古事記に天照大御神の御神勅を受けて天若日子が地上に降つて来たといふ事があります。今之が略解を致さうと思ひます。是は現代に最も適切なるものであります。
明治天皇が降し給へる教育勅語の中に、
『斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス』
と仰せられてあります。『斯ノ道』と云ふ事は古事記を指して居るのであります。
又五箇条の御誓文に、
『智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ』
と云ふ御詔勅がありますが、是は今日の如く海外から知識を求めて、物質文明を盛にせよ、と仰せになつたのではない。世界と云ふ事は世界経綸の古事記の御遺訓であります。今の雑誌に婦人世界、婦女界、或は実業の世界等と云つて、世界をつけて居りますが、此の世界と云ふ事は総ての経綸を教へる書物の代名詞となつて居ります。それで今日の人は知識を世界に求めると云ふ事を誤解して、海外の知識や物質文明を輸入すれば、皇基が振起すると思つて居るが、日本の国は特別な国でありまして皇基を振起するには皇祖皇宗の御遺訓によらなければならぬ。外国の教ではいかぬ。日本の天皇の御詔勅を守る、即ち天の親神様が御神勅を賜はつた其の教に拠らなければ、皇基を振起し奉る事は出来ませぬ。其の証拠には『之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス』と云ふ御言葉があります。若しも之を今の学者が解釈する様に、唯世界の知識を集めると云ふ様な事であつたならば、是は御詔勅の御精神に矛盾して居るのであります。世界の知識を求めて行くと云ふ事は、皇祖皇宗の御遺訓を奉戴して、世界を経綸し、その世界経綸は古事記に基くべしと云ふ御言葉であります。これは教育勅語の『古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス』と云ふ御詔勅に依つて証明せらるるのであります。
それから天照大御神は神代の神様と思はれて居りますが、決してさうではない。天照大御神様は無限絶対、無始無終にまします神様で、幾億万年前でも、幾億万年後でも生き通しの神様で、従つて現世にましまして居らるるのであります。其の天照大御神の御神勅が皇祖皇宗の御遺訓であつて、古今を通じて謬らないところのものであります。古今を通じて生きて居るのであります。古事記の上巻に
『天照大御神の命以ちて、豊葦原之千秋長五百秋之水穂国は、我が御子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命の所知国と、言因賜ひて、天降し賜ひき。於是、天忍穂耳命、天浮橋に多多して詔りたまはく、豊葦原之千秋長五百秋之水穂国は、甚く佐夜芸てありけりと、告りたまひて、更に還上らして、天照大御神に謂したまひき。爾、高御産巣日神、天照大御神の命以ちて、天安河の河原に八百万の神を、神集へに集へて、思金神に思はしめて、詔りたまはく、此の葦原中国は、我が御子の所知国と、言依賜へる国なり。故、此の国に、道速振荒振国神等の多なると以為すは是何の神を使はしてか、言趣けましとのりたまひき。爾に思金神、及、八百万の神等議りて、天菩比神、是れ遣はしてむと白しき。故、天菩比神を遣はしつれば、乃、大国主神に媚附きて、三年になるまで復奏さざりき』
とありまして、此の事は現在にも適当する御遺訓であります。此の豊葦原の千秋の長五百秋の水穂国と言ふのは地球上全体を指すのであり、葦原の中津国は日本国の事であります。
