今年は神武紀元二五九一年であるが、これをナンセンス的に解釈すれば二五九の一と訓む。だから反宗教だの宗教否定運動だのと宗門の内外から騒ぎたててゐる。融通念仏宗の菅長山上戒全師が既成宗教の打破を叫むでゐるが、苟くも一宗一派の菅長ともならう者が、一旦宗教界の廓清を図らうとするには余程の決心がなくてはならぬ。吾々より以上の勇気を持つてゐるに相違無からう。勿論宗門内の妨害や牽制があるにせよ、是れを決行するには地位を擲つ覚悟がなくてはならぬ。
宗教の改革は結構なことで、これによりて宗教家は刺戟され却つて雨降つて地固まるであらう。既成宗教はこれから良くなりさうだ。私は口にこそ出さぬが信仰生活に入つた時から、宗教改革を実行してゐたものだ。今日の既成宗教家は信者から食はして貰つてゐる。それでは指導する事は出来ぬ。実際の宗教撲滅は出来るものでない。碁の好きな者は碁、芝居の好きなものは芝居と言つたやうに、宗教は各人の心内的のものだから、斯くすることは人間を否定することになる。今日の仏教は三千年前に、基督教は二千年前に出来たものであるから、日進月歩の時代には副はない。徒らに戒律や訓戒を設けて動きの取れぬものになつてゐる。五十年前の村の先生でも既に老ぼれになつてゐると同様に、宗教も人の造つたものである以上は矢張時代の順応指導をやらなければならぬ。日本の惟神の大道――皇道は時代順応指導を具備し、皇典古事記の如きは言霊学と天津神算木を以て読んで見ると、チヤンと飛行機のことから世の中の成行まで一切が示されてゐる。だから皇道は融通自由で行詰ることが無い。即ち古事記は皇道の大本を説いたものに外ならぬ。併し今の学者のやうな説き方では、いつ迄たつても判るもので無い。そこに皇道と古事記の尊さがある訳である。
(昭和六、六、三号、人類愛善新聞)