六百年来隠れたる事実
外戦のたびごとに連想さるるは、かの弘安四年夏五月、十万の元兵いわゆる「蒙古来」を哀れ西海の藻屑と全滅した天晴れ鎌倉武士の面影、敷島の大和心の雄々しさである。
開闢以来外の侮りを受けた例のない我が国の光輝ある歴史に対して、元寇「蒙古来」は実に苦しい事情があった。文永五年から通じて十四年間、彼よりの圧迫、刺衝、来寇、襲撃、あらゆる惨劇は間断なく我が西辺に急を伝えしめた。何ぞ恐れん我に鎌倉男子ありと威張ってはおったものの、時宗当時わずか二十歳前後の弱冠であった。国家の財政は源平二氏の騒乱があって以来、泰時の仁政によってわずかに復興し来かけたものの、承久の騒動があってこのかた僅々六十年、経済萎靡の手はナカナカに治癒せざる場合、名にし負う西戎北狄南蛮を征服した余威をかって、海東の黄金国を手に入れねば、やまじとの意気込みで来襲する、元軍十万の大敵に対して、どうして防御するばかりか、進みてこれを撃とうか、進撃せねば上下二千歳の歴史に対して、何の面目あって鎌倉武士の勇を誇れよう。
かくするうちに蒙古の襲撃は間断なく我が西域に起こる。文永五年初度の使節があって以来、翌年には対馬人虜にせられたるを報じ、二度の使節があり、八年の九月には高麗蒙古の来寇の急は、西辺より伝えられ、十月三度の使節趙良弼の手強い談判があり、十一年十月には元兵大襲して対馬を侵し、翌年建治元年の四月には、蒙古の使い戸世忠が四度の使者となって我に勝手な要求をする。一度二度は切歯をしても堪えたものの、三度四度となっては開闢以来の歴史に対しても、各が持った大和魂に対しても承知はならず、建治元年四月、当時の執権北条時宗、ついに堪忍の緒を切って、怒髪天を衝く。元使戸世忠を鎌倉龍の口に引きずり出して、真っ二つに、天晴れ日本武士の本領を示すと同時に、彼蒙古高麗の心胆を寒からしめた。が、こうなっては、当時の国情に顧みて、高い枕に安眠は出来得べくもない。西辺に防備を命ずるはもちろん、天下に急を伝え、朝廷よりは国家の安危を気遣われて、大廟初め二十二社の奉幣はもちろん、地方官国の社々にも事欠かし給わず、率土の浜普天の下、この大難に勝つべく、祈らぬものとてはなかった。
開闢以来空前の大国難を見事に排して、天晴れ日本男子の名声を天下に響かしたのは、最も時宗の手腕と英断とに由るものが多かったであろうけれども、時宗をしてそれだけの英断をなさしめたのは国民に挙国一致の後援があったからである。初度の使いが牒状を贈って威嚇したのは、文永五年正月で、幕府がこれを朝廷に奏上したのは二月の七日、朝廷のご評議は二十二社の奉幣となり、山陵使の派遣となって、後には畏れ多くも亀山天皇は七日七夜伊勢大廟に、御身をもって国難に代わらんことを祈らせ給うに至り、上御一人ですら、なお、かくの如くに国事に宸襟を悩まし給うにおいては、当時の上下の国難に殉ずるの覚悟は、けだし想像に余りあり。二十二社のほか比叡山、東寺、石清水、南都の社寺でも祈祷読経を修めて、国運長久、敵国降伏、戦勝を祈った。十万の大軍を一再ならず神風のために、水の藻屑となし果てたのもまた故なきにあらずである。威風一代を風靡せしめた時宗ですら、三十三天に祈願すべく、大覚禅師蘭溪道隆に祈祷文を書かしたのであった。「専祈弟子時宗、永扶帝祚、久護宗乗、不施一箭、而四海安和、不露一鋒而群魔頓息」云々と、一句々々悉く心血を注いで、祈祷の精誠を凝らしたものでその他大部の仏教を血書して、神護を祈ったのであった。
かくの如く国民の態度は、初度の使節には返牒せずして帰したが、また候翌文永六年の暮には、再び彼の使節は牒状を齎して、我の返牒を求めた。朝廷ではこれに対して、平和的手段を採って返牒せんと、その文案を幕府に示されたのであったが、幕府はついにこれをも握り潰してしまって、一切返牒しなかった。当時熱狂した国民の与論の声は、すこぶる猛烈であった。朝廷の軟化を悲憤した者などが少なくなかった。ここにいう六百年間隠れてあった事実というものここにある。身は布衣一円頂でありながら、和親の返事であるとの風聞を聴いて悲哀骨髄に徹し、神仏に頼ってかかる不祥事を止め奉らしめんとし、文永六年の十二月二十七日より翌年三月の朔日まで、六十三ヶ日敵国降伏の祈祷をした。京都西賀茂正伝寺の住持慧安、字東巌、宏覚禅師の態度の如きは、正に挙国一致の実情を証する一有力なる証拠である。禅師の祈祷文というのは、明治三十七年に、東京大学の史料編纂者が初めて発見したもので、元は何か屏風の下張りかなにかであったという。同年の東京大学の卒業式に天覧に供し奉り、同年末に国宝に指定せられて、初めて世間に存在を知られたものであるが、これは決して、官庁や政府の命を受けて祈祷したものでなく、ただ私に、その誠意誠心から、国難を思っての叫びである。身は円頂黒衣の世捨人であって、なお国事のために六十三日間、寝食を廃しての祈願である。
祈願文は熱烈な文章で余り短くはない。その一句に曰く、
