霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第二二章 難症(なんしよう)〔一〇五九〕

インフォメーション
著者:出口王仁三郎 巻:霊界物語 第38巻 舎身活躍 丑の巻 篇:第5篇 正信妄信 よみ(新仮名遣い):せいしんぼうしん
章:第22章 難症 よみ(新仮名遣い):なんしょう 通し章番号:1059
口述日:1922(大正11)年10月18日(旧08月28日) 口述場所: 筆録者:松村真澄 校正日: 校正場所: 初版発行日:1924(大正13)年4月3日
概要: 舞台: あらすじ[?]このあらすじはMさん作成です(一部加筆訂正してあります)。一覧表が「王仁DB」にあります。[×閉じる]:
明治三十七、八年ごろは、日露戦争の勃発で四方平蔵、中村竹蔵ら十二人の幹部たちは、いよいよ世の立替で五六七の世になる、それまでに変性女子を改心させねばお仕組が遅れると信者の家を宣伝に回っていた。
十二人の熱心な活動のおかげで、喜楽の言うことを聞いて布教に従事してくれたのは、西田元教と、浅井はなという婆さんの二人だけであった。
三人は園部を根拠として細々と宣伝をやっていた。片山源之助という材木屋が園部に参拝して信者となり、幽祭の修業を始めた。天眼通を習得し、旅順の要塞を透視したり日露戦争の始末を予言したり不思議なことが実現したので、非常にたくさんの信者が集まってきた。
綾部から幹部が来て、喜楽は小松林の悪神が憑いていると吹聴しまくるから、信者たちは一も二もなく信じてしまい、会長を軽蔑して片山を先生と尊敬しだした。
西田はたいへんに憤慨したが、綾部の妨害がはなはだしいので挽回することができなかった。仕方なく自分は綾部に帰り、平仮名ばかりの経典を作って西田に持たせ、宣伝に歩かせた。
綾部にいると、中村や四方平蔵がやってきて、ふらふらとあちこち布教に歩いたりせずに早く改心しろと責め立てる。始末におえないので、しばらく経典を書くことに全力を尽くしていた。
西田が北桑田に来てくれと頼んできたので、八木の祭典の出張にかこつけて抜け出した。西田は山里で爺さんの鎮魂をしてリウマチスを治し、歩けるようにしてあげていた。
しかし非常に執着心の強い爺さんだったから、欲張って西田の怒りを買い、それきり偏屈人の西田は寄り付かなくなってしまった。また西田とともに、リウマチで苦しんでいた小西松元という男を訪問し、そこを根拠に布教していた。
小西は、川漁が得意で魚をたくさん取っては朝から晩まで女と酒を飲んでいるような親父だったので、リウマチにかかってしまった。
園部にやってきて西田の鎮魂で足が立つようになり、熱心な信者となった。しかし養生せずに川漁に出て川に落ち、またリウマチが再発して苦しんでいた。
この男を本復させて神様の御用に使おうと、西田と二人で訪ねて行ったのである。喜楽は初めて小西に面会し、二日ばかりの間に二三回鎮魂をしたところ、すっかり全快した。
小西は熱心に布教し、信者が集まってきて毎日二三十円ものお賽銭収入があるまでになった。すると小西はよい気になり、信者の女に手をかけたり、朝から晩まで酒を飲み始めた。
そのとき喜楽は京都の皇典講究所へ通っていたので小西の広間をかまうことができなかった。そうすると、小西は慢心して西田の言うことを聞かなくなってきた。
小西夫婦の息子は日露戦争に出征していたが、電報間違いで戦死の知らせが届いた。すると小西夫婦は西田を問い詰め、真冬の夜に外に出されて酷い目にあわされた。
しかし小西の息子・増吉は幾度も危険な目にあいながら神様に助けられ、連隊長の従卒になって楽に勤めて帰ってきたのであった。
また、自分が建勲神社の主典を務めていたとき、小西から手紙が来て矢代というところに大変にきつい曲津がいるから助太刀に来てほしい、と依頼があった。
そこで公務を繰り合わせて行ってみると、吉田竜次郎氏がひどい博奕打ちで祈祷してほしいという。明治四十年の夏の初めであった。吉田宅に行ってみると、自分が来るのを知って曲津は早くも逃げ出してしまっていた。
それから吉田氏と懇意になり、竜次郎氏は神社に訪ねてきて神勅をうかがったり、また細君の熱心で後に大本に帰依するようになった。
