世人は往々にして、在来の学説は陳腐なり、在来の宗教は腐敗せり等云ふ。然らば之に代るベき活学、真宗教は如何と反問すれば、一も成立したる確固不抜の形式を有するものは無い。万一ありとするとも五十歩百歩の相違に過ぎない。日進月歩開明の人心を満足せしめ、信従せしめ、安堵せしむるの学説宗教はない。かうは言つたものの決して皆無と言ふにはあらず、世の開明、精神的文明に伴はざる為、天授の一大真理を発見し能はざるのみである。吾人は慥かに、世界の哲学者を凌駕し、一変し得べき真活学の我古典に明記されてあるを知る。心身安堵、立命すベき活教理は、吾皇国に、然も古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざる真教哲理の存在するを断言して憚らないのである。今人蒙昧頑固なる、自国固有天祖相承の哲学神法を度外に置きて顧ることなく、外尊内卑の弊は依然として上下に拡がり、何事も皆法を外に求め、其術を異国に尋ぬるの習慣に捉はれ、惟神の神洲を日に月に汚しつつある、噫悲しい哉。
大本は時代の要求に駆られて生れたのである。万邦無此の国体を閘明し、惟神の徳性を宇内に拡充し、国恩の万一に報ぜむとす。神国の大君に臣事し、神国の恩に浴し、神国に安全なる生を托し、神国の粟を食む同胞諸士よ! 神国の為め、斯道の為め、敬神忠君愛国の主誠を涵養し、以て祖先の遺風を顕彰せられむ事を切望する次第である。
(昭和二、四、一号 瑞祥新聞)