霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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随筆(九)

インフォメーション
題名:随筆(九) 著者:
ページ:337
概要: 備考: タグ: データ凡例:未だ全てはテキスト化していない。 データ最終更新日:2021-06-02 13:32:05 OBC :B121805c209
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]神霊界 > 大正9年1月1日号(第101号) > 随筆
 金烏(きんう)燦燗(さんらん)として東穹(とうきゆう)に輝き、瑞気(ずゐき)靄々(あいあい)天地(てんち)()てる大正庚申(かうしん)の元旦に際し、筆硯(ひつけん)を清め、神祇(しんぎ)祈誓(きせい)()め、(もつ)皇道(くわうだう)宇内(うだい)に宣伝せむと欲し、所懐(しよくわい)を述べて年頭の辞に代ヘやうと思ふ。
 『三千世界一度に開く梅の花、開いて散りて実を結び、(たね)を守るぞよ』
とは国祖(こくそ)国常立(くにとこたちの)(みこと)神諭(しんゆ)である。(また)神諭に梅の(つぼね)と松の(つぼね)()脇立(わきだち)と云ふ事がある。松の局とは決して人名では無い。()高天原(たかあまはら)竜宮館(りうぐうやかた)の松の大本(おほもと)の教壇であり、梅の局とは皇道宣伝発揚の教壇の()地場(ぢば)の名称である。松の大本は神界経綸の基礎が(やや)固まつたので、(いよいよ)梅の局の経綸に着手せねばならぬ時期に(むか)うて来ました。亀は(かがみ)である。鏡は言霊学(ことたまがく)(じやう)の梅である。(また)透明無欠の神教(しんけう)である。(ゆゑ)に皇道大本の神教を(あまね)く天下に宣伝するため、三百余年の昔、天正(てんしやう)の十年に明智(あけち)光秀(みつひで)が天下を治めた亀山城趾(じやうし)に道場を開設するのは、国魂(くにたま)の関係上、最も適当なる神策である。天の時と地の()を占め、人の()を得たる要務である。実に亀山は万代(ばんだい)不易(ふえき)の皇室擁護の活動地である。昔から(つる)は千年(かめ)は万年と祝ひ(きた)る。()の亀の名に負ふ亀山の万寿(まんじゆ)(ゑん)審判庭(さにはてい)なり、修行場(しゆぎやうば)(もう)くるは、神界所定の(しん)事業である。明智将軍の(のち)には松平(まつだひら)(こう)居城(きよじやう)であつた。松平とは、松の大本の経綸(しぐみ)(つい)ても(なに)かの因縁があるやうである。次に松は祭政一致の標徴(へうちよう)で、天下統一の神意である。万世不易の神政成就の神義(しんぎ)で、三種の神器(しんき)に配すれば、八坂瓊(やさかに)曲玉(まがたま)である。(ゆゑ)に松の大本は、万世一系、天壌(てんじやう)無窮(むきう)皇運(くわううん)扶翼(ふよく)(たてまつ)る、忠良(ちうりやう)無比(むひ)の神民の(あつま)る神聖なる霊地である。(しか)して神界と現界との真釣(まつ)りの中心点であります。
 ()の中心点なる地上の高天原下津(したつ)岩根(いはね)秋津(あきつ)島根の根を固め、(みき)を太らせ、(うる)はしき枝を四方(よも)(しげ)らせたる皇道大本は、(いよいよ)(きよ)(かんば)しき花の咲く春が来たのである。則ち梅に因縁深き亀山の万寿(まんじゆ)(ゑん)(をしへ)(その)を開設するは、実に神政経綸(じやう)機宜(きぎ)(がつ)したるものである。(むべ)なる(かな)、本年の勅題(ちよくだい)田家(でんかの)早梅(さうばい)である。田家(でんか)とは国語(これ)イナカ()ふ。水火(いき)(かへし)也。かみ又はくに又はきみ(かへし)である。則ちの言霊は(いき)なり(いき)なり。の言霊を(がつ)すれば生国生神である。次にの言霊は(なか)(かへし)である。のあ(かへし)である。また─((みづ))と│(())との結びである。(すう)の上から(とう)である。(とう)十曜(とえう)神紋(しんもん)十方(じつぱう)世界の中心の意がある。次にの言霊は神霊活動の意義である。約言(やくげん)すれば神国の生神(いきがみ)の大活動である。故に(ことわざ)にも『田舎(ゐなか)は神が造り、都会は人が造る』と()うてある。丹波の片田舎から神霊顕現して、皇威(くわいゐ)八紘(はつかう)(かがや)(まつ)真人(しんじん)()の共同一致の大活動を、一度に開く梅の花と()ふ。田家(でんかの)早梅(さうばい)とは、皇道大本の大活動の神示となるのであります。国祖の神諭に『天理(てんり)金光(こんくわう)黒住(くろずみ)(みな)大本の先走(さきばし)りに出してあるぞよ』と示されてあるが、天理教の標紋(へうもん)は梅の花である。金光教の標紋は八並(やなみ)の鏡である。鏡は即ち前に述べた通り、矢張(やは)り梅の八方(はつぱう)に開いた形である。黒住教の標紋は日の丸である。太陽の形象である。太陽は年百年(ぢう)(ひがし)(はう)より昇る。の方よりミエるから矢張り(これ)もウメである。(ミエ(かへし)也)また(をしへ)は前述の如く鏡である。故に日の丸の中心に(をしへ)の字を入れて標紋となせる黒住教は、惟神(かむながら)の神理に合致したものであります。