主な登場人物[?]【セ】はセリフが有る人物、【場】はセリフは無いがその場に居る人物、【名】は名前だけ出て来る人物です。[×閉じる]: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2022-11-09 14:55:36 文字数:5113 OBC :rm3822
愛善世界社版:230頁 八幡書店版:第7輯 245頁 修補版: 校定版:234頁 普及版:122頁 初版: ページ備考:
001 明治(めいぢ)三十七八(さんじふしちはち)年(ねん)頃(ごろ)は日露(にちろ)戦争(せんそう)の勃発(ぼつぱつ)で四方(しかた)平蔵(へいざう)、002中村(なかむら)竹造(たけざう)等(ら)十二(じふに)人(にん)の所謂(いはゆる)幹部(かんぶ)役員(やくゐん)は愈(いよいよ)世(よ)の立替(たてかへ)で、003五六七(みろく)の世(よ)になる、004それまでに変性(へんじやう)女子(によし)を改心(かいしん)をさしておかねばお仕組(しぐみ)が遅(おく)れると、005しやちになつて、006信者(しんじや)の家(うち)を宣伝(せんでん)にまはり……会長(くわいちやう)が改心(かいしん)せず、007又(また)小松林(こまつばやし)の居(ゐ)る内(うち)は、008門口(かどぐち)の閾(しきゐ)一(ひと)つ跨(また)げさす事(こと)はならぬ、009大変(たいへん)な神罰(しんばつ)が当(あた)ると一生(いつしやう)懸命(けんめい)に一軒(いつけん)も残(のこ)らず触(ふ)れ歩(ある)いてゐる。010そしてどんな立派(りつぱ)な事(こと)を会長(くわいちやう)が言(い)うても、011一(ひと)つも聞(き)いてはならぬ、012小松林(こまつばやし)が艮(うしとらの)金神(こんじん)さまの御(お)仕組(しぐみ)を取(と)りに来(き)てるのだから……とふれまはした。013信者(しんじや)は一人(ひとり)も残(のこ)らず、014熱心(ねつしん)な十二(じふに)人(にん)の活動(くわつどう)で、015彼(かれ)等(ら)の云(い)ふ事(こと)を固(かた)く信(しん)じて了(しま)ひ、016且(か)つ園部(そのべ)で狐(きつね)の真似(まね)したのが大変(たいへん)に祟(たた)つて、017信者(しんじや)一般(いつぱん)から四(よ)ツ足(あし)の守護神(しゆごじん)と思(おも)ひこまれたからたまらぬ。018此(この)時(とき)喜楽(きらく)の云(い)ふ事(こと)を聞(き)いて布教(ふけう)に従事(じゆうじ)してゐた者(もの)は西田(にしだ)元教(げんけう)と浅井(あさゐ)はなといふ五十余(ごじふあま)りの婆(ば)アサン二人(ふたり)のみであつた。
019 西田(にしだ)と浅井(あさゐ)とは代(かは)る代(がは)る園部(そのべ)を十二(じふに)時(じ)頃(ごろ)に立(た)つて三(さん)里(り)計(ばか)り日(ひ)をくらして綾部(あやべ)へやつて来(き)て、020大槻(おほつき)鹿造(しかざう)の家(いへ)で、021夜中(やちう)ソツと会長(くわいちやう)と会見(くわいけん)し、022教理(けうり)を研究(けんきう)しては、023又(また)夜(よる)の間(ま)に園部(そのべ)へ帰(かへ)り、024園部(そのべ)を根拠(こんきよ)として、025細々(ほそぼそ)と宣伝(せんでん)をやつて居(ゐ)た。026喜楽(きらく)は意(い)を決(けつ)して、027園部(そのべ)迄(まで)夜(よる)の間(ま)に浅井(あさゐ)に伴(つ)れられて、028逃(に)げのび、029船井郡(ふなゐぐん)や北桑田(きたくはだ)郡(ぐん)の信者(しんじや)未開(みかい)の地(ち)を宣伝(せんでん)して居(ゐ)た。
