小林貞蔵氏の宅で四五日ばかり滞在し、村中の老若男女が信者になった。信者たちからお礼をいただき、北桑田へ渡ろうと海老坂峠にさしかかった。そこで日暮れになり、坂道の途中にある古寺の地蔵堂で横になり、眠りについてしまった。
夜中に坊主に怒鳴りつけられ、出て行くようにと言われたが、神も仏も元は一株だからと一夜の宿を乞うと、坊主はなかなかものの分かったことを言うと感心し、庫裏に招いてくれた。
話してみると奇遇にも、この坊主は喜楽の伯母の兄の子で、子供のころに四五回遊んだこともある人見与三郎という男であることが判明した。
与三郎と喜楽はすっかり打ち解けて、ここに四五日逗留したのち、再開を約して出立した。安懸という田舎の村では、井戸堀人足たちが生き埋めになる事故に遭遇し、とっさに神勅によって指示を出して人足たちを救うという経験もした。
この村は船岡の妙霊教会の信者が多くいたが、そこは喜楽の伯父が教導職であったため、そこでの布教はせずに園部へ帰ってきた。それ以降、この村の人々は妙霊教会への参拝の途次に、園部に立ち寄ってくれる者がたくさんあった。また、小林貞蔵氏も信者を連れて園部に来ていた。
人見与三郎は大正六年ごろ大本に来ていたが、その後再び乞われて元の地蔵堂に帰ってしまった。
明治三十二年ごろ、船井郡紀伊の庄村木崎の森田民という婆さんに稲荷が乗り移ってたくさん参拝者があるというので、信者に紛れて調べにいったことがある。
婆さんは狐の焼き物に向かって神占をなし、信者たちに判じ物の答えを与えていた。婆さんは喜楽が霊学の先生だと見破り、狐の神様が先生に頼んで教導職を授けてもらうように言っている、と告げた。
聞けば、もともと百姓をしていたときに無実の罪で狐の親子三匹を殺し、狐の霊に悩まされるようになった。そこで狐の霊に談判をし、神様に祀るから赦してくれと頼んだところ、世間の仕事を辞めて人助けをするなら赦してやる、という条件で今のような境遇になったのだという。
喜楽は婆さんに自分のことを判じてくれと頼んだ。すると婆さんの狐の神様が言うことには、今、園部で信者たちが先生としてかつごうとしているが、喜楽が納まるべきところはここから七里ほど西北であり、一月後に迎えがくる、また嫁もちゃんと決まっている、とのことであった。
園部に帰ってみると、田植えが終わったころに再度迎えに行く、という四方氏の手紙がきていたのである。