此の世界はいたく騒がしくなつて来た。総ての問題が行詰りになつて居ります。実に人民は塗炭の苦しみを受けて居る事になつたが、此国を先づ平けく安らけく治めるには、何れの神様を遣はしたならば平定するであらうかと、神廷会議を開かれたのであります。さうして思金神と云ふ智慧のある神様を御招きになつて御尋ねになつた。所が天菩比神を遣はすべしと云ふ事で、此の神を御遣はしになつた。菩比と云ふ事は言霊学で云ふと血染焼尽と云ふ事である。先般の彼の欧州大戦争、是は血染焼尽神の働きであります。此の天菩比神を遣はして言向けせむとなさつた所が、三年になつても未だ此の血染焼尽でも平定する事が出来なかつた。所謂五年に亘つた戦争が出来たのであります。さうして終に大国主神の娘の下照比売に媚りついてしまつた。大国主神は体主霊従であります。物質文明を以て国家政治の基礎として居る所の諸外国の政治であります。此の天菩比神は霊的文明に頼らず物質文明の方に媚りついて仕舞つて、三年になつても何うしても帰つて来ぬ。此結果が益々物質文明を鞏固ならしめたのであります。世間では愈々世界が立派になつたとか、或は平和条約が結ばれたと言ひますけれども、是は皆大国主神に媚りついた形であつて、世界大戦争が済めば、後は泰平の世になるかと思ふと、さうではない。益々軍備を拡張して居るのであります。是では到底世は治まる筈が無いのであります。此の世界戦争と言ふ事は、決して人間が拵へたのではない。其初まりは唯一発の拳銃を撃つたのが本で、斯の如き大戦争になつてしまつたのであつて、みな神様の御経綸御約束に外ならぬのであります。
扨其の次には天若日子を御降しになつた。
『是を以て、高御産巣日神、天照大御神、亦、諸の神等に問ひたまはく、葦原中国に遣はせる天菩比神、久しく復奏さず。亦、何の神を使はしてば吉けむ。爾に思金神答しけらく。天津国玉神の子、天若日子を、遣はしてむと白しき。故爾に、天之麻迦古弓、天之波波矢を、天若日子に賜ひて遣はしき。於是、天若日子其の国に降到きて、即ち大国主神の女、下照比売を娶とし、亦其の国を獲むと慮りて、八年に至るまで、復奏さざりき。故爾に、天照大御神、高御産巣日神、亦諸の神等に問ひたまはく、天若日子、久しく復奏さず。又曷の神を遣はしてか、天若日子が久しく留る所由を問はしめむと問ひたまひき。於是、諸の神等、及、思金神答白さく雉名鳴女を遣はしてむと白す時に詔りたまはく、汝行きて、天若日子に問はむ状は、汝を葦原中国に使はせる所以は、其の国の荒振神等を、言趣和せとなり、何、八年に至るまで復奏さざると、とへとのりたまひき。故爾に、名鳴女天より降到きて、天若日子が門なる、湯津楓の上に居て委曲に、天津神の詔命の如言りき』
天若日子と云ふ事は、之はすべて天地の大道を説き、治国安民の道を説く所の意義であります。若と言ふのは分けると言ふ事である。併し一方若と云ふ事は、充分充実して居らない、何処にか未だ初初しい所があると言ふ説もあります。今日は何うしても之では行けぬと言ふので、民族自決であるとか、自由平等であるとか、デモクラシーであるとか、労働問題とか、普通選挙とか、婦人参政権問題とか、斯う言ふ事が起つて来て居る。是等が成就したならば世の中は天下泰平に治まる様に皆思うて居りますが、之を実行したならば、世の中は益々騒ぎが甚しくなります。之が天若日子なのであります。労働問題とか何とか、総てのものは皆物質を基として居る。日本の国の皇祖皇宗の御遺訓と言ふ事は少しも念頭に置いて居らない。どの団体でも大国主神、下照比売に媚りついて居る。つまり女が覇張る事なのである。男女同権とか、或は婦人に参政権を与へるとか言ふことは、皆下照比売の捕虜となつて居るのである。此の下照比売と云ふ事は男女同権と言ふ様な事で、労働問題とか、普通選挙とか、婦人参政権等を与へて、婦人の向上発展をして、しまひには男女同権と言ふ様な事になつて来た。併し今日は或意味に於ては男女同権であります。男が女を叩いたなれば罪になる。女が男を叩いても矢張罪になるので、刑法上から言へば同権である。併し夫婦になると、他所に女を拵へるとか芸者遊びや何かしても妻から訴ふる事は出来ない。之に反して妻が姦通して居ると夫からは訴へられる。此の辺は同権ではない。夫に権利はあるが婦にはない。併し是は何うしても上と下、裏と表、左と右であるから、男女一体とならなければならぬ。夫婦同権では治まらぬ。日本の国は何うしても夫が先に立ち妻が従ふ。夫が左で妻が右である。伊邪那岐、伊邪那美命の国産みの時にも、女が言先だちしに因りて良はずと云ふ事があります。牝鳥がトキを告げる家には不幸がある。嬶天下では治まらぬ。若し此の下照比売が跋扈したならば、世の中は段々乱れて来ます。家庭の円満と云ふものを益益破る事になつて、延いては国家の安寧を害すると云ふ事になります。斯う云ふ事が天若日子の行り方である。