030 片山(かたやま)源之助(げんのすけ)といふ材木屋(ざいもくや)がふと園部(そのべ)の支部(しぶ)へ参拝(さんぱい)して来(き)て、031教理(けうり)を聞(き)き、032俄(にはか)に信者(しんじや)となつて、033幽斎(いうさい)の修行(しうぎやう)を始(はじ)め、034天眼通(てんがんつう)を修得(しうとく)し、035旅順(りよじゆん)の要塞(えうさい)を透視(とうし)したり、036日露(にちろ)戦争(せんそう)の始末(しまつ)を予言(よげん)したり、037いろいろと不思議(ふしぎ)な事(こと)が実現(じつげん)したので、038非常(ひじやう)に沢山(たくさん)の信者(しんじや)が集(あつ)まつて来(き)た。039さうすると又(また)もや綾部(あやべ)の連中(れんちう)が嗅(かぎ)つけやつて来(き)て、040沢山(たくさん)の信者(しんじや)の前(まへ)で、
041『会長(くわいちやう)は小松林(こまつばやし)といふ四(よ)ツ足(あし)の守護神(しゆごじん)が憑(つ)いとるのだから、042相手(あひて)になつては可(い)けませぬぞや、043貧之神(びんばふがみ)ですから』
044と吹聴(ふいちやう)する。045片山(かたやま)の天眼通(てんがんつう)が呼物(よびもの)となつて沢山(たくさん)の信者(しんじや)が集(あつ)まつて来(き)た。046そこへ綾部(あやべ)から来(き)て、047会長(くわいちやう)の悪口(あくこう)雑言(ざふごん)を並(なら)べ立(た)てるので、048訳(わけ)も知(し)らぬ信者(しんじや)は一(いち)も二(に)もなく信(しん)じて了(しま)ひ、049会長(くわいちやう)を軽蔑(けいべつ)し、050片山(かたやま)先生(せんせい)片山(かたやま)先生(せんせい)と尊敬(そんけい)して、051遂(つひ)には会長(くわいちやう)を邪魔者(じやまもの)扱(あつか)ひにするやうになつて了(しま)つた。052西田(にしだ)は大変(たいへん)に憤慨(ふんがい)していろいろと活動(くわつどう)したけれ共(ども)、053綾部(あやべ)の妨害(ばうがい)が甚(はなはだ)しいので、054頽勢(たいせい)を挽回(ばんくわい)する事(こと)が出来(でき)なかつた。055それから会長(くわいちやう)は再(ふたた)び綾部(あやべ)へ帰(かへ)り、056仮名(かな)計(ばか)りの教典(けうてん)を作(つく)り、057西田(にしだ)元教(げんけう)に持(も)たせて宣伝(せんでん)に歩(ある)かすこととしてゐた。
058 再(ふたた)び綾部(あやべ)へ帰(かへ)り、059離(はな)れの六畳(ろくでう)に蟄居(ちつきよ)して教典(けうてん)を書(か)いてゐると、060又(また)もや四方(しかた)中村(なかむら)の幹部(かんぶ)がやつて来(き)て、
061中村(なかむら)『会長(くわいちやう)サン、062行(ゆ)けば行(ゆ)く程(ほど)茨室(いばらむろ)、063神(かみ)に反(そむ)いて何(なん)なとして見(み)よれ、064一(ひと)つも思惑(おもわく)は立(た)ちは致(いた)さんぞよ、065アフンとして青(あを)い顔(かほ)をして、066家(いへ)のすまくらに引(ひ)つ込(こ)んで、067人(ひと)に顔(かほ)もよう会(あ)はせず、068悄気(せうげ)てゐるのを見(み)るがいやさに、069神(かみ)がくどう気(き)をつけるぞよ……と現(あら)はしなさつた筆先(ふでさき)を実地(じつち)に御覧(ごらん)になつたでせうな。070さうだからどつこへも行(ゆ)くでないと仰有(おつしや)るのに、071小松林(こまつばやし)の四(よ)ツ足(あし)にチヨロまかされて、072又(また)しても又(また)しても、073綾部(あやべ)を飛出(とびだ)しなさるもんだから、074こんなザマに会(あ)ふのです、075モウこれからはどつこへも行(ゆ)かず、076教祖(けうそ)さまの御(ご)命令(めいれい)を聞(き)いて役員(やくゐん)の言(い)ふ通(とほ)りになされ、077世界(せかい)の人民(じんみん)が苦(くるし)みますから』
078と中村(なかむら)がそれみたか……といふやうな冷笑(れいせう)を浮(う)かべて喋(しやべ)り出(だ)した。079会長(くわいちやう)は、
080喜楽(きらく)『ナニ、081私(わたし)は失敗(しつぱい)したんでも何(なん)でもないワ、082自分(じぶん)の心(こころ)がお前(まへ)に分(わか)るものか、083細工(さいく)は流々(りうりう)仕上(しあ)げを見(み)て貰(もら)はな分(わか)らぬワイ』
