蝉の雄は一体何の目的を以て喧ましく鳴くかといふに、それは雌を呼ぶ為である。ある学者は蝉は耳無しの聾だといつてゐる。併しその雌を捕へて見ると、雄の発音器のある個所に鼓膜からなる耳らしいものが明かに存在してゐる。体の或る部分と部分とをすり合して音を出す虫に、カミキリムシ、蟻、メンガタスズメ、シモフリスズメなどといふ蟻の類やタイコウチといふ水虫の類がある。かれ等は敵の攻撃を受けると、何れも胸と胸の節、或は腹の節と節をすり合してキーキー或はシユツシユツといふ様な音を立てる。キーキーの方は吾々が聞くと哀れみを乞ふかのやうに取れるが、真の意義はシユツシユツといふ音と共に矢張り敵を威すにあるらしい。又蟻では仲間の通信に用ひてゐる。体の一部をすり合せて音を出す虫で一番有名なのは秋に鳴く虫である。人々はかれ等は口で鳴くと思つてゐるかも知れぬが、実は翅と翅とをすり合せて、あの美音を出すのである。今その発音器を調べて見ると、二枚の翅の中で下になる方の翅の付根に近い表面の端に脈が膨らみ、ヤヤ隆まつた個所がある。又上になる翅の裏面の中央より少し元に近く翅を横切つて、太い脈がある。この脈の下面には細かい刻み目がついてゐて、丁度鑢の表面の様になつてゐる。秋に鳴く虫はこの下翅の脈の太まりと上翅の脈の鑢とをすり合せてあの妙なる音を文字通り奏で出すのである。その目的は雄が雌を招くにあると解釈されてゐるが、延いては生物中最高の官能を持つた人類の聴感を刺戟して、その美音に陶酔させる程の威力をさへ持つてゐる。虫の発する音、否奏でる楽の音は、無智の人には神秘の妖音ともきこえて不思議がられるが、詩情を持つた人が聴けば、それは自然の示す立派な芸術である。
(昭和三・九・九 東北日記四の巻)