世界を平安無事に治めようとして、色々の手段方法を講じたけれども、天若日子は八年になるも帰つて来なかつた。そこで今度は天照大御神、高木神が御相談になつて、天若日子は何時迄経つても復命に帰つて来ない。それでしまひには、下照比売に媚りついたので、世は益々酷くなる。今度は何れの神を御やりになつたら宜からうと申した所が、思金神は答へて申すのに、雉名鳴女を御遣はしになつたら宜いでせうと申された。雉と云ふ事は神と云ふ事である。名は泣き悲しむ所の女と云ふ事で此の世に出て時めいて居る所の貴婦人を云ふのではない。田舎の婦人の事であります。つまり開祖様を指されたのでありませう。
さうして悔い改めよと云ふ事を仰せられた。世は末期に瀕して居つて、とても此の儘では日本も世界も維持して行く事が出来ない。早く悔い改めよと喧しく言はれたのであります。さうして此の雉名鳴女を遣はす時に、斯う仰せ付けられた。天若日子を葦原の中津国にやつたのは、其の国の荒ぶる国津神をば言向け和はして治めようとさせたのだ。何故天若日子は国津神と一緒になつて、大神の御命令を聞かないのか、何う云ふ訳であるか、一応伝へて来いと言はれたのであります。さうして名鳴女は天若日子の門に到つた。然るに天の佐具女と云ふ非常に悪い悪魔が此の声を聞いた。佐具女と云ふ事はサヤグメと言ふ事であります。佐具女は女の事であります。今日の世界の人は大方女になつて居ります。大方佐具女であります。男が髪にチックをつけたり、顔に白い粉を塗つたりして、さうして柔弱になつて女の真似計りして居る。皆天の佐具女になつて居ります。又今日銘々交際して居りながら、嘘ばかり言つて居るのである。巧言令色であつて、昔の様に武士の言葉に二言はないと言ふ事は行はれて居らない。言ふ事は度々言ふが、少しも行つて居らないのである。嘘は世の方便と言ふ位で商売の掛引にも、或は外交上の掛引、其他政事家、教育家、総てが物質を得むがために嘘計りを言つて居る。さうして人の奥を探り、欠点があつたならば、或は弱点があつたならば、突込んでやらう。斯う言ふ事計り考へて居る。斯う言ふ連中は天の佐具女と同様に、此の雉名鳴女の誠の天の言葉が非常に邪魔になつて、耳障りになつて仕様がない。
『爾に、天佐具売、此の鳥の言ふことを聞きて、天若日子に語げて言はく、此の鳥は、鳴声甚悪し故射殺したまひねと云進むれば、即ち天若日子、天神の賜へる天の波士弓、天の加久矢を持ちて其の雉を射殺しつ。爾に其の矢、雉の胸より通りて、逆に射上らへて、天安河の河原に坐します、天照大御神、高木神の御所に逮りき。是の高木神は、高御産巣日神の別名なり。故高木神、其の矢を取らして見すれば、其の矢の羽に血著きたりき。於是高木神、此の矢は、天若日子に所賜し矢ぞかしと告りたまひて、即ち諸の神等に示せて、詔りたまへらくは、或、天若日子、命を誤へず、悪ぶる神を射たりし矢の至つるならば、天若日子に中らざれ、或邪心しあらば、天若日子、此の矢に麻加礼と云りたまひて、其の矢を取らして、其の矢の穴より衝返下したまひしかば、天若日子が、胡床に寝たる、高胸坂に中りて死にき。亦其の雉還らず、故、今に諺に、雉の頓使といふ本是なり』
そこで天の佐具女は天若日子に向つて言ふのには、あの鳥は非常にいやな鳴声をする、聞き辛いから早くあれを射殺して下さいと嗾かした。天若日子は言霊の弓矢を以て、之を射殺したのであります。丁度開祖が御昇天になつた時であります。開祖が天の佐具女と天若日子の為に御昇天になつたと同じ事である。それは神界と現界との違ひであつて、つまり神界の事は現界に写つて来る。是は神界の消息が分からぬ方には牽強附会に聞えますけれども、充分に霊学上の奥に入りましたならば、其事はよく分つて来ます。さうして其の放つた所の矢は、天照大御神、高木神の御手許に飛んで行つた。見ると其の矢には血がついて居る。是に於て高木神は、此の矢は嘗て天若日子に遣つたものである。さうして此の矢をもろもろの神々に見せて仰せらるるには、若し天若日子が天照大御神の御命令を奉じて、善なる地位に居るならば宜しいが、若し之が間違つて物質主義の教に交つて、悪い国津神と一緒にやつて居るならば、是は天の命令に背いたものである。