明治三十七、八年ごろは、日露戦争の勃発で四方平蔵、中村竹蔵ら十二人の幹部たちは、いよいよ世の立替で五六七の世になる、それまでに変性女子を改心させねばお仕組が遅れると信者の家を宣伝に回っていた。
十二人の熱心な活動のおかげで、喜楽の言うことを聞いて布教に従事してくれたのは、西田元教と、浅井はなという婆さんの二人だけであった。
三人は園部を根拠として細々と宣伝をやっていた。片山源之助という材木屋が園部に参拝して信者となり、幽祭の修業を始めた。天眼通を習得し、旅順の要塞を透視したり日露戦争の始末を予言したり不思議なことが実現したので、非常にたくさんの信者が集まってきた。
綾部から幹部が来て、喜楽は小松林の悪神が憑いていると吹聴しまくるから、信者たちは一も二もなく信じてしまい、会長を軽蔑して片山を先生と尊敬しだした。
西田はたいへんに憤慨したが、綾部の妨害がはなはだしいので挽回することができなかった。仕方なく自分は綾部に帰り、平仮名ばかりの経典を作って西田に持たせ、宣伝に歩かせた。
綾部にいると、中村や四方平蔵がやってきて、ふらふらとあちこち布教に歩いたりせずに早く改心しろと責め立てる。始末におえないので、しばらく経典を書くことに全力を尽くしていた。
西田が北桑田に来てくれと頼んできたので、八木の祭典の出張にかこつけて抜け出した。西田は山里で爺さんの鎮魂をしてリウマチスを治し、歩けるようにしてあげていた。
しかし非常に執着心の強い爺さんだったから、欲張って西田の怒りを買い、それきり偏屈人の西田は寄り付かなくなってしまった。また西田とともに、リウマチで苦しんでいた小西松元という男を訪問し、そこを根拠に布教していた。
小西は、川漁が得意で魚をたくさん取っては朝から晩まで女と酒を飲んでいるような親父だったので、リウマチにかかってしまった。
園部にやってきて西田の鎮魂で足が立つようになり、熱心な信者となった。しかし養生せずに川漁に出て川に落ち、またリウマチが再発して苦しんでいた。
この男を本復させて神様の御用に使おうと、西田と二人で訪ねて行ったのである。喜楽は初めて小西に面会し、二日ばかりの間に二三回鎮魂をしたところ、すっかり全快した。
小西は熱心に布教し、信者が集まってきて毎日二三十円ものお賽銭収入があるまでになった。すると小西はよい気になり、信者の女に手をかけたり、朝から晩まで酒を飲み始めた。
そのとき喜楽は京都の皇典講究所へ通っていたので小西の広間をかまうことができなかった。そうすると、小西は慢心して西田の言うことを聞かなくなってきた。
小西夫婦の息子は日露戦争に出征していたが、電報間違いで戦死の知らせが届いた。すると小西夫婦は西田を問い詰め、真冬の夜に外に出されて酷い目にあわされた。
しかし小西の息子・増吉は幾度も危険な目にあいながら神様に助けられ、連隊長の従卒になって楽に勤めて帰ってきたのであった。
また、自分が建勲神社の主典を務めていたとき、小西から手紙が来て矢代というところに大変にきつい曲津がいるから助太刀に来てほしい、と依頼があった。
そこで公務を繰り合わせて行ってみると、吉田竜次郎氏がひどい博奕打ちで祈祷してほしいという。明治四十年の夏の初めであった。吉田宅に行ってみると、自分が来るのを知って曲津は早くも逃げ出してしまっていた。
それから吉田氏と懇意になり、竜次郎氏は神社に訪ねてきて神勅をうかがったり、また細君の熱心で後に大本に帰依するようになった。