某 『日本の憲法では信教の自由を認められて居る。然るに改めて国教を云々せらるるは何うしたわけですか』
王仁『帝国憲法第二十八条に「日本臣民は安寧秩序を妨げず、及び臣民たる義務に背かざる限りに於て信教の自由を有す」とあつて臣民の信教自由が認められて居るのである。併し其の信教の自由と云ふのは安寧秩序を妨げず、臣民の義務に背かざるの範囲に於ての信教の自由である。現今の宗教宗派の中に於て、適切に憲法の条章に符合して遺憾なきものが有るであらうか、果して安寧秩序を妨ぐるの傾向あるものがないか、果して臣民の義務に背くの嫌ひあるものがないか、これ大いに先づ研究を要すべき問題である』
某 『それでは現今の宗教中に一つも完全なものがないと云ふのですか。日本臣民の信ずべき宗教はないと云ふのですか』
王仁『左様に急激に断定し去るまでに、未解決の問題が前提に横はつて居る。先づ退いて其の判定をなすべき根本標準を立てての後でなくては、何者が何故に安寧秩序を妨ぐるものやら、何者が何故に臣民の義務に背くのやら、見当がつかないではないか。標準の尺度が無くては盲目的な断定に陥つてはつまらない』
某 『それでは其の標準とは何ですか』
王仁『先づ第一に定むべきことは国教といふことの意義である。その意義が明瞭になつてくれば、問題は自然に解決してくる。さて国教と云ふ意義は「国家が認定して管理財政等の点に於て保護干渉を為す宗教」と解せられて居るが、其れは国教の外部からの形式を解釈したものに過ぎない。若し内部からの意義を尋釈すれば、先づ国家が認定する上の根本原由を調査しなければならぬ。現今の世界各国に於て、国教の認定せられて居る国柄に就て一々これを取調べてみたならば、随分いろいろ原因があり、長い間の歴史の根底があることを見出すに難くはない。併しながら其の長い歴史とか、深い原因とかいふことは比較的の言葉であつて、決して非常に深い非常に長いと云ふ様な絶対的意味の原因はないのである。こう云へば随分議論もあるかも知れないが、吾々は左様に断定して憚らないのである。耶蘇教国でも、仏教国でも、別に犯し難いと云ふやうな深遠崇高な関係を見出すことは出来ないのである。却つて極めて古い埃及や希臘等の古代歴史には、尊厳な意義が国と教との上に連関して居たオモカゲがあるけれども、国を建つるの比較的に浅い国家には、立国の本義と国教の建立とが神秘的なほどに崇高尊厳な意義に於て結合して居るところのないのは、寧ろ誰人にも発見し得らるる事実ではないか。若しも立国の本義と国教の建立とが一体不離の関係をなして、万世不易に権威を振張して行くべき国家があつたならば、それこそ真の国家であり、而して其の国教が真の万世不磨の大国教たるべき道理である。万世不磨の大国教は理想的国家と其の本源の出発点を同一にして而して其の国家の敷衍せられた――換言すれば拡大せられた――尚ほ此れを評言すれば、一切の国家が一大理想的国家の種々なる方面に於ける顕現であり、表自であると云ふ上からしての世界的大教国といふべきである』
某 『余り話が高尚になつて要領を得ませぬが、国教といふものは万国々々の歴史なり習慣なりに因つて大体定まつたものであつて、其国の国教は其の国家に対してこそ権威もあり、成立の意義もあるのであるのに、所謂理想的国教といふのが世界各国の上に権威もあり成立の意義もあるといふは、各国根本素因が同根分枝の神約であるといふ上からの事と信じますが、日本国教――理想的の国教が即ち世界国教である。世界国教が即ち日本国教であると云ふ意義を、更らに詳細に承りたいものです』
