霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第二八章 金明水(きんめいすゐ)〔一〇六五〕

インフォメーション
著者:出口王仁三郎 巻:霊界物語 第38巻 舎身活躍 丑の巻 篇:第5篇 正信妄信 よみ(新仮名遣い):せいしんぼうしん
章:第28章 金明水 よみ(新仮名遣い):きんめいすい 通し章番号:1065
口述日:1922(大正11)年10月19日(旧08月29日) 口述場所: 筆録者:松村真澄 校正日: 校正場所: 初版発行日:1924(大正13)年4月3日
概要: 舞台: あらすじ[?]このあらすじはMさん作成です(一部加筆訂正してあります)。一覧表が「王仁DB」にあります。[×閉じる]:
明治三十四年旧五月十六日、出口教祖をはじめ、上田会長、出口澄子ら役員信者十五人は、神命を奉じて出雲大社に参拝することになった。この参拝が済めば、何もかも神界の因縁がわかり、大望が成就するものだと役員一同は考えていた。
喜楽が役員たちの安易な考えをいさめると、彼らは自分に非常に冷淡になってしまった。教祖は行けばわかると澄ましたものであった。
海が荒れて船待ちをしていた加露ケ浜の旅館で、喜楽は夜中ごろに妙な夢を見た。自分が際限もなき原野に立っていると、東から大きな太陽とも月ともわからぬものが昇り、澄子の懐に入った。この月、すでに澄子は妊娠していた。
この夢を思い出して、この子は在朝在野の人々を済度する子になるだろうという考えとを重ね合わせ、長女を朝野と命名したのであった。朝野が四つになったとき、自分から直日だと言い出したので、直日と呼ぶようになったのである。
神社に参拝をなして、ご神火、清水、お砂をいただき、またもや山坂を越えて旧六月四日に福知山まで戻り、数百人の信者に迎えられ、ようやく綾部に帰ってきた。
それから百日間は埋み火として役員二人が昼夜保存し、天照大御神様にささげることになった。お砂は本宮山や竜宮館の周囲に散布し、清水は三四か所の井戸に注いだ。大島の井戸へは天の岩戸の産盥の水と一緒に注ぎ、金明水と名付けたのである。
その水と沓島詣での際に海に投じ、この水が世界中を廻った時分に日本と露国の戦争がおこる、大難を小難にまつりかえてもらうよう竜神様にお供えする、と祈願をこめた。それからちょうど三年目に日露戦争が起こったのであった。
出雲参拝後は教祖の態度ががらりと変わり、会長に対して非常に峻烈になってきた。また会長に対して反対的の筆先も出るようになってきた。それまでは役員が反対しても弁護に回ってくれていた。
澄子が妊娠したので、もはや厳しく言っても出ていく気遣いはないと思われたからであろうと思う。明治三十四年には、会長が変性男子に敵対したといって弥仙山に隠れ、海潮と澄子は非常に苦心した。
しかし初めて播州の神島へ行って神懸りになり、今まで自分の会長への考えが間違っていたとおっしゃられ、例のお筆先まで書かれたのである。
今日までの経路を述べれば際限がないが、霊界物語を後述するに当たり、大本の大要を述べておくのもあながち無用ではないと信じ、ここにその一端を古い記憶から呼び起こして述べることとした。
主な登場人物[?]【セ】はセリフが有る人物、【場】はセリフは無いがその場に居る人物、【名】は名前だけ出て来る人物です。[×閉じる]: 備考: タグ:賀露(加露) データ凡例: データ最終更新日:2024-07-31 13:37:59 文字数:2142 OBC :rm3828
愛善世界社版:291頁 八幡書店版:第7輯 268頁 修補版: 校定版:298頁 普及版:155頁 初版: ページ備考:
001 明治(めいぢ)三十四(さんじふよ)年(ねん)旧(きう)五(ご)月(ぐわつ)十六(じふろく)日(にち)[※新暦だと1901年7月1日]、002出口(でぐち)教祖(けうそ)始(はじ)め、003上田(うへだ)会長(くわいちやう)、004出口(でぐち)澄子(すみこ)、005四方(しかた)平蔵(へいざう)、006中村(なかむら)竹造(たけざう)、007内藤(ないとう)半吾(はんご)、008野崎(のざき)宗長(むねなが)、009木下(きのした)慶太郎(けいたらう)、010福林(ふくばやし)安之助(やすのすけ)、011竹原(たけはら)房太郎(ふさたらう)、012上田(うへだ)幸吉(かうきち)、013杉浦(すぎうら)万吉(まんきち)ら一行(いつかう)十五(じふご)人(にん)は、014皐月(さつき)の曇(くも)つた空(そら)を目当(めあて)に徒歩(とほ)にて出雲(いづも)の大社(おほやしろ)へ神明(しんめい)を奉(ほう)じて参拝(さんぱい)することとなつた。015此(この)参拝(さんぱい)が無事(ぶじ)に済(す)めば、016何(なに)もかも神界(しんかい)の因縁(いんねん)が判(わか)り、017大望(たいもう)が成就(じやうじゆ)するものだと、018役員(やくゐん)一同(いちどう)の考(かんが)へであつたらしい。
019 先(ま)づ立原(たつばら)で一宿(いつしゆく)し、020それから十(じふ)里(り)程(ほど)歩(ある)いては泊(とま)りなどして、021漸(やうや)く但馬(たじま)の八鹿(やうか)へ着(つ)いた。022さうすると道々(みちみち)役員(やくゐん)連(れん)の空想(くうさう)的(てき)談話(だんわ)が始(はじ)まつて来(き)た。023そこで喜楽(きらく)は、
024喜楽(きらく)『そんな事(こと)思(おも)うて居(ゐ)るとあてが違(ちが)ふ』
025と一口(ひとくち)云(い)つたら大変(たいへん)に役員(やくゐん)の機嫌(きげん)を損(そん)じ、026喜楽(きらく)に対(たい)して余程(よほど)冷淡(れいたん)な扱(あつか)ひをするやうになり、027『ナアニお前(まへ)等(ら)がそんなことが分(わか)るものか、028御(お)筆先(ふでさき)に出雲(いづも)へいつたら因縁(いんねん)が分(わか)ると書(か)いてある』……と威張(ゐば)りちらす。029教祖(けうそ)は教祖(けうそ)で、030出雲(いづも)へさへいつてくれば皆(みな)の改心(かいしん)が出来(でき)る……とすましたものである。031途中(とちう)で四方(しかた)春三(はるざう)の亡霊(ばうれい)が役員(やくゐん)にうつつて、032澄子(すみこ)と会長(くわいちやう)との間(あひだ)を不和(ふわ)ならしめやうとかかり、033両人(りやうにん)は其(その)亡霊(ばうれい)の為(ため)に非常(ひじやう)に悩(なや)まされ、034途々(みちみち)議論(ぎろん)を衝突(しようとつ)させ乍(なが)ら、035日(ひ)を重(かさ)ねて鳥取(とつとり)に着(つ)いた。036それから千代川(せんだいがは)を汚(きたな)い舟(ふね)に乗(の)つて加露(かろ)ケ浜(はま)に出(い)で、037加露(かろ)ケ浜(はま)から舟(ふね)に乗(の)つて三保(みほ)の関(せき)に着(つ)かうと計画(けいくわく)したのである。
038 恰度(ちやうど)海(うみ)が荒(あ)れて三日間(みつかかん)船(ふね)を出(だ)す事(こと)が出来(でき)ず、039加露(かろ)ケ浜(はま)の旅館(りよくわん)で一行(いつかう)十五(じふご)人(にん)が泊(とま)り込(こ)み海上(かいじやう)の凪(な)ぎ渡(わた)るのを待(ま)つこととした。040其(その)時(とき)恰(あたか)も海軍(かいぐん)中将(ちうじやう)伊東(いとう)祐亨(いうきよう)氏(し)が山陰(さんいん)沿海(えんかい)視察(しさつ)の為(ため)にやつて来(き)て同(おな)じ宿屋(やどや)に泊(とま)つてゐた。041教祖(けうそ)が筆先(ふでさき)を一(いち)枚(まい)書(か)いて、042伊東(いとう)中将(ちうじやう)に宿屋(やどや)の亭主(おやぢ)の手(て)から渡(わた)され、043よく査(しら)べてくれ……といはれたが、044それきりで何(なん)の返答(へんたふ)も聞(き)かなかつた。