荒ぶる神共を射た所の矢ならばよし、若し之が天の命令を奉じて遣した所の雉名鳴女を射た所の矢であつたなれば、此の矢は天若日子を倒せと云つて、逆しまに天から地上に寝て居る天若日子に向けて放たれた。天若日子は胡坐寝をして、グウグウ高鼾、もう雉名鳴女を射殺して了つたから大丈夫だと云つて、胡坐になつて寝て居ると、此の矢が胸に中つて遂に国替をした。此の国替をしたと云ふ事は、今日労働問題とか、何とか色々の天若日子的の問題は、皆既に死したと同様であります。斯う云ふ事を指したのである。本年の三月頃までは賃金も段々騰つて来る、労働者の天下と云ふ様な工合になつた。さうすると労銀が少い、八時間制とか六時間制とか、勝手極る言ひ放題を云つて居つたが、今日は何うであるか、安くても就職口が無いと云ふ有様で、殆ど火の消えたやうな状態であります。労働党も余り気乗りがせぬ様になつた。グヅグヅして居ると飯の種が無くなる。安い給金でも使うて貰はなければならぬと云ふ様になつて参りました。是が所謂天若日子が矢に中つて死したのである。是は神様が寓して斯う御書きになつて居られるのであります。そこで天若日子は斯の如く斃れてしまつて今日は殆ど影も見せぬ様になつて居ります。是に於て下照比売は非常に泣き叫んで居る。既に外国では女子の参政権を許したと云ふ事になつて居る。日本では又婦人参政問題が起つて来て居ります。是は下照比売が泣き悲しむ声である。泣き騒いで居る所の声である。此の泣く声が神様の御傍に届いたのである。さうすると天若日子の父、天津国玉神が天降つて来て、之を聞いて泣き悲しんだ。
『故、天若日子が妻、下照比売の哭せる声、風の与響きて、天に到りき。於是、天なる天若日子が父、天津国玉神、及其の妻子ども聞きて、降り来て哭悲みて、乃ち其処に喪屋を作りて、河雁を岐佐理持とし、鷺を掃持とし、翠鳥を御食人とし、雀を碓女とし、雉を哭女とし、如此行ひ定めて日八日、夜八夜を遊びたりき。此の時、阿遅志貴高日子根神到して天若日子が喪を弔ひたまふ時に天より降到つる、天若日子が父、亦其の妻、皆哭きて、我が子は死なずて有りけり、我が君は死なずて坐しけりと云ひて、手足に取懸りて哭き悲しみき。其の過てる所以は、此の二柱の神の容姿、甚能く相似たり。故是を以て過てるなり。於是、阿遅志貴高日子根神、太く怒りて曰ひけらく、我は愛しき友なれ故弔来つれ。何とかも、吾を穢き死人に比ふると云ひて、御佩せる十掬剣を抜きて、其の喪屋を切伏せ、足以て蹶離ち遣りき。此は美濃国の藍見河の河上なる、喪山といふやまなり。其の持ちて切れる大刀の名は大量と謂ふ。亦の名は、神度剣とも謂ふ。
故、阿遅志貴高日子根神は、忿りて、飛去りたまふ時に、其の伊呂妹高比売命、其の御名を顕さむと思ひて、歌ひけらく。
阿米那流夜。淤登多那婆多能。宇那賀世流。多麻能美須麻流。美須麻流邇。阿那陀麻波夜。美多邇布多和多良須。阿遅志貴多迦比古泥能迦微曽也。
此の歌は、夷振なり』
さうして葬式をしようとしたのであります。決して鄭重な葬式ではない。雉を哭女とし雀を春女となし、殆ど人間扱ひをせられず小鳥の扱を受けたと言ふ事である。それから高姫神の兄の阿遅志貴高日子根神が御降りになつて来た。此阿遅志貴高日子根神と天若日子とは至極能く似てゐる。阿遅志貴と言ふ事は幽玄微妙にして測り知るべからざる所の働――権威がある。志貴と言ふ事は知食国と言ふ事である。此の阿遅志貴と言ふのは、天下を平けく安らけく治め給ふ所の御道の事であります。高日子根と言ふ事は、恐れ多くも大神の別名でありまして、詰り天津日継天皇が、世界を平けく安らけく治め給ふ道が、実に阿遅志貴高日子根と言ふ事になります。此の陛下は天照大神の御代身御名代として、万世一系に世界に御君臨遊ばして、万民を平けく安らけく治め遊ばされる所の御天職があるのであります。御承知の如く日本の国の陛下は吾々の御先祖である。情に於て親様であり、主人であり又師匠であります。即ち陛下に見習うて行けば宜いのである。それ故に日本の国は精神的の大家族制度になつて居るのであります。即ち神別皇別或は源平藤橘の姓は皇族から別れたのであります。さう云ふ風に正しく子孫に伝はつて居るのであつて、其本を尋ねると実は四海同胞であるのであります。