神霊界の状態は、肉体人の住居する世界を似ている。
しかしお互いに相見ることはできない。これは神の定めた顕幽の区別の法なのである。
現世の人は、精霊界に入ったときに、神の許しを得て、初めて霊界事象を見聞することができるのである。
また天人や精霊界の住人は、鎮魂帰神の法によって人間の体を借りて憑依したときに、現界を見聞し、また人に話しかけることができるのである。
現界人は、物質的な思考に偏っているので、現界と霊界の相似に惑わされて、死んだ後もまだ生きていると思い込んでしまう者が多いのである。
現実界を後にして精霊界に移ることを死と言う。死んだ者は、身魂に属していたものをことごとく霊界に持っていくのである。
物質的な形骸は残していくが、死後の生涯に入った後も、同じ形の身体を保つ。しかして、物質的な事物からは分離し純化し、霊的活動を行うのである。
精霊界に身をおいても、名位富寿の願いや思索も学術もあり、現世で身に持っていた一切をもって活躍するのである。死によって自己本来の生命は決して失われない。
再び現世に生まれてくるのは神の意思によるのだが、その際記憶は一切忘却される。これは刑罰の一種である。一度霊界に復活してから、また娑婆に戻されるのは、不幸の御魂なのである。
人は現世にあるときに、五倫五常の道を踏んで、神の御子たる天職を尽くさなければ、中有界に踏み迷ったり、根底の国に落ちたりしてしまう。
真の神を信仰し、善と美を尽くして人の本分を力限りに努め、永遠無窮の天国に進んで行く用意を怠らないことである。
顕幽一致、生死不二である。生を軽んじ死を重んじることはならず、また生を重んじ死を軽んじてもだめである。
刹那刹那に身魂を磨き清めて神界と現実界の万物の大経綸の神業に惟神に尽くすべきである。