045 喜楽(きらく)は夜中(よなか)頃(ごろ)に妙(めう)な夢(ゆめ)を見(み)た。046それは海潮(かいてう)が際限(さいげん)もなき原野(げんや)に立(た)つてゐると、047東(ひがし)の方(はう)から大(おほ)きな太陽(たいやう)とも月(つき)とも分(わか)らぬが、048昇(のぼ)られてだんだんこちらへ近付(ちかづ)き、049澄子(すみこ)の懐(ふところ)へ這入(はい)られた夢(ゆめ)を見(み)て目(め)がさめた。050此(この)月(つき)すでに澄子(すみこ)は妊娠(にんしん)してゐたのである。051それから翌年(よくねん)の正(しやう)月(ぐわつ)二十八(にじふはち)日(にち)[※新暦3月7日]に女子(ぢよし)が生(うま)れたので、052朝野(あさの)に立(た)つてゐた夢(ゆめ)を思(おも)ひ出(だ)し、053朝野(あさの)と名(な)をつけた。054これは在朝(ざいてう)在野(ざいや)の人々(ひとびと)を済度(さいど)する子(こ)になるだろうといふ考(かんが)へと二(ふた)つをかねて命(つ)けたのであつた。055さうすると朝野(あさの)が四(よつ)つになつた年(とし)、056自分(じぶん)から……わしは朝野(あさの)ぢやない直日(なほひ)ぢやと言(い)ひ出(だ)したので、057直日(なほひ)と呼(よ)ぶやうになつたのである。058三日目(みつかめ)の朝(あさ)、059又(また)もや磯端(いそばた)を伝(つた)ひに十(じふ)里(り)許(ばか)り西(にし)へ進(すす)んで一泊(いつぱく)し翌朝(よくてう)船(ふね)を仕立(した)てて、060三保(みほ)の関(せき)に渡(わた)り神社(やしろ)に参拝(さんぱい)し、061中(なか)の海(うみ)宍道湖(しんじこ)を汽船(きせん)に乗(の)つて平田(ひらた)に上陸(じやうりく)し、062徒歩(とほ)にて大社(おほやしろ)の千家(せんけ)男爵(だんしやく)の門前(もんぜん)の宮亀(みやかめ)といふ旅館(りよくわん)に一行(いつかう)十五(じふご)人(にん)投宿(とうしゆく)した。
063 二三(にさん)日(にち)逗留(とうりう)の上(うへ)神火(しんくわ)と御(ご)前井(ぜんゐど)の清水(せいすい)、064社(やしろ)の砂(すな)を戴(いただ)き、065二個(にこ)の火縄(ひなは)に火(ひ)をつけて帰途(きと)につき、066稲佐(いなさ)の小浜(こはま)から松江丸(まつえまる)といふ汽船(きせん)に乗(の)つて境港(さかひかう)につき、067それから徒歩(とほ)にて米子(よなご)に至(いた)り、068一(いち)日(にち)計(ばか)り歩(ある)いて又(また)もや今度(こんど)は帆船(はんせん)に乗(の)り、069加露(かろ)ケ浜(はま)の少(すこ)し東(ひがし)、070岩井(いはゐ)の磯(いそ)ばたにつき、071行(ゆき)がけに泊(とま)つた駒屋(こまや)の温泉場(をんせんば)に再(ふたたび)一泊(いつぱく)し、072又(また)もや山坂(やまさか)を越(こ)えて旧(きう)六(ろく)月(ぐわつ)の四日(よつか)福知山(ふくちやま)まで、073数百(すうひやく)人(にん)の信者(しんじや)に迎(むか)へられ、074漸(やうや)く綾部(あやべ)へ帰(かへ)つて来(き)た。075途中(とちう)澄子(すみこ)は産婦(さんぷ)に免(まぬ)がれがたきツワリで非常(ひじやう)に苦(くるし)み、076石原(いさ)から時田(ときだ)や其(その)外(ほか)の大男(おほをとこ)の背中(せなか)に負(お)はれて帰(かへ)つて来(き)た。
077 それから其(その)火(ひ)を百(ひやく)日間(にちかん)埋(うづ)み火(び)として役員(やくゐん)二人(ふたり)が昼夜(ちうや)保存(ほぞん)し、078百日目(ひやくにちめ)に十五本(じふごほん)の蝋燭(らふそく)に火(ひ)を点(てん)じ、079天照(あまてらす)大御神(おほみかみ)さまへ捧(ささ)げることとした。080又(また)砂(すな)を本宮山(ほんぐうさん)や竜宮館(りうぐうやかた)の周囲(しうゐ)に撒布(さんぷ)し三四(さんし)ケ所(しよ)の井戸(ゐど)に水(みづ)を注(そそ)ぎ、081大島(おほしま)の井戸(ゐど)へ天(あま)の岩戸(いはと)の産盥(うぶだらひ)の水(みづ)を一所(いつしよ)にしてほり込(こ)み、082金明水(きんめいすい)と名(な)をつけたのである。