084と言(い)はせも果(は)てず、085中村(なかむら)は大(おほ)きな声(こゑ)で、
086中村(なかむら)『コラ小松林(こまつばやし)、087まだ改心(かいしん)を致(いた)さぬか、088ツツボにおとしてやろか、089慢心(まんしん)は大怪我(おほけが)の元(もと)だぞよ』
090と呶鳴(どな)りつける。091四方(しかた)平蔵(へいざう)は側(そば)から、
092四方(しかた)『会長(くわいちやう)サン、093あんたの仰有(おつしや)る事(こと)も先(さき)になつたら又(また)聞(き)く時節(じせつ)が来(き)ますから、094今(いま)の所(ところ)ではお気(き)に入(い)らいでも辛抱(しんばう)して御用(ごよう)聞(き)いて下(くだ)され、095今年(こんねん)来年(らいねん)が世界(せかい)の大峠(おほたうげ)、096グヅグヅしてる時(とき)ぢや厶(ござ)いませぬぞや、097これ程(ほど)御(ご)大望(たいまう)が差迫(さしせま)つて来(き)て居(ゐ)るのに、098大本(おほもと)の御(ご)用継(ようつぎ)ともある人(ひと)が、099そこらをウロウロとウロつきまはるとは何(なん)の事(こと)ですか、100教祖(けうそ)さまが、101又(また)何時(いつ)もの病(やまひ)が出(で)て小松林(こまつばやし)がそこら中(ぢう)へつれて歩(ある)くから、102役員(やくゐん)気(き)をつけよ……と厳(きび)しう仰有(おつしや)るのですから、103こうして皆(みな)の者(もの)があなた一人(ひとり)の事(こと)に付(つ)いて心配(しんぱい)して居(ゐ)るのに、104お前(まへ)サンは吾々(われわれ)役員(やくゐん)が可哀相(かあいさう)なとは思(おも)ひませぬか』
105と詰(なぢ)りよる。106会長(くわいちやう)は、
107喜楽(きらく)『お前(まへ)らがトボけてるのが可哀相(かあいさう)なから、108早(はや)く目(め)をさましてやろうと思(おも)うて、109いろいろと気(き)をつけるけれども、110小松林(こまつばやし)の四(よ)ツ足(あし)が吐(ぬか)すのだなどといつて一口(ひとくち)もきかず、111目(め)をさましてくれぬので、112綾部(あやべ)に居(を)つても用(よう)がないので、113今(いま)の内(うち)に一(ひと)つでも神界(しんかい)の御用(ごよう)をしておかうと思(おも)つて、114そこら中(ぢう)を布教(ふけう)に歩(ある)くのだ。115日露(にちろ)戦争(せんそう)が起(おこ)つても、116それ位(くらゐ)で世界(せかい)の立替(たてかへ)が出来(でき)るものでない、117まだまだ世界(せかい)の大戦争(だいせんそう)があり、118それから民族(みんぞく)問題(もんだい)が起(おこ)り、119いろいろ雑多(ざつた)な事(こと)が世界(せかい)に勃発(ぼつぱつ)して、120最後(さいご)にならねば立替(たてかへ)は出(で)て来(く)るものぢやない、121ここ十(じふ)年(ねん)や二十(にじふ)年(ねん)で、122そう着々(ちやくちやく)と埒(らち)があくものか、123今(いま)の内(うち)にチツと目(め)をさましておかぬと、124此(この)戦争(せんそう)は済(す)んで了(しま)ふなり、125立替(たてかへ)は出(で)て来(こ)ぬなりすると、126又(また)虚言(うそ)ぢやつたと言(い)つて信者(しんじや)が一人(ひとり)も寄(よ)りつかなくなつて了(しま)ふ、127つまりお前(まへ)達(たち)は一生(いつしやう)懸命(けんめい)になつて神(かみ)さまのお道(みち)を潰(つぶ)さうとかかつてるやうなものだ』
128といふのを皆(みな)まで聞(き)かず、
129『コレ会長(くわいちやう)サン、130お前(まへ)サン等(ら)が何程(なにほど)小賢(こざか)しい理屈(りくつ)を並(なら)べても誰(たれ)も聞(き)く者(もの)はありませぬぞ、131一分(いちぶ)一厘(いちりん)違(ちが)はぬお筆先(ふでさき)だと仰有(おつしや)る神(かみ)さまの御(お)言(ことば)が違(ちが)うてたまりますか』
