霊界には神界、中界、幽界の三大境域がある。神界は神道家の称える高天原であり、仏者のいう極楽浄土、キリスト教徒のいう天国である。
中界は神道の天の八衢、仏教の六道の辻、キリスト教の精霊界である。
幽界は神道の根の国底の国、仏教の八万地獄、キリスト教の地獄である。
天の八衢は高天原ではなく、根底の国でもない。両界の中間に介在する位置にあり、中間の情態である。人が死後、すぐに至るべき境域で、いわゆる中有である。
中有にあることやや久しくして、現界にあったときの行為の正邪により、ある者は高天原に上り、ある者は根底の国へ落ちていく。
しかし人の霊魂中にある真善美が和合するときは、その人は直ちに天国に上り、霊魂中にある邪悪と虚偽が合致したときは、その人はたちまち地獄に落ちるものである。
人間が死すと、神は直ちにその霊魂の正邪を審判し給う。肉体のときに朋友知己、夫婦、兄弟、姉妹となりしものは、神の許可を得て天の八衢において会談することができる。しかしいったんこの八衢で別れた時は、高天原においても根底の国においても、再び相見ること、相識こともない。ただ同一の信仰、愛、性情に居ったものは、天国においても行くたびも相見相識ることができる。
直ちに高天原に上るものは、その人間が現界にあるときに神を知り信じ、善導を履行し、霊魂が神に復活してすでに準備ができていたからである。内心悪を包蔵し、自己の凶悪を装い、不信仰にして神の存在を認めなかったものは直ちに地獄に墜落し無限の永苦を受けることになる。
死後に高天原に安住し霊的生涯を送るということは、世を捨てて身体に属する情欲を離脱しなくてはならない、という人がある。しかし天国はそのようにして上り得るものではない。
世を捨て、霊に住み、肉から離れようと努めるものは、かえっていっそう悲哀の生涯を修得し、高天原の歓楽を摂受することはとうていできるものではない。人は各自の生涯が死後にもなお留存するものだからである。
高天原に上って歓楽の生涯を永遠に受けようと思うのなら、現世において世間的の業務を執り、その職掌を尽くし、道徳的民文的生涯を送り、かくして始めて霊的生涯を受けなければならない。
内的生涯を清く送ると同時に、外的生涯を営まないものは、砂上の楼閣のごときものである。あるいは次第に陥没し、あるいは壁落ち床破れ崩壊し、傾き覆るがごときものである。