者でも千歳(せんざい)(よはひ)を保つことは出来ない。(われ)も人も愚図々々言つて居る()(みな)死んで行くのである。さう思ふと世の中が堪らなく淋しくなる。やつぱり愚者(ぐしや)が良い、大愚者がよい。そして大愚者たらむとするには信仰に(はい)らねばならない。信仰上から造り上げた大愚者なれば永遠に死ぬことを知らない。死んだら第二の(しん)の生活に()るのだから、是程(これほど)天下に幸福者は無い。
 死ぬ(ほど)惚れた人に逢へない、想う様に浮世(うきよ)小車(をぐるま)が回らない、こんなに思つても思ふやうに行かぬ。それよりも一層のこと今の(あひだ)に別れようと云ふ気になる。これも信仰に生きる事を知らないからである。
 是ほど将来の事を案じて(かげ)(つく)して居る事が判らないのか、俺の思ひが通じないのか、そんな薄情者なら勝手にするがよいと投げ出す。そんなに男女の恋なぞと云ふものは薄つぺらなものである。あの時に死なずに居て良かつたなアと後で(よろこ)ぶ時節もあるものだ。
 恋愛とは性欲発動の際に出発する一種の感傷である。性欲の衰退と同時に消滅する。故に性の本能から立論すれば神聖なものであらうが、霊性の本質から云つたら、(たい)して論議する程の価値もない。それは瞬間的であり一時的である。中にはそれが多少永続するものもあるが、宇宙の時間から見たら極めて短いものである。
 口幅(くちはば)の広いことを云つて自己の存在を確認して、黄金(わうごん)と権力と体力さへあつたら、神なんか信仰せなくても如何なる事でも出来ると自負して居るのが現代の人間の大部分である。それが一つ体躯(たいく)微異(びい)(きた)すと(たちま)ち別人の様に小さい心持(こころもち)になる。別条の無い、身体(しんたい)の壮健な時は天下に(おこな)はれざるもの無しと慢心してゐるが、一朝(いつてう)四肢(しし)の自由を失つて臥床(ぐわしやう)の身となり、(あまつさ)生命(いのち)(つな)が細つて行く時に人間は何を考へるだらうか。只々生きよう生きようといふ(せい)の執着と欲求より(ほか)に何物もないのである。
 ()んな時になつて浮世(うきよ)の一切が有難味(ありがたみ)を加へて来る。信仰心が(おこ)り神仏に依頼する気になるのが人間の常である。発熱(はなはだ)しく堪へがたき時に氷屋の丁稚の親切味が覚えられ、食堂に普通の(かて)(とほ)らぬ時に牛乳屋の恩恵が悟れる。()()けて交通機関の絶えた時には、電車の有難味がしみじみと感ぜられる。可愛い児に旅をさせと云ふ(ことわざ)も、こんな所から(うま)れて来た言葉であらう。(うま)生眼(いきめ)を抜く慌惨(くわうさん)な旅へ出て腕一本で生きて行く、さうした時に親と云ふものの有難味が判つて来るもので、世の中の悲喜は交々(こもごも)(みな)人間の心持ちを浄化するものである。自然も環境も(みな)神であるといふ心持ちになつて来る。吾人の生存には変化の体験ほど尊いものは無い。百の説法(せつぽふ)万の教訓よりも只一つの体験の方が余程その心魂(しんこん)を浄化する上に(おい)ては尊い。故に折角の体験を反古(ほご)にしてはならぬ。
 妻が大病(たいびやう)(こめ)(めし)が一粒も通らず、熱は高く乳児はヒシヒシと泣くのみで人手(ひとで)がない。その時に氷屋と牛乳屋の小僧が毎朝早くから氷や牛乳を運んで来る。夜が更けて仕事をするので疲れて朝起(あさおき)が出来にくい。朝おそく起きて見るとチヤンと氷と牛乳が持つて来てある。何の払ひは捨てて置いても、氷屋と牛乳屋には払はねばならぬといふ強い気分に打たれるものである。大病人も無心の乳児も生命を繋ぐ事の出来たのは神の御恵(みめぐみ)と世間の恩である。それを思へば吾人は一生懸命に世の為に尽さねばならぬ、いないな(つく)すのではない、世間の恩を返さねばならぬ。吾人は神の不断の仁恵(じんけい)と社会の人(たち)の尊い厚い恵みに浴してゐるのだ。()れを思へば世の中は実にありがたい。愚痴や不平がどうして出ようぞ。
 人間は神の子神の宮である以上、神に(かな)つて働きさへすれば、何事も心配が要らなく安々と()の世が自由に渡れるのである。
(昭和三・八・五 東北日記 二の巻)
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