132などと頑張(ぐわんば)つて、133一言(ひとこと)も聞入(ききい)れぬのみか、134益々(ますます)四(よ)ツ足(あし)扱(あつか)ひを始(はじ)めて始末(しまつ)に了(を)へぬので、135澄子(すみこ)と相談(さうだん)の上(うへ)、136何事(なにごと)も沈黙(ちんもく)を守(まも)り、137一時(いつとき)の間(ま)も時間(じかん)を惜(をし)んで、138教典(けうてん)を書(か)き現(あら)はすことに全力(ぜんりよく)を尽(つく)して居(ゐ)た。
139 そうした所(ところ)が西田(にしだ)が一(いつ)ぺん北桑田(きたくはだ)へ来(き)てくれと秘(ひそ)かに頼(たの)みに来(き)たので、140何(なん)とかして又(また)もや綾部(あやべ)を脱(ぬ)け出(だ)さうと考(かんが)へて居(ゐ)た。141幸(さいはひ)に八木(やぎ)の祭典(さいてん)に出張(しゆつちやう)する事(こと)となり、142前(まへ)に述(の)べた如(ごと)く八木(やぎ)を夜(よ)ぬけして、143園部(そのべ)へ走(はし)り、144それから人尾峠(ひとのをたうげ)を乗越(のりこ)へて、145宇気(うけ)といふ山里(やまざと)へ日(ひ)の暮(くれ)頃(ごろ)に落(おち)つき、146安井(やすゐ)清兵衛(せいべゑ)といふリウマチスで身体(からだ)の自由(じいう)を失(うしな)ひ苦(くる)しんでゐる老爺(ぢい)サンの鎮魂(ちんこん)をなし、147其(その)夜(よ)はそこで一泊(いつぱく)する事(こと)となつた。148西田(にしだ)が鎮魂(ちんこん)をすると、149爺(ぢ)イサンは其(その)場(ば)で足(あし)が立(た)ち、150座敷中(ざしきぢう)を歩(ある)いて見(み)て、151大変(たいへん)に喜(よろこ)び、152それから熱心(ねつしん)な信者(しんじや)となつたが元来(ぐわんらい)が村中(むらぢう)でも受(う)けの悪(わる)い親類(しんるゐ)の財産(ざいさん)を併合(へいがふ)して、153財産家(ざいさんか)になつたやうな爺(おやぢ)だから、154金銭(きんせん)の執着心(しふちやくしん)が甚(ひど)うてモ一(ひと)つといふ改心(かいしん)が出来(でき)ぬので、155僅(わづか)に室内(しつない)を歩(ある)くよにはして貰(もら)うたが、156まだ外(そと)へ出(で)て働(はたら)くまでにはならなんだ。157そこで爺(ぢ)イサンが西田(にしだ)に対(たい)して言(い)ふには、
158安井(やすゐ)『どうぞ私(わたし)が山(やま)へ行(ゆ)けるよにして下(くだ)さつたら、159内(うち)の林(はやし)の杉(すぎ)や檜(ひのき)の屑(くづ)をさがして切(き)つて、160それで神(かみ)さまのお祭(まつ)り場所(ばしよ)を建(た)て、161教会(けうくわい)を開(ひら)き、162私(わたし)が隠居(いんきよ)の代(かは)りにお守(もり)をさして貰(もら)ふ』
163と虫(むし)のよい事(こと)を言(い)ひ出(だ)した。164そこで元教(げんけう)が大変(たいへん)に腹(はら)を立(た)て、
165西田(にしだ)『神(かみ)さまの御(お)祭(まつ)り場所(ばしよ)を建(た)てるのに、166屑(くづ)をよつて建(た)てるといふ様(やう)な事(こと)を云(い)ふ爺(ぢ)イは嫌(いや)だ。167一番(いちばん)よい木(き)を上(あ)げるのが信神(しんじん)の道(みち)ぢやないか、168そんな事(こと)言(い)うとると、169又(また)元(もと)の通(とほ)りいざりになつて、170折角(せつかく)拵(こしら)へた財産(ざいさん)迄(まで)なくなつて了(しま)うぞ』
171と云(い)つたきり、172サツサと安井(やすゐ)の内(うち)を飛出(とびだ)し、173それきり変屈人(へんくつじん)の西田(にしだ)は寄(よ)りつかぬやうになつて了(しま)うた。174果(はた)して此(この)爺(おやぢ)は元(もと)の通(とほ)りの難病(なんびやう)になり、175欲(よく)にためた財産(ざいさん)も息子(むすこ)の縫之助(ぬひのすけ)が人(ひと)にだまされて、176一獲(いつくわく)千金(せんきん)のボロ儲(まう)けをせうとして大失敗(だいしつぱい)をなし、177財産(ざいさん)の九分(くぶ)通(どほり)まで、178三(さん)年(ねん)ほどの間(あひだ)になくして了(しま)うた。
