霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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俳道

インフォメーション
題名:俳道 著者:月の家
ページ:575
概要: 備考:2023/10/08校正。著作集3「俳道」と同じ。 タグ: データ凡例: データ最終更新日:2023-10-08 19:58:37 OBC :B121805c264
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]『日月日記 三の巻』昭和4年2月23日号
 俳道(はいだう)は天地剖判の以前から流れて居る。森羅万象は悉皆(しつかい)俳的(はいてき)表現である。釈迦が女性(しう)と人間(しう)に中毒の結果はヒマラヤ(さん)といふ小さい茶室に逃げ込んだ茶人(ちやじん)であつた。『ソロモンの栄華も要らず百合(ゆり)の花』だの『陽炎(かげろふ)(つち)にもの書く男あり』だのと発句(ほつく)つて居た耶蘇(やそ)も、()る意味に於ける俳諧師(はいかいし)である。
 天地(てんち)其儘(そのまま)にして茶室である。自然の詠嘆は其儘にして天国の福音(ふくいん)である。(しか)しクリスチヤンに耶蘇が解らないやうに、茶人は茶を知らず、俳人は俳道が分つて居ない。耶蘇教は露西亜(ロシア)も之を見限つて了つた。マホメツト教も本場の土耳其(トルコ)に捨てられた。日本の神道も仏教も(とう)の昔に国民から捨てられてゐるが、之を知らないものは神道家と(ぶつ)の僧侶ばかりである。
 凡ての人々は(いづ)れも(みな)宗教家である。(いな)宗教が人を()つて居るのである。そして宗教に見放(みはな)されて居るものは宗教家である。今日の俳人と称するものも(みな)俳道から捨てられた俳亡者(はいまうじや)である。そして日本俳壇(はいだん)の中興は戦国争覇(さうは)の頂点に対峙して旗鼓(きこ)(あひ)()つた機山(きざん)不識庵(ふしきあん)の連中であつた。信玄が城を()たず、謙信は甲冑(かつちう)(まと)はなかつた。自分が入蒙(にふもう)戦争の際にも銃剣を持たなかつた。それは所謂(いはゆる)山川(さんせん)を城となしてゐるからであり、敵中(てきちう)を行く、(あだか)も無人の平野を行くが如くであつたからである。また()の謙信は一生涯(かたな)を抜かなかつた。大事(だいじ)(いくさ)ほど人数を減らし、川中島で信玄に迫つた時は(ひとり)であつた。恋には(つれ)が邪魔になる如く思つたのだ。信玄、謙信は相思、相愛の恋仲(こひなか)のやうな態度を()つて居た。恋と云ふものは殺したり、殺される筈のものだからで、殺しもせず殺されもしないものは恋ではない。信玄が死んだと聞いて茶碗を(なげう)つて慟哭(どうこく)した謙信の心は可憐(いじら)しい恋であつたのだ。『乾坤(けんこん)破壊の時如何(いかん)』『紅炉(こうろ)一点(いつてんの)(ゆき)』この両者のラブレターに(ちよう)しても、彼等(かれら)が自然に対する恋の深さを(うかが)ふ事が出来る。『数行(すうかう)過雁(くわがん)三更(さんかう)(つき)』これ彼等(かれら)が全世界を手に入れたよりも(まさ)つた法悦であつた。(これ)俳道の猛者(もさ)に非ずして何ぞやである。
 それに()の信玄の後裔だと云ふ武野(たけの)紹鴎(ぜうおう)や紹鴎の弟子と云はるる(せんの)利休(りきう)の如き俳人は、水呑(みづのみ)百姓までが天下を奪はむと(たけ)り狂つて居る真只中(まつただなか)に、落葉(おちば)の響き(しも)の声に耳を傾けて四畳半()に大宇宙を包み、欠け茶碗(ぢやわん)に天地の幽寂(いうじやく)(あじは)つて、英雄の心事(しんじ)(あはれ)んで居た。十里の長城(ちやうじやう)(いな)土居(どゐ)(めぐ)らして帝都を復興し、聚楽邸(じゆらくてい)を築いて花洛(みやこ)と共に花も月も(おの)れ一人の所有となし、桃山城(ももやまじやう)を建設して天下の美人を専擅(せんせん)し、驕奢(けうしや)と栄華に耽溺(たんでき)し陶酔した豊臣(とよとみ)氏に、荒壁造りの茅舎(ばうしや)を見せ(びら)かして飛び付かせ、茶杓(ちやしやく)で丸木柱に()(じば)つて了つた利休は俳諧(はいかい)史上の逸品である。外面的には利休は(つひ)豊公(ほうこう)に殺されたが、内部的精神的から見れば豊公(ほうこう)は利休に殺されたのである。(とき)めく天下の関白が利休の為に四畳半()引摺(ひきず)りこまれて以来の豊公(ほうこう)最早(もはや)以前の豊公ではない。豊公(ほうこう)は内部的に利休に殺されて英雄の分際から只の凡爺(ぼんや)立還(たちかへ)つて、未見(みけん)の世界が見られたのは(せう)不幸中の大幸福だつたのである。(また)利休は豊公に殺されたお蔭で永遠の生命を獲得したのであつた。
 この一挙両得の(うち)有声(いうせい)無声(むせい)を見、無色に有色を聞く俳道の真趣(しんしゆ)がある。糸の掛け足らぬ琴に有り余る琴の音色(ねいろ)を聞く程の人間で無ければ俳道は到底(たうてい)分るものでない。
(昭和四・二・二三 日月日記 三の巻)
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