〔問〕智慧証覚とは、どういふもので御座いますか。
〔答〕智慧は人が生れ乍らにして神様から与へられたもので、即ち先天的、内分的、神的である。それで学問がなくても智慧はある。学問があつても智慧の働きのないものもある。外分的、後天的の学問その他で出来たものは知識であつて智慧とは違ふ。仏教等でいふ善知識といふのは外分的の記憶的知識で、真の心の救ひとなるものではない。智慧の智とは日を知る(ヒジリ)、霊を知る、神を知るといふ事であつて、慧とは天と地との主の神に従ふ心である。
証覚とは覚りあかす、あかしを以て神を覚るといふ事である、日の昇り工合で大抵今は二時頃だといふのも覚りであるが、時計を見て何時何十分何十秒だっと覚る事が出来るやうに、あかしを以て宇宙の真理に徹する事が出来るのが証覚である。霊界物語でたとへたならば、之を出されるのは智慧からであつて、之のあらはれ即ち口述してつけとめられたものは証覚なのである。故に霊界物語は智慧証覚を得る唯一のものである。真善美愛は其証覚より顕はれ出づるものである。それで証覚は理解ともいへる。智慧は本体の様なもので、証覚は働きの様にもなる。仏の云ふ無上正覚とは正しく覚るの意にて、証覚とは違ふのである。
(大正十四年一月号 神の国誌)