179 さて会長(くわいちやう)は西田(にしだ)と共(とも)に其(その)時分(じぶん)これもリウマチで平太(へた)つて居(ゐ)た小西(こにし)松元(しようげん)といふ男(をとこ)の内(うち)へ訪問(はうもん)して、180暫(しばら)く其(その)家(いへ)を根拠(こんきよ)として布教(ふけう)に従事(じうじ)してゐた。181此(この)小西(こにし)は園部(そのべ)の支部(しぶ)へ駕籠(かご)に乗(の)つて出(で)て来(き)て、182西田(にしだ)の鎮魂(ちんこん)で即座(そくざ)に足(あし)が立(た)ち、183大変(たいへん)に喜(よろこ)んで、184材木(ざいもく)などを献納(けんなふ)し、185支部(しぶ)の拡張(くわくちやう)までやつた位(くらゐ)な熱心家(ねつしんか)であつた。186此(この)小西(こにし)は川漁(かはれふ)が大変(たいへん)上手(じやうづ)で寒中(かんちう)でも一寸(ちよつと)出(で)て来(く)ると、187三升(さんじよう)や五升(ごしよう)の川魚(かはうを)をとつて来(く)る河童(かつぱ)と仇名(あだな)をつけられて居(ゐ)る酒飲(さけの)み爺(おやぢ)である。188毎日(まいにち)三升(さんじよう)位(ぐらゐ)は平気(へいき)で平(たひら)げて、189朝(あさ)から晩(ばん)まで女(をんな)を相手(あひて)に酒(さけ)を呑(の)んで居(を)つた。190西田(にしだ)が小西(こにし)の病気(びやうき)を直(なほ)した時(とき)今後(こんご)は決(けつ)して魚(うを)をとつてはいかぬ、191そして酒(さけ)を二三(にさん)年(ねん)呑(の)まぬやうにせぬと今度(こんど)はリウマチ所(どころ)か中風(ちうぶう)になつて了(しま)ふと注意(ちうい)しておいたのも聞(き)かずに、192寒(かん)の内(うち)に網(つな)を持(も)つて宇津(うつ)の川原(かはら)へ籠(こご)り魚(うを)を掬(すく)ひに行(い)つて、193柳(やなぎ)のヌツと川(かは)へ出(で)た、194幹(みき)からふみ外(はづ)し、195川(かは)へドンブとおち込(こ)み、196再(ふたた)び大熱(だいねつ)を発(はつ)し、197元(もと)の通(とほ)りにリウマチになり、198昼夜(ちうや)間断(かんだん)なくウンウン唸(うな)つて苦(くるし)んでゐた。199そこで西田(にしだ)が再(ふたた)び鎮魂(ちんこん)をして余程(よほど)よくなつたが併(しか)し、200足(あし)の痛(いた)みが止(と)まつた丈(だけ)で、201行歩(かうほ)の自由(じいう)が叶(かな)はぬ。202そこで喜楽(きらく)を綾部(あやべ)から引出(ひきだ)し、203小西(こにし)の鎮魂(ちんこん)をして貰(もら)ひ、204病気(びやうき)を本復(ほんぷく)させて、205神(かみ)さまの御用(ごよう)に使(つか)はうとしたのであつた。206喜楽(きらく)は西田(にしだ)と二人(ふたり)で小西(こにし)の内(うち)へ尋(たづ)ねてゆくと、207小西(こにし)は宮村(みやむら)の内田(うちだ)官吉(くわんきち)といふ弟(おとうと)の家(いへ)に世話(せわ)になり、208薬(くすり)風呂(ぶろ)をわかして養生(やうじやう)をし乍(なが)ら、209神(かみ)さまを念(ねん)じてゐた。210そこで会長(くわいちやう)が始(はじ)めて小西(こにし)に面会(めんくわい)し、211二日(ふつか)計(ばか)り逗留(とうりう)の間(あひだ)に二三回(にさんくわい)鎮魂(ちんこん)をしてやつた所(ところ)、212漸(やうや)く全快(ぜんくわい)し六(ろく)里(り)計(ばか)りの道(みち)を徒歩(とほ)で宇津(うつ)へ帰(かへ)り、213一生(いつしやう)懸命(けんめい)に神(かみ)さまを念(ねん)じてゐた。