俳道は天地剖判の以前から流れて居る。森羅万象は悉皆俳的表現である。釈迦が女性醜と人間醜に中毒の結果はヒマラヤ山といふ小さい茶室に逃げ込んだ茶人であつた。『ソロモンの栄華も要らず百合の花』だの『陽炎や土にもの書く男あり』だのと発句つて居た耶蘇も、或る意味に於ける俳諧師である。
天地は其儘にして茶室である。自然の詠嘆は其儘にして天国の福音である。然しクリスチヤンに耶蘇が解らないやうに、茶人は茶を知らず、俳人は俳道が分つて居ない。耶蘇教は露西亜も之を見限つて了つた。マホメツト教も本場の土耳其に捨てられた。日本の神道も仏教も疾の昔に国民から捨てられてゐるが、之を知らないものは神道家と仏の僧侶ばかりである。
凡ての人々は何れも皆宗教家である。否宗教が人を有つて居るのである。そして宗教に見放されて居るものは宗教家である。今日の俳人と称するものも皆俳道から捨てられた俳亡者である。そして日本俳壇の中興は戦国争覇の頂点に対峙して旗鼓相衝つた機山、不識庵の連中であつた。信玄が城を有たず、謙信は甲冑を纏はなかつた。自分が入蒙戦争の際にも銃剣を持たなかつた。それは所謂山川を城となしてゐるからであり、敵中を行く、恰も無人の平野を行くが如くであつたからである。また彼の謙信は一生涯刀を抜かなかつた。大事な戦ほど人数を減らし、川中島で信玄に迫つた時は独であつた。恋には連が邪魔になる如く思つたのだ。信玄、謙信は相思、相愛の恋仲のやうな態度を有つて居た。恋と云ふものは殺したり、殺される筈のものだからで、殺しもせず殺されもしないものは恋ではない。信玄が死んだと聞いて茶碗を抛つて慟哭した謙信の心は可憐しい恋であつたのだ。『乾坤破壊の時如何』『紅炉一点雪』この両者のラブレターに徴しても、彼等が自然に対する恋の深さを窺ふ事が出来る。『数行の過雁三更の月』これ彼等が全世界を手に入れたよりも勝つた法悦であつた。是俳道の猛者に非ずして何ぞやである。
それに彼の信玄の後裔だと云ふ武野紹鴎や紹鴎の弟子と云はるる千利休の如き俳人は、水呑百姓までが天下を奪はむと猛り狂つて居る真只中に、落葉の響き霜の声に耳を傾けて四畳半裡に大宇宙を包み、欠け茶碗に天地の幽寂を味つて、英雄の心事を憫んで居た。十里の長城、否土居を繞らして帝都を復興し、聚楽邸を築いて花洛と共に花も月も己れ一人の所有となし、桃山城を建設して天下の美人を専擅し、驕奢と栄華に耽溺し陶酔した豊臣氏に、荒壁造りの茅舎を見せ衒かして飛び付かせ、茶杓で丸木柱に踏ん縛つて了つた利休は俳諧史上の逸品である。外面的には利休は終に豊公に殺されたが、内部的精神的から見れば豊公は利休に殺されたのである。時めく天下の関白が利休の為に四畳半裡に引摺りこまれて以来の豊公は最早以前の豊公ではない。豊公は内部的に利休に殺されて英雄の分際から只の凡爺に立還つて、未見の世界が見られたのは小不幸中の大幸福だつたのである。又利休は豊公に殺されたお蔭で永遠の生命を獲得したのであつた。
この一挙両得の中に有声に無声を見、無色に有色を聞く俳道の真趣がある。糸の掛け足らぬ琴に有り余る琴の音色を聞く程の人間で無ければ俳道は到底分るものでない。
(昭和四・二・二三 日月日記 三の巻)