百姓になつてから、藤原姓を名告つて居ると、万一誤つて藤蔓でも切らうものなら家が断絶するとの巫祝の妖言を妄信して上田と改姓した。上田と名告つた理由は、其の時の藤原家には五町歩の二毛作の上田を所有して居つたので、取敢へず姓を上田に変更したといふ事を、祖母や古老の口から聞いた事がある。然るに五年か十年位に一度は大旱魃が巡つて来て、稲穀の稔らないといふ困難を免るる為に、屋敷の西南隅に灌漑用の池を掘つた。これは上田久兵衛の代に掘つたので、里人は久兵衛池と称へて居つたのである。この久兵衛池に就いて王仁の一身上に関する経緯があるが、それは後節に述べる事にする。
穴太には上田姓が三組あつて、之を北上田、南上田、平上田と称して居る。王仁は北上田の家の出である。詳細なる系譜があつたのを曾祖父の代に極道息子があつて、他家へ質に入れ、転々して吉川村の晒し屋といふ家に伝はつたのを、王仁が種々として手に入れる事になつたが、不幸にも亦、前に述べた明治三十三年の火災で失くして了つたのは、返す返すも遺憾至極である。
系図の示す所に由れば、文明年間には西山の山麓、高屋と云ふ所に大きな高い殿閣を建てて其処に百余年間高屋長者と呼ばれて住居して居たと云ふことである。其の後、愛宕山の麓の小丘に城廓を構へ、大名の列に加はつて居つた所が、明智光秀の為に没収の厄に逢うたのである。其所は産土の小幡神社の境内に接続して居つて、殿山と曰ふ地名に成つて居るが、今に城址が歴然として地形に遺つて居るのである。