214沢山(たくさん)の信者(しんじや)が諸方(しよはう)から集(あつ)まつて来(き)て毎日(まいにち)日日(ひにち)二三十(にさんじふ)円(ゑん)計(ばか)りのお賽銭(さいせん)の収入(しうにふ)があるので、215小西(こにし)がよい気(き)になり、216ソロソロ信者(しんじや)の女(をんな)に手(て)をかけたり、217朝(あさ)から晩(ばん)まで酒(さけ)を呑(の)み始(はじ)めた。218其(その)時(とき)喜楽(きらく)は京都(きやうと)へ行(い)つて皇典(くわうてん)講究所(かうきうしよ)へ通(かよ)うてゐるので、219西田(にしだ)に任(まか)して宇津(うつ)の小西(こにし)の広間(ひろま)の方(はう)は構(かま)う事(こと)が出来(でき)なんだ。220さうすると小西(こにし)がソロソロ慢心(まんしん)をし出(だ)して、221西田(にしだ)のいふ事(こと)を聞(き)かなくなつて来(き)た。222一人(ひとり)息子(むすこ)の増吉(ますきち)といふのが二十(にじふ)聯隊(れんたい)へ入営(にふえい)し、223日露(にちろ)戦争(せんそう)に出征(しゆつせい)してゐた。224そして朝(あさ)から晩(ばん)まで自分(じぶん)の息子(むすこ)の無事(ぶじ)に帰(かへ)る事(こと)計(ばか)りを祈(いの)り乍(なが)ら、225沢山(たくさん)の信者(しんじや)の鎮魂(ちんこん)をやり、226日(ひ)に日(ひ)に信者(しんじや)はふえて来(く)る許(ばか)りであつた。227さうした所(ところ)が俄(にはか)に電報(でんぱう)の間違(まちがひ)で増吉(ますきち)が戦死(せんし)したといふ知(し)らせが、228北桑田(きたくはだ)の郡役所(ぐんやくしよ)から届(とど)いたので、229松元(しようげん)とお末(すゑ)といふ夫婦(ふうふ)が西田(にしだ)を前後(ぜんご)より差挟(さしはさ)んで、230ソロソロ不足(ふそく)を言(い)ひだした。231其(その)お末(すゑ)婆(ば)アサンの言(ことば)はザツと左(さ)の通(とほ)りである。
232末(すゑ)『コレ元(もと)はん余(あま)りぢやないか、233内(うち)の増吉(ますきち)は信心(しんじん)さへして居(を)れば滅多(めつた)に戦死(せんし)する気遣(きづか)ひはない、234金鵄(きんし)勲章(くんしやう)を持(も)つて帰(かへ)らしてやるというたぢやないか、235ソレに此(この)電報(でんぱう)は何(なん)のこつちや、236奴(ど)狸(たぬき)奴(め)が人(ひと)をダマしやがつてサア早(はや)う出(で)てゆけ、237内(うち)の爺(おやぢ)も爺(おやぢ)ぢや、238華(け)を第一(だいいち)といふ法華経(ほけきやう)の信者(しんじや)が、239綾部(あやべ)の狸(たぬき)にだまされて、240仕様(しやう)のない神(かみ)をまつるもんだから、241こんな目(め)に会(あ)うたのだ。242早(はや)う神(かみ)さまを叩(たた)きつぶして川(かは)へ流(なが)しなされ、243コラ元公(もとこう)早(はや)ういなんか』
244と雪(ゆき)が二(に)尺(しやく)ほど積(つも)つてゐるのに無惨(むざん)にも外(そと)へつき出(だ)した。245西田(にしだ)は日(ひ)の暮(くれ)前(まへ)に二(に)尺(しやく)程(ほど)も積(つも)つてゐる雪(ゆき)の中(なか)へ放(はう)り出(だ)され、246漸(やうや)くにして半(はん)里(り)許(ばか)りの山路(やまみち)を登(のぼ)り、247人尾峠(ひとのをたうげ)の頂(いただ)きまで登(のぼ)りつめると、248風(かぜ)の吹(ふ)きよせで雪(ゆき)が五六(ごろく)尺(しやく)もつもり、249身動(みうご)きも出来(でき)ぬやうになり、250其(その)夜(よ)を泣(な)きもつて明(あ)かした事(こと)もあつた。251然(しか)るに小西(こにし)増吉(ますきち)は幾回(いくくわい)となく危険(きけん)な場合(ばあひ)を神(かみ)さまに助(たす)けられ、252同(おな)じ村(むら)から六(ろく)人(にん)召集(せうしふ)されて出征(しゆつせい)してゐた者(もの)が、253五(ご)人(にん)まで負傷(ふしやう)したり戦死(せんし)したりしてゐるにも拘(かか)はらず、254増吉(ますきち)丈(だけ)は怪我(けが)一(ひと)つせず、255二十(にじふ)聯隊(れんたい)の全滅(ぜんめつ)した時(とき)に僅(わづ)か二人(ふたり)残(のこ)つた其(その)一(いち)人(にん)であつた。256そして金鵄(きんし)勲章(くんしやう)を貰(もら)うて聯隊長(れんたいちやう)の従卒(じゆうそつ)となり楽(らく)に勤(つと)めて帰(かへ)つて来(き)たのである。257それから小西(こにし)がビツクリして西田(にしだ)に葉書(はがき)をよこしあやまつて来(き)て、
