お祭の時に玉串を捧呈してゐながら何の意味やら十分知らずに居る人が往々あるやうだが、あれは神様に着物をお供へしてゐる型である。松や榊につけるのは直接に神様にお手渡しするのは御無礼だから、ああして小枝に結びつけて置くのである。それは丁度貴人に対しては扇子に物を載せて手渡したりするのと同じ意味である。松や榊の小枝に紙片を結び付けてお供へした所で何になるかと思ふ人があるかも知れぬが、すべて霊界は想念の世界であり、現界は型の世界であるから、吾々現界人が心の底から恭しく『お召物をお供へ致します』と云ふ気になつて、その型として玉串を捧呈しさへすれば、それが霊界ではチヤンと立派な衣服となつてゐるのである。これは一例であるが、何事でも吾々が其気になつて型をすれば、霊界では真物としてお受取り下さるのである。小さい木の箱をお祀りしても本気で拝みさへすれば、想念の拡大延長によつて霊界では立派な宮殿となつてゐるのである。
又いくら大きなお宮を建てた所でお祭りする人の心が間違つてゐたなら、要するに単なる木の片に過ぎないことになつてゐる。人間一切どんな行動でも内分に於て善美でなかつたなら、いくら外的に立派であつてもゼロである。又外的には粗暴な挙動でも、その内分に於て無邪気であるならば何等咎むべき点はないのである。この事が真に分つて来れば社会はも少し穏かな深みのあるものになるにきまつてゐる。但相応といふことは勿論あるのだから、内分だけの外分が現はれるのが当然である。
(大正十四年五月十日号 神の国誌)