天之峯火夫の神が大宇宙の高天原に生じまして以来、幾千年の星霜を経たけれども、天は未だ備わらず、地はまだ若くして、くらげなす漂える島々の中にも、特別に美しく地固まった天恵の島があった。
この島を葭(よし)の島、また葭原(よしはら)の国土とも言った。この島国は葦原の国土に比べて約十倍の広さを有し、万里の海の中に漂う生島である。
この島の中央に立つ高山を伊吹の山と言い、その麓を巡る幾百里の湖水を玉耶湖といった。伊吹の山には花樹が繁茂し、芳香は風に薫じて地上の天国のようであった。
この山を中心として湖面に、竜神(たつがみ)と称する種族が出没し、平和な生活を楽しんでいた。しかしながら、竜神族はいずれも人面竜身であり、人間としての形体が備わっていなかった。竜神族の王は、なんとかして国津神のように人体を備えたいものだと、日夜悩み焦っていた。
この湖水の上流に水上山という大丘陵があり、国津神はこの丘陵を中心に平和な生活を送っていた。この里の酋長を国津神の祖と称し、名を山神彦と言い、その妻を川神姫と言った。
山神彦、川神姫の夫婦の間に、容姿美しく、雄雄しくやさしい男女二柱の御子があった。兄をあでやか(艶男)と言い、妹をうららか(麗子)と言った。二人の兄妹は互いに睦び親しんで、どこに行くにも常に一緒であった。
ある夜、麗子は大自然の風光にあこがれ、ただ一人水上川の岸辺に下りていき、月下の川辺に立ち、美しい光景や兄への憧れを歌っていた。
すると、川底を真昼のように輝かせながら、ぬっと首から上を水面に出して、歌を歌う男がいた。よくよく見れば、麗子の慕う兄の艶男であった。
麗子は思わぬところで兄とであったうれしさに川に入ろうとしたが、身を切るばかりの冷たさに驚き、岸に馳せ上がった。
実はこれは艶男ではなく、この湖底に潜む竜神族の王であった。竜神の王は国津神をとらえて婚姻し、それによって人面竜体を脱して国津神と同様の子孫を産もうとしていたのである。しかしながら、水中にある竜体は、川底の藻草で包まれていたので、麗子には青い衣を着ているように見えていた。
麗子は竜神の王を実の兄だと疑わず、冷たい川水から早くあがってこちらに来てください、と歌いかけた。竜神の王は逆に、川水の中に入り来たって一緒に竜の都へ行こう、と麗子に誘いかけた。
麗子は腑に落ちなくなってきて、もしかするとこれは、兄ではなく竜神が兄の姿を借りているのではないか、と疑い始めた。竜神の王は、艶男そっくりの声で、夫婦の契りを結んで一緒に暮らそう、と歌いかける。
麗子は川岸へ上がれと歌い返し、双方が水陸両面から歌を掛け合わしていた。すると、一天にわかにかき曇り、あたりは闇に包まれ、波が狂いたった。たちまち暗中から一塊の火光現ると見ると、艶男と見えた男は人面竜身と変じ、麗子の体をひっ抱え、湖中に浮かぶ伊吹山方面さして逃げ去ってしまった。