王仁『日本国の意義に三様の立て方のあることを承知して置いて貰ひたい。即ち小日本国(極東の日本)中日本国(世界全体)大日本国(宇宙全体)而して小中大の三日本国が一貫不離、一糸不乱の脈絡関係を有し、遠津神代の神約神誓に基いて、歴史上に発展して来たことも前に説く通りである。然るに何時の時よりか、小中の日本国の上に離隔反目の世を産み来らしめて根本の意義を失墜したが為に、万世不磨なる宇宙の大国教が怪しく変態を呈して、彼此高卑の差別を現はし、今や殆んど地上に真の国家と認むべき国家なく、真の国教と認むべき国教なく、天地冥暗にして百妖風を望んで起り、人心の敗頽すること遂に其の極に達した次第である。この腐敗紊乱の原因は、一に真の国家の形式を失ひ、真の国教が消滅した故である。現今各国が認めて国教として居るものは真の国教ではなくして、ホンの一時的の仮りの国教である。真実真正の国教といふものは真実真正の国家と其の存立を倶にするものであつて、古今を通じ万邦を貫いて不変不動なるものでなければならぬ。仮りの国教は変易して艮らざるものである。真の国教は千万世に亘るとも断じて一毫も変易なきものである』
某 『斯く尊厳なる日本国に国教の存立が無くして、却て他国に之れ在るは何うしたものです』
王仁『親は児を忘れはせぬが、児が親を忘れて了つた。親は天国にまします。然るに子供等は天国に求めずして之れを地獄に求めた。主よ主よと呼ぶもの必ずしも天国に入ること能はず、いかに神よ仏よと呼べばとて称へればとて、天国の真相が解らねば親に接することが出来るものでない。天国とは日本国である。日本国を知らねば主に接すること親に出逢ふことは出来ない。各国の国教は各家の家憲として尊重すべきも、天国の大国憲が地上に降らねば、四海和平の安楽界は斯土に出現せぬのである。故に国教は国憲である。国憲は地上各邦の憲法である。無限の権威者であるのである。この親権主権を暫らく和光同塵して子孫の罪を寛容し給うたのが、三千年来の地上の歴史である』
某 『それでは其の至厳なる親権主権が何時地上に降りますか』
王仁『今に降ります。その時に初めて安寧秩序を妨げるか妨げぬか、及び日本臣民たるの義務に背くか背かぬかの所以が明確になつて、夜が全く明け渡ります。群星の光が悉く減じて、朝日が太平洋上に出づるわけである。世人はウカウカとした夢のやうな幻のやうな国教を云々するが、それは結局児戯である。真の国教論の立脚地は絶対に茲にあらねばならぬ』
某 『その真の国教は如何なる順序に出て参りますか』
王仁『世界東北の極隅、太平洋から出て参ります。旭日の標章が其の陣頭に立つて居る。旭日の旗の意義が第一に解明されてくる。旭日は十六章の菊花形です。そして当然至厳の神剣(艮金神)と至仁の神珠(坤金神)とが伴ひます。詳しい事は、本当の読み方を以て皇典古事記の天孫降臨の段と、大本開祖の二十有余年間の神書を熟読熟考せられたら明快に判明します』
某 『国教が出てくれば世界一切の宗教は消滅しますか』
王仁『いや消滅はしませぬ。各宗教は皆悉く本来の真形、本質、面目を暴露して咸く大日本国教を讃美し、各自の本性を守つて信服随従すること、明治維新に封建の制度忽ちに破れて大名小名悉く陛下の赤子たる事を知り、何れも皆信服随従して其の職掌を守つて忠誠を励むが如き有様になるので有ります』
某 『それでも頑強な宗教は戦を挑む事は有りますまいか』
王仁『それはあるかも知れないが、併しそんなものは一撃の下に征服するのです』
某 『国教には幾多の教式や教条がありますか』
王仁『有ります。至厳至重な教式もあり、至宝至妙な教条もあります。それ等は咸く神典の文の中に秘蔵されて居る。いま之を云ふのは早いが、何れは言ふべき時期が到来します』
某 『貴下は何故に仏説、又は耶蘇教を採り入れて自説を証明せられますか。日本国教は独立である筈なのに、此等の説を入れらるるのは却て神仏混淆等の疑ひを起させる基であらう。一切仏耶を離れて説いて頂きたいが何うです』
王仁『問者の眼から見らるる時は、或ひは仏教とか、或ひは耶蘇教とか云ふものが個立して居るかも知らないが、大日本国教の上から見れば仏教もない耶蘇教もない、仏教といふものは大日本国教の一部を説いたもの、分類的に伝へたもの、傍系的に伝へたもの、これより外の意義はないのである。耶蘇教といふても其の通りである。大日本国教は教の統主であるから、仏教でも耶蘇教でも、大日本国教内部のものであること、明治王政維新の後は、所謂外様大名も普代大名も一に日本臣民たるに至つたと同様である。若し徳川の大小名は明治以来は世の中に立つなと謂へば、皇室の藩屏も数が少く貴族院議長も其の人無きを憂ふるに至るかも知れぬ。とかく日本の神道家は胸量がせまくていけない』