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 神諭に『(だい)()逆様(さかさま)の世であるぞよ』と示されてある。大の字とは一人(ひとり)と云ふ事である。神は万物普遍の霊にして人は天地(てんち)経綸(けいりん)司宰者(しさいしや)である事は、大本神諭所示(しよじ)の通りである。人は大宇宙に対して小宇宙であり、天地の神明に対して人は(せう)なる神であります。その小なる神とは大の字なる一人(いちにん)の意義である。現今の人間は日々(にちにち)の行為と云ひ心性(しんせい)と云ひ、一切万事天地の真理に反して()るのを警戒する為に、大神様が『今の世は(うへ)から(した)まで、山の谷々まで大の字が逆様になつて()るぞよ』と仰せられたのであります。仏祖(ぶつそ)所謂(いはゆる)天上(てんじやう)天下(てんが)唯我(ゆゐが)独尊(どくそん)とは完全なる人間の人格を指したものである。現今の日本(につぽん)神国(しんこく)には、遺憾(ゐかん)ながら一人(いちにん)として(しん)の人格者が(あら)はれず、人面(にんめん)にして獣魂(じうこん)なる反道者(はんだうしや)ばかりが天地間を(けが)して()るとの神示であります。
 『の戦ひが始まるぞよ』伊都能売神諭 大正8年4月23日(あら)はれて()りましたが、()の神諭に(つい)諸方(しよはう)から解説を要求されますから、今(ここ)に略解を試みて置きます。要するに(しん)(ぶつ)()の戦ひと云ふ事であります。
 とはセム(かへし)なり、とはハム(かへし)なり、とはヤヘツトの(かへし)なり。而して昇水(しようすゐ)の言霊、正火(せいくわ)の言霊、火水(くわすゐ)の言霊である。(また)はシムの(かへし)である。シムは即ち(しん)である。はフツの(かへし)である。フツは即ち(ぶつ)である。はヤヘツトの(かへし)である。又ヤソの(かへし)である。ヤソは即ち耶蘇(やそ)である。
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 (わが)日本(につぽん)神国(しんこく)は、古来磯輪垣(しわがき)秀妻(ほつま)の国と称へて来た。(みづ)なり、国土(こくど)または(しほ)である。即ち海潮(かいてう)(もつ)て国土の四周(ししう)を囲ふと云ふ言霊であります。
 次に秀妻(ほつま)の国のは天地万有の初めにして、()()(れい)であり、(つづ)(つらな)るなり。(まはり)なり、(まなこ)なり、(まどか)なりの言霊である。要するに世界太初(たいしよ)に神の造られし神国にして、天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)の万世一系天壌(てんじやう)無窮(むきう)に連続するてふ国名である。(しか)して海の(しほ)七五三(しちごさん)(なみ)が打つのである。(ゆゑ)に七五三を国語でシメといふ。七五三を天地開闢(かいびやく)の初めより惟神(かむながら)(はり)(まは)した国は、(わが)日本国の地形であります。今迄は日本は()七五三(しめ)(うち)に平和の夢を(むさぼ)りつつあつたが、米国の使節ペルリの来航ペリーの黒船来航のことと共に三千年間の七五三(しめ)は撤去されて了つたのである。七五三(しめ)が撤回されると共に、日本(につぽん)(じん)何時(いつ)迄も(まつ)(うち)()うに安楽な考へを持つては()られないやうに成つて来たのである。(つい)ては今日(こんにち)の日本には、七五三(しめ)が精神的に(とり)(はづ)されて()るから、外国の危険なる思想がドシドシと、遠慮会釈もなく侵入して(しま)つて、目下の(ところ)にては、到底(たうてい)政治や教育や法律や宗教の権力(ちから)では、如何(いかん)ともすることが出来ない(やう)に成つて来て()るのである。アア(われ)()()(まで)(ふんどし)シメ腹帯(はらおび)シメ鉢巻(はちまき)(しつか)りとシメて、国家の為に皇祖(くわうそ)皇宗(くわうそう)の御遺訓を天下に宣伝し、以て国恩(こくおん)の万一に報いるやうにせねばならぬ事を、最も適切に感ずるのであります。(しか)し皇道大本にては七五三(しめ)を張りませぬが、(その)理由は天地の大神の御稜威(みいづ)を新年早々から(あめ)(した)四方の国々までも発揮し(まつ)りたい精神より()でたるものであります。
 三倉棚(みくらだな)の神と古事記に(あら)はれてゐるのは、恒天暦(かうてんれき)太陽暦(たいやうれき)太陰暦(たいいんれき)三大暦(さんだいれき)である。現今(げんこん)日本(につぽん)(こく)は一般に太陽暦を用ふる事に成つて()るが、地球上に棲息する以上は、地球と最も関係深き太陰の循環に(したが)へる太陰暦に()らなければ、瑞穂(みづほの)中津国(なかつくに)の農作上に()ける支障が最も多く、実に種蒔(たねまき)なども不便極まる次第であります。(いはん)(のう)は国家の大本(たいほん)なることの最適切に実証せられたる今日に(おい)ては、是非とも神諭にある如く、太陰暦を採用するやうに、当局に(おい)て断行されむ事を望む次第であります。(しか)し太陰暦に復旧する時は、月給取りの官吏に対して、三年目(ごと)に十三ケ月(一年に)の月給を支給せねばならぬ事に成るから、大蔵省の予算が狂ふかも知れぬが、それはまた何とか都合は付くものであらうと思ふ。綾部地方では(しん)の一月にも、旧の正月にも年頭(いはひ)をするものがある、(つま)り一年の間に新年が二度来るやうなものである。
 『(しん)で(()んで)しまへと、役場は()へど、旧々(きうきう)窮々(きうきう))いうて、しん仕舞(しま)はぬ』など云ふ口合(くちあ)ひが流行(はや)つた事があるさうである。
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