皇道大本が精神的大家族制度を唱へると、新聞紙や社会主義者や其他官憲が之を共産主義と看做したり財産平均論と考へ違ひをして居るのであります。皇道大本で唱ふるところは、決して財産平均論ではない。本を索ねて行くと一つであるから、互に助けて行かなければならぬ。皆親子兄弟であるから君臣一致、或は四海同胞、皆其の志を等しうして行くと言ふ大家族制度であります。此の大家族制度を共産主義と見たり、或は財産平均論と看做すのは、皆物質に固まつて居るからである。即ち阿遅志貴高日子根神と天若日子とを間違へて居るのであります。天若日子の父や妻子等は、阿遅志貴高日子根神を見て、我子は『死なずて有りけり』と言つて喜んだ。所が阿遅志貴高日子根神は『何とかも吾を穢き死人と比ぶるか』と言つて立腹して、飛び去られたと云ふ事が出て居ります。
又私有財産云々と云ふ事に就ては、其の筋から注意がありましたが、之も世間の誤解からであります。決して私有財産を云々するのではない。現在は余りに彼我の程度に差異がある。一方には無茶苦茶に贅沢をして、妾宅を構へ、栄耀栄華を逞しうして居るのに、一方では一碗の飯も満足に得られない者さへある。祖先は一つで皆兄弟であるのに、斯の如くであつては、精神的大家族制度とは謂はれない。自分の衣食住にさへ差支へなければそれで宜いのである。私有財産を無茶苦茶に貯めると云ふよりも、公益の為に尽すが宜い、陛下の為に尽すが宜いと云ふ所から、私有財産を軽んずと云ふのであるが、それよりももつともつと尊い所の物は、霊的の宝を天に積めよと仰せられて居られるのであります。斯の如く全く阿遅志貴高日子根神を天若日子と取違へて居るのであります。天下を平けく安らけく治め給ふ御道を宣り伝ふ所が皇道大本なのであります。是れ阿遅志貴高日子根神の忠実なる働をして居るのであります。忿りと云ふ事は、憤怒と云ふ事であります。余り馬鹿にするない、実に暗黒の世の中とはいひながら余りである。鷺と鳥の区別が附かぬとは余りであると言つて、大に怒つて飛び去らむとする時に、其の妹神の高姫命が、其の本名を顕さむと思つて歌ひ給うた御神歌は、
天なるや、弟棚機の 纓がせる 玉の御統 御統瓊
穴玉はや 真谷 二亘らす 阿遅志貴
高日子根の神ぞや。
と証明されたのである。
天なるや――天にあるや。天にましました所のと云ふ意。
弟棚機の――弟は言霊の事。棚機は天地の経綸の事、太陽暦、太陰暦、恒天暦と云ふ事。此の宇宙に充満して大宇宙を組織せられて活動して居ると云ふ事で、みくらだな、たなばたと云ふ事であります。火水の経綸と云ふ事で、水は緯の経綸、火は経の経綸、即ち天地の経綸に依つて活動して居るのであります。今日宇宙を構成したのは、所謂機を織ると云ふ事で、太陽暦、太陰暦、恒天暦の経緯と云ふ事であります。
纓がせる――首に玉を纓けて居る事であります。
玉の御統――善悪互に交つて居る曲玉の事で、此の玉には青とか黄とか赤とか白とか云ふ色があるが、それを一つに通して連ねる事が玉の御統である。其の三種の神器の曲玉は、五百津御統の玉と云ふ事であります。世界各国の色々の玉――黄色とか、白とか、青とか、赤とか、或は長いのとか、短いのとか、大きいのとか、小さいのとかと云ふ曲玉を皆結んで居る。此の中を通つて居る所の紐、是が即ち万世一系と云ふ紐でありまして、世界の国魂を一つに集めてあるのでありますから、御統の玉と云ふのであります。
穴玉はや――明かなる玉、明玉の事。はやと云ふ事は光り輝くと云ふ事で、一つの玉があるとしたならば、あちらでも光り、此方でも光つて居ると云ふ玉である。それに反映して、外の玉までが皆光つて来るのであります。
真谷――清き水の流れる谷と云ふ事。
二亘らす――或る時期まで蓋をして居るから分らないのである。それでありますから、阿遅志貴高日子根神を天若日子と取違へるのであります。けれども既に阿遅志貴高日子根神は分つたのであります。然し是迄は未だ真谷二亘らして居るので分らなかつた。此の皇道大本の阿遅志貴高日子根神の活動を誤解して、之を天若日子と間違へて居る。現在何れが何うだか分らぬと云ふ時でありますから、一刻も早く此の阿遅志貴高日子根神の活動を、天下に示さなければならぬのであります、是は吾々も諸君も共に此の責任があるのであります。
(大正九・八・二四講演筆記 九・九・一号神霊界)