出口教祖は清国の騒乱に東洋の前途を気遣い、神命のまにまに二度までも無人島にわたって渡海を成功させた。それに反対の役員たちは、上田会長を道案内として沓島参拝を成し遂げようと、強制的に自分を同行させようとした。
これまでも彼らの奸計によって九死一生の目にたびたびあってきたが、ここで逃げては神の道を宣伝する者の本意ではないと決心し、彼らとともに出修参拝することになった。
万一をおもんばかり、熱心な信者たちを同行させた。敵味方合わせて二十一名は明治三十三年七月二十日に出発を決行した。
冠島の手前になって、東の空がおかしな色になってきた。船頭たちは大しけになると慌てふためいている。
山岳のような波が舟を翻弄し、大の男たちがすっかり弱ってしまっている。会長は一生懸命に天津祝詞を奏上した。少し風が和らいだ間に、四隻の舟を二隻ずつ組みよせた。すると今度は一層激烈な大しけが襲来した。
教祖は、今回は罪が深い者ばかりの参拝だから、よほど神様に頼んで気を付けないと大変だからと、危急の際に開いて見るように会長に筆先を授けていた。
会長は筆先を披見するのはこのときばかりと開いて見ると、平仮名の筆先にて、神様の教えはこの舟の櫓櫂を操る舟人のようなものであるから、今の困難を腹に染みわたらせて恵みを悟り、信心を怠るなとの戒めであった。
また筆先には、上田が本田親徳先生から長沢豊子刀自を経由して授けられた巻物を今こそ開くように、と書かれていた。
そこには救世の神法、霊学の大本、神業が書かれていた。会長はこの神法を実行するのは正に今と言霊を上げると、不思議にも雨風波はやみ、静まった。舟人たちは驚いて、舌を巻いて感嘆している。
舟はようやくにして冠島に避難することを得た。老人島神社に供物を献上して救命の神恩に感謝する祝詞を奏上し、罪重い者の沓島参拝は神慮に叶わないことを一同感じ、舞鶴に帰着することになった。
舞鶴の旅館・大丹生屋の一間で休んでいたところ、会長のところへ杉浦という男がやってきて、涙を流しながら懺悔した。実は数名は謀議し、上田先生の巻物を奪って何々し、四方春蔵を後釜にしようとしていたという。
教祖の命によって、四方平蔵氏と四方春蔵が迎えにやってきた。杉浦の改心を聞いて、四方春蔵も陰謀を逐一自白し、真心から涙を流して謝罪するさまは、かえって可哀そうに思えた。
雨降って地固まるとやら、今度の遭難にて誰も彼も悔い改め、教団内も道の曙光を認めるようになってきた。これもまったく神の深遠なる思し召しによることと、会長はますますその信念を強固ならしめた。