258『どうぞ一(いつ)ぺん遊(あそ)びに来(き)てくれ』
259というので西田(にしだ)も再(ふたた)び小西(こにし)の宅(たく)へ行(ゆ)き、260一所(いつしよ)に神(かみ)の道(みち)を開(ひら)いてゐたが、261又(また)もや衝突(しようとつ)してそこを飛出(とびだ)して了(しま)うた。262其(その)時(とき)は会長(くわいちやう)はすでに別格(べつかく)官幣社(くわんぺいしや)建勲(けんくん)神社(じんじや)の主典(すてん)をつとめてゐた。263そこへ小西(こにし)から手紙(てがみ)が来(き)て、
264『矢代(やしろ)といふ所(ところ)に大変(たいへん)キツイ曲津(まがつ)が居(ゐ)るから、265私(わたし)の手(て)にあはぬよつて、266先生(せんせい)に助太刀(すけだち)に来(き)て貰(もら)いたい』
267といふので、268公務(こうむ)を繰合(くりあ)はして宇津(うつ)へはるばる行(い)つて見(み)ると、
269『周山村(しうざんむら)の矢代(やしろ)といふ所(ところ)に吉田(よしだ)竜次郎(りうじらう)といふ人(ひと)がありますが、270其(その)奥(おく)サンが此(この)間(あひだ)から二度(にど)許(ばか)り参(まゐ)つて来(こ)られますが、271主人(しゆじん)が如何(どう)しても博奕(ばくち)をやめぬから、272やめるよに祈祷(きたう)がして貰(もら)ひたいといふのですが、273神(かみ)さまに伺(うかが)うてみると大変(たいへん)な曲津(まがつ)があこには巣(す)くうてゐるから、274お前(まへ)の力(ちから)ではどうせだめだから、275会長(くわいちやう)サンに御(お)願(ねが)ひをせいと云(い)はれましたから、276一寸(ちよつと)御(お)手紙(てがみ)を上(あ)げました』
277と云(い)うてゐる。278それから小西(こにし)の信者(しんじや)に案内(あんない)をして貰(もら)うて矢代(やしろ)へ行(い)つた。279丁度(ちやうど)明治(めいぢ)四十(しじふ)年(ねん)の夏(なつ)の始(はじ)めで田植(たうゑ)の最中(さいちう)であつた。280それから吉田(よしだ)の宅(たく)へ行(い)つて見(み)ると、281自分(じぶん)が行(ゆ)くのを知(し)つて、282曲津(まがつ)は早(はや)くも逃(に)げ出(だ)し、283何(なん)にも居(を)らぬやうになつて居(ゐ)た。284其(その)家(いへ)の主人(しゆじん)の竜次郎(りうじろう)氏(し)はどつかへ行(い)つて居(を)つて不在(ふざい)であつたが、285妻君(さいくん)のお鶴(つる)サンに面会(めんくわい)し小西(こにし)の言(い)うたやうな事(こと)を聞(き)かされ、286そして曲津(まがつ)が居(を)りますか……と尋(たづ)ねるので、287何(なに)も居(を)りませぬと答(こた)へると、288たよりない先生(せんせい)ぢやなアと言(い)ふやうな顔(かほ)をして、289お礼(れい)だというて金(きん)二(に)円(ゑん)包(つつ)んでくれた。290それから吉田家(よしだけ)と懇意(こんい)になり竜次郎(りうじろう)氏(し)は建勲(けんくん)神社(じんじや)へ二三回(にさんくわい)も尋(たづ)ねて来(き)て、291いろいろと神勅(しんちよく)を伺(うかが)うたりし乍(なが)ら、292妻君(さいくん)の熱心(ねつしん)で何時(いつ)とはなしに大本(おほもと)へ帰依(きえ)するやうになつたのである。
293(大正一一・一〇・一八 旧八・二八 松村真澄録)
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