某 『若し仏教も耶蘇教も従前通りでよいとするならば、別に大日本国教大本の教を宣布するの必要は有りますまい』
王仁『いやいや大いに必要があるのである。仏教と云ふのは仏教の教説、純然たる教理を言ふので、真言、天台、真宗、日蓮といふやうな、宗旨宗派を言ふのではない。普代外様も日本臣民であるといふのは大名其人を云ふので、普代外様を其の儘にしておいて、日本臣民と立てるのではない。故に各宗各派が打破せられて純粋な位置に到つて、後に大日本国教が広宣流布されるのである。故に一面から謂へば仏教の打破である。耶蘇教の全滅である。然りと雖も純然たる仏教は消滅もしなければ、又耶蘇教の純然たる教も亡びはしない。故に吾々は耶蘇教仏教とは云ふけれど、何々宗とか、何々派の道義とか云ふことは一度も云はない。法華経も大日経も新約も旧約も道教も儒教も引証引例には挙げる事もあるけれども、人師論師の立説は採らないのである』
某 『その純然たる仏教とか、耶蘇教とか云ふものが分らないではありませぬか、各宗各派は吾が宗派だけが純然たる唯一根本のものと思惟して居るのではありませぬか』
王仁『至極尤もな問です。故に大日本国教は日本神典を主典として、其の主典の意義を標準として各種の経典を識別せるものである。仏教にも大乗あり、小乗あり、顕教あり、密教あり、一と通りではないが、日本神典の意義が憲法となつて一切を鑑別するから、鏡にかけて照らすが如きものである』
某 『日本神典を主典とする事は、大日本国教を建設せるものから言へば兎も角も、仏教や耶蘇教から謂へば、日本神典によりて律せられねばならぬと云ふ義務はないではありませぬか』
王仁『是れは大日本神典の教材がすると謂ふよりも、其の権威がするのです。親は其の子に対して本来の親権があるのである。君は万民に対して本来の親権がある。固より万世一系の帝王には本来の御君権が無始無終に付随して居るのである。これを権威と云ふのである』
某 『日本神典に何うして其の様な権威がありますか』
王仁『日本神典は一切の経典教説の親である。師である。而して君主であるのである。本来本有に此の関係があるから、日本神典には本来本有に主師親の三権が掌握されて居るのである』
某 『左様な事が説明が出来ますか』
王仁『大層複雑な考証をなす必要があるけれども、現代の人々に諒解の出来ないこともありますまい』
某 『是非承りたいものです』
王仁『短時間にては到底申し述べることが困難であるが、第一仏教だが、アレは小乗の一部を除いては印度の釈迦の説いたものではない。大乗非仏説は学者間の先づ定論と云つてよろしい。多くの参考書が現代は出版されて居るから、一応読破して見るが可い。大乗仏教は日本国の所産である。神神の所説である。大国主神の御説教と天忍穂耳命の御説教との二大別があつて、密教部の諸教は大国主神系の経典で、法華経は天忍穂耳神系である。併しこんな事を説きかけたら際限がない。竜樹菩薩が竜宮に行つて鉄塔を開いて大乗仏教の宝典を取出したと云ふ話なんぞ、非常に面白いのだが、此れも長くなる。幸ひ法華経は日本神典を直接に説いたもので、神々の史的記述である。大日本の史的経典として非常に価値のあるものである。此の法華と神典古事記との比較研究なぞは頗る愉快なもので、日本神典が主典であつて、天上天下の本来根本の権威ある主師親であることは明確になつてるが、これも短時間では述べられない。耶蘇教も耶蘇キリストと云ふ実在の人物があつたか、何うかと云ふ問題は幾多の学者によつて考証論究せられたのであるが、それは兎も角として、耶蘇教の根本意義は真言密教の所説から出たことは明かである。十字架がその掛け橋である。十字架は人を磔にする刑具だと思ふのは大間違ひであつて、密教に用ゐる十字金剛杵である。約翰伝の首章の如きは密教の語を其のままに伝へたものである。幽玄なる語句は悉く密教の語法経義である。これ等も詳細に述べる必要があるが、短時間では到底述べつくされる筈がない。してみると簡易に述べるべき何ものも無くなる。マアこんな考証は他日再会の砌り、緩る緩るお話しすることにしませう』
(大正七、九、一五号 神霊界)