「大衆某申今在王地樹下石上。草衣木食滴水寸土。無非朝恩行道修善。皆帰国家。知恩報恩真実行業。此是如意摩尼宝珠。此是金剛吹毛利劔。乾坤之中何物不降。設満三千大千世界。三目八臀大那羅延。摧破不肖何况蒙古。例如師子敵対猫子矣」
と愛国の熱誠いかにも純潔で、蒙古をして猫子の獅子に対するが如しとして蔑みたるあたり、万丈の気焔である。次いで蒙古の国情の下賤無道を罵倒し、更に、
「先度牒状不及返帳。第二牒状応有返帳。拝以和親風聞満街。正伝聞之愁難無量。悲徹骨髄顧古助神。以大乗経神咒明咒。啓曰初願……切冀。明神人於貴賤五体之中。増運盆勢。可令折伏蒙古怨敵重乞神道。成雲成風。成雷成雨。摧破国敵。天下泰平。諸人快楽」
と文章壮烈、鬼神を感ぜしむるものがある。その発願の中にも、
「霊験神威。冥加国主。今上皇帝。師子大勢。虎狼威猛。蒙古怨敵。聞之恐怖。万国降伏。皆酔聖徳」
といい、その回向の中には、
「内證聖徳。聖道高運。外用大勢。師子虎狼。四海帰徳。万国怖威。降伏敵国。衆怨消滅」
日清日露の両戦役といい、或いは今次の日独の国交問題の如きも、またこれがために、国民が天下国家のために、祈願するほかならぬのである。しかしてその祈願文の末尾の折返しには、細字をもって、
末の世の末の末までわが国は よろづの国にすぐれたる国
この一文をもっても、なおよく当時の挙国一致、国難に当たったことが証明されるではないか。
当時我が挙国一致の大元気は、いたずらに蒙古の大軍、寄せなば寄せよというばかりでなく、こちらから進みて遠征を試みようというのであった。それから文永十一年十一月には、元の大軍高麗の艦隊を合わせて、大挙我が壱岐対馬を荒らし、肥筑の沿海までを襲うたので、更に逆襲の意気込みは猛烈となり、幕府においても国民の意気を壮して、建治元年の十一月には、北条実政を異族征伐の準備として鎮西に派遣し、太宰少弐経資に征伐の令を伝え、翌年三月ごろ出船すべき旨を命じ、十二月八日にはなお安芸守武田信時にも、これと同様の命を伝えている。
明けて建治二年の三月には更に鎮西奉行大友頼泰ら命を受けて、鎮西の将士にその所領の田数、領内の船舶艫数、船員の人名、年齢などを届け出でしめるなど、外征の準備は万端整ったのであった。その時における挙国一致の態度も、また実に国民の特性を発揮している。
文永十一年の来寇は結局我の勝利には帰したけれども、一種恐怖の印象を残した鎮西の人々を召集して、万里遠征をくわだてようというのである。幕府の措置の無謀を謗らねばならぬような、向こう意気ばかりが強かったようであったけれども、結果は実に幕府の措置の妄ならざるを示した。異国征伐の人員注進の告知を受けて、吾も吾もと願い出で、期日に先だって規定の届け出をした者が多かった。中にも肥後国の家人筋、井芹秀重入道西向が出した願書には、自身と孫二郎高秀との所領の田数を載せて、そのうち西向の分は二十六町六段三丈であるが、うち五町四段は闕所となって没収せられ、うち何町は誰の所有となり、うち何町は誰に押領されたが故に、残りは何十町幾段であるから届け出る。いかようとも御役に立てばお使い下され、決して差し支えや苦情は申しませぬと惜しげもなく提供して、さてその末に西向自身は八十五の頽齢で歩行にも堪え兼ねるから、嫡子越前房永(年六十五)同子息弥五郎経秀(年三十八)親類また二郎秀南(年十九)孫二郎高秀(年満四十)の四人に武具を持たせ、乗馬所従を従えて「右任御下知状可致忠勤也」と誓った注進言上をしている。その雄々し、猛武しさ、わずかに家人の身で、全財産はおろか一味郎党のすべてを、国のためなり君のためならば差し出しても、さらさら厭わぬという決心は、世を捨てた比丘尼でも、国家の大事と聞いては、切歯扼腕禁ずる能わざりしと見えて、女の身の悲しさ、親しく出征を果たさぬために、力と頼む子息の三郎光重、聟の久保二郎公保の二人を差し出して、以夜継日企参上候へば令申上候以此旨且可有御披露候、と認めた一書を早速に差し出した尼の真阿というさえある。
武士道は日本男子のみの専有物ではない。「お前一人が男じゃと多くの人に誉められて」と女性の意地を立てて、女性の武士道のために気を吐いたのは、ただに花雲佐倉曙の「おさん」ばかりではない。遠い昔にもかかる女丈夫はあった。かくの如く挙国一致、一般士気の強盛が頂点に達し、国民の義憤、一挙元を全滅せなかれば措かぬ勢いであったが、敵状を偵察すれば、彼にも再挙の大計画があり、高麗がこれを助けんとしておることを知悉するに至って、その攻勢を変じて、専ら守備の厳重なる態度を執るに至った。
この挙国一致と士気の優勢も、上下の信仰などが、ついに弘安四年夏五月、残るはただ三人の大勝を博した所以だった。下って豊公の征韓といい、日清日露の外戦といい、挙国一致の態度は常に我が国民性となった。即ち東洋平和のためには常にこの態度を失わぬことと信じている。
(大正三・九・一五号 敷島新報)