083其(その)水(みづ)を竹筒(たけつつ)に入(い)れ其(その)年(とし)の旧(きう)六(ろく)月(ぐわつ)の八日(やうか)[※新暦だと7月23日]に教祖(けうそ)は会長(くわいちやう)、084澄子(すみこ)其(その)他(た)四十(よんじふ)人(にん)計(ばか)りの信者(しんじや)と共(とも)に沓島(めしま)へ渡(わた)り、085其(その)水(みづ)を海(うみ)に投(とう)じ、086此(こ)の水(みづ)が世界中(せかいぢう)を廻(まは)つた時分(じぶん)には日本(にほん)と露国(ろこく)との戦争(せんそう)が起(おこ)るから、087どうぞ大難(だいなん)を小難(せうなん)に祭(まつ)りかへて貰(もら)ふやうに、088元伊勢(もといせ)の御(お)水(みづ)と出雲(いづも)の御(お)水(みづ)と、089竜宮館(りうぐうやかた)の御(お)水(みづ)と一所(いつしよ)にして竜神(りうじん)さまにお供(そな)へするといつて祈願(きぐわん)をこめて帰(かへ)つて来(こ)られたが、090それから丁度(ちやうど)三年目(さんねんめ)に日露(にちろ)戦争(せんそう)が起(おこ)つたのである。
091 出雲(いづも)参拝後(さんぱいご)は教祖(けうそ)の態度(たいど)がガラリと変(かは)り、092会長(くわいちやう)に対(たい)し非常(ひじやう)に峻烈(しゆんれつ)になつて来(き)た。093そして反対(はんたい)的(てき)の筆先(ふでさき)も沢山(たくさん)出(で)るやうになつて来(き)た。094澄子(すみこ)が妊娠(にんしん)したので、095最早(もはや)会長(くわいちやう)は何程(なにほど)厳(きび)しく云(い)つても帰(かへ)る気遣(きづかひ)はないと、096思(おも)はれたからであらうと思(おも)ふ。097それ迄(まで)は何事(なにごと)も言(い)はず何時(いつ)も役員(やくゐん)が反対(はんたい)しても弁護(べんご)の地位(ちゐ)に立(た)つて居(を)られたのである、098いよいよ明治(めいぢ)卅四(さんじふよ)年(ねん)の十(じふ)月(ぐわつ)頃(ごろ)から、099会長(くわいちやう)が変性(へんじやう)男子(なんし)に敵対(てきた)うといつて、100弥仙山(みせんざん)へ岩戸(いはと)がくれだといつて逃(に)げて行(い)つたりせられたので、101役員(やくゐん)の反抗心(はんかうしん)をますます高潮(かうてう)せしめ、102非常(ひじやう)に海潮(かいてう)、103澄子(すみこ)は苦心(くしん)をしたのであつた。104それから大正(たいしやう)五(ご)年(ねん)の九(く)月(ぐわつ)九日(ここのか)まで何(なに)かにつけて教祖(けうそ)は海潮(かいてう)の言行(げんかう)に対(たい)し、105一々(いちいち)反抗(はんかう)的(てき)態度(たいど)をとつてゐられたが、106始(はじ)めて播州(ばんしう)の神島(かみじま)へ行(い)つて神懸(かみがか)りになり、107今迄(いままで)の自分(じぶん)の考(かんがへ)が間違(まちが)つてゐたと仰(あふ)せられ、108例(れい)の御(お)筆先(ふでさき)まで書(か)かれたのである。
109 今日(こんにち)迄(まで)の経路(けいろ)を述(の)べ立(た)つれば際限(さいげん)がなけれ共(ども)只(ただ)霊界(れいかい)物語(ものがたり)を口述(こうじゆつ)するに当(あた)り、110大本(おほもと)の大要(たいえう)を述(の)べておくのも強(あなが)ち無用(むよう)ではないと信(しん)じ、111ここに其(その)一端(いつたん)を古(ふる)き記憶(きおく)より呼(よ)び出(だ)し、112述(の)ぶることとした。113まだまだ口述(こうじゆつ)したきことは沢山(たくさん)あれ共(ども)、114紙面(しめん)の都合(つがう)に依(よ)つて本巻(ほんくわん)にて止(と)めおくことにする。115後日(ごじつ)折(をり)を見(み)て詳(くは)しく発表(はつぺう)するかも知(し)れぬ。
116 惟神(かむながら)霊(たま)幸倍(ちはへ)坐世(ませ)。
117(大正一一・一〇・一九 旧八・二九 松村真澄録)
118(昭和一〇・六・一〇 王仁校正)
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