人類一般の希望は世界の平和と幸福を企図するより外に何もない。そしてその平和と幸福を永遠に持続し、天人共に和楽の世界をつくらむとすれば、どうしても社会主義、道学者、既成宗教家等の唱ふる如く、武備を撤廃して真の平和と幸福を得る事は未だ出来ない情勢である。
造物主の意志は必ずしも武力を備へて平和を維持せよといふ考へではないが、ともかく人間といふものは神より余り完全に造られ、余りに自由を与へられてゐるが為に、それに増長して天地の御恩を忘れ、利己主義に走り、自己の発展のみを考へて他を顧みない獣性をもつてゐる。故に我皇祖は三種の神器を天下統治の大権として皇孫にお授けになつたのも主とするものは剣であつた。玉は平和を象徴し、鏡は開発を象徴し、武器は大きくいへば国防、小さくいへば護身を意味してゐる。世界の各国が人文の発達につれて生存競争が烈しくなり、その個人の生存競争は拡大して一郷の競争となり、一国の競争となつて来たのである。
神国が完全に樹立される迄は国を守る上に於て、最も武器が必要である。武器を完全に備へることは国防の第一義であり、細矛千足の国の名に叶ふ所以である。日本人の大和魂といふのも、仁もあり、義もあり、礼もあり、智もあり、信もあるが、その中で最も勇なるものが主となつてゐる。勇は武勇の勇であり、文字に書いても『マ男』(真男)と書き、男子は勇を以て立つべきである。
特に我日本は神代に於ては渤海湾からゴビの沙漠より新彊まで海が続き、日本海が殆ど瀬戸内海の如きもので、小舟で交通が出来たのである。それがために日本が全アジアを支配してゐたのであり、又蒙古の大中心にまで大きな海が入りこんでをつたので気候が暖和であり、今日の如く寒冷荒涼の地ではなかつた。その時分には非常に此のアジア方面を扼して了つてゐたから、他の国からアジア(アジアとは葦原の国のことで、日本を意味す)をどうすることも出来なかつたが、現在では日本海の島々が沈没して、僅に壱岐、対馬、佐渡の核心だけが残り、津軽海峡を距てて四方環海の国なつて了つたのである。それがために交通が出来なくなり、年処を経るに従つてアジアの統一が出来なくなり、言語風俗等も変つて了つて、蒙古や支那のことは分らなくなつて了つたのである。
今日の日本としてはどうしても陸海軍の拡張、新式の武器、飛行機、潜水艦等の必要を感じて来た。これらの武器の完備した国が世界に独立して憚らず、圧倒されず、平和と幸福を確保することが出来るのである。
軍縮会議といふやうなものが出来て、互に他を犯さないやうな相談が出来てゐるが、その裏面には各国が孜々営々として武備の拡張を競つてゐるのであるから、日本のみが馬鹿正直に空文の約束を守る必要はないだらうと思ふ。兎も角、日本は国民皆兵の国であり、皇室を御本家として、吾々は畏くも家族と見做されてゐる国であるから、軍人でなくとも老若男女に拘らず、この国防の完成に努力するのが当然である。国防といふことは、大にしては国家の平和と幸福、小にしては個人の平和と幸福、これを拡大すれば世界の平和幸福をもたらすことになるのである。この日本にも国防が欠けてゐたら瞬く間にどんな運命になるか分らない。日本の国に武備があり、陛下の御稜威によつて大和魂を発揮する時は、アジアの幸福ばかりでなく、世界全体の平和と幸福を来す事になるのである。この場合どれ程苦しくても貧乏しても、我国民は一切を国防に傾けて、祖先の墳墓の国たる我皇国のために最後まで力をそそがねばならぬ時機が到来してゐるのである。その後で初めて神示の天の岩戸開きが出来、みろくの世即ち金輪聖王の聖代が招来されるのである。
又国防の充実せざる国家は豺狼の如き国家から侮蔑され、或は占領され、遂には国民の生存権まで奪はれるやうなことになる。さうなれば勇壮活発なりし吾々の祖先に対し、子孫たるものの申訳ないことになり、忠孝の道が欠けて了ふのである。我国は忠と孝とを以て国の教とし、安寧秩序を保ち、温厚敦樸なる風俗を続けて来たのであつて、この忠孝を全からしめるためには、国家を守るべき国防運動に全力をそそぐのが、国民たるものの一大義務と感ずるものがある。
(昭和八年三月号 昭和誌)