第一〇章 山中の怪〔六七二〕
インフォメーション
著者:出口王仁三郎
巻:霊界物語 第20巻 如意宝珠 未の巻
篇:第3篇 三国ケ嶽
よみ(新仮名遣い):みくにがだけ
章:第10章 山中の怪
よみ(新仮名遣い):さんちゅうのかい
通し章番号:672
口述日:1922(大正11)年05月14日(旧04月18日)
口述場所:
筆録者:外山豊二
校正日:
校正場所:
初版発行日:1923(大正12)年3月15日
概要:
舞台:
あらすじ[?]このあらすじは東京の望月さん作成です(一部加筆訂正してあります)。一覧表が「王仁DB」にあります。[×閉じる]:田吾作は、おかしな宣伝歌を出任せに歌いながら山道を登っていく。すると上から赤子に乳を含ませながら下ってくる妙齢の女があった。田吾作は山女に話しかけるが、女はただ笑っている。
三人は女についていろいろと議論していると、女は毛むくじゃらの獣の下半身を表して、山の上の方に歩み出した。少し行っては後ろを振り向き、三人を見ている。三人は、悪魔が正体を表したことを知り、敵地に警戒を強めた。
やがて日が没し、闇が辺りを包むと、猛獣の声や怪しい物音が間断なく聞こえてきた。原彦は肝をつぶしてしまう。田吾作は原彦の気弱をなじり、昔、原彦が自分の玉を盗もうとしたときの話をして気を保たせようとする。
耳の痛い話を持ち出されて、原彦は宗彦に話しかけるが、宗彦は眠ってしまっている。田吾作はさらに、当時の話を面白い節回しで歌いだした。すると、自分は鬼婆だという声が聞こえてきた。田吾作は、留公の作り声だとすぐにわかって、声に対して怒鳴り返す。
原彦はおびえているが、鬼婆の振りをした留公はどこかへ行ってしまった。宗彦も起きて、留公に似た声だったと言うと、宗彦・田吾作は寝込んでしまった。原彦は二人の間で一睡もできずに震えていた。
主な登場人物[?]【セ】はセリフが有る人物、【場】はセリフは無いがその場に居る人物、【名】は名前だけ出て来る人物です。[×閉じる]:
備考:
タグ:
データ凡例:
データ最終更新日:2021-04-27 23:25:06
OBC :rm2010
愛善世界社版:218頁
八幡書店版:第4輯 230頁
修補版:
校定版:226頁
普及版:99頁
初版:
ページ備考:
001田吾作『朝日は光る月は照る 002武志の森の小夜砧
003宇都山郷を立出でて 004三五教の宣伝使
006後に随ひ来て見れば
009不動の滝も雲隠れ 010一歩二歩探り寄り
011水音合図に留公が 012留るも聞かず真裸体
013蛙の面に水行を
015手早く衣類を肩にかけ 016霧押わけて山頂に
017上つて四方を眺むれば 018丹波名物霧の海
020山の頂き浮き出でて
021宛然絵を見る如くなる 022景色に名残りを惜みつつ
023歩みの下手な留公を
025明石の里も乗り越えて 026道の傍の一つ家に
027病に悩む原彦が
029此処にいよいよ四人連れ 030宗彦司の後を追ひ
031山国川の一つ橋 032渡る折しも川下に
034唯事ならじと田吾作が
035脚を速めて川の辺に 036駆せつけ見ればこは如何に
037雪を欺く白い顔 038優しき細き手を上げて
039流れの中に立岩の 040蔭に潜みて声限り
041救けを叫ぶ真最中 042見るに見かねて田吾作が
043仁慈の心を発揮して 044わが身を忘れ飛び込めば
045川に落ちたる妙齢の 046美人と見えしは大江山
047鬼の身魂の再来か 048青い角をば額上に
049ニユツと生して目を剥いて
052波に揉まれた田吾作も
053進退茲に谷まりて
056何だか知らぬが妙な声
058裸体になつた俺の身は
059巌の上に衝つ立ちぬ 060人三化七鬼娘
061悪魔の奴が睨み居る 062コリヤ堪らぬと気を焦ち
068留公、原彦両人は
071斯んな卑怯な腰抜けを
073モー此上は是非もない 074地獄の釜のド天井
075一足飛びに飛ぶ心地
078心中しようか待て暫し
079たつた一つの此生命
081日頃手練の游泳術 082悠々騒がず急流を
083渡つて岸に駆け上り 084後振り返り眺むれば
086見るも怖ろし大蛇の姿
088俺は夢でも見て居たか
091微に苦痛を訴へる 092水は何うだと手に掬ひ
093嘗めて見たれば矢張り水 094瑞の身魂の御守護は
095清く涼しく此通り 096俺は結構な修業した
097筑紫の日向の立花の 098小戸の青木ケ原に降り
099上の流れは瀬が速い 100下の流れは瀬が弱い
101瑞の身魂や三栗の 102中瀬に下りて心地好く
103禊ぎ祓ひの神業を 104首尾克く了へて三人が
105茫然自失の為体 106アフンとして居る其前に
108原彦何をして居るか
110癪に障つて横面を
114風に木の葉の散るやうに
116毬を中空に投げし如
117二人の奴は飛び散つた 118それより宗彦宣伝使
120肝を潰して今迄の
121態度は忽ち一変し 122心の底から我を折つて
124言霊変へた可笑しさよ
125丸木の橋を後にして 126旗鼓堂々と来て見れば
127錦の衣を纏ひたる
129化粧を凝らして田吾作を 130ちよつと待つてと呼び止める
131三国ケ嶽の曲神を 132征伐道中の此身体
134花瀬の里を後にして
135谷を飛び越え岩伝ひ
138留公の態度は一変し
139徐々弱音を吹きかける
142奇抜な芝居を打つであろ
144留公の奴は喜んで
146今来し道を下り行く
147後に残つた三人は 148激湍飛沫轟々と
149音喧しき谷川の
151川を隔てて四五人の 152得体の知れぬ老若が
153熊の皮やら猪の皮
155木々の梢に干し乍ら 156残つた熊の生皮を
158物をも言はず洗ひ居る
159一行の中の周章者 160腹の腐つた原彦が
162生命を的の谷渡り
163見るより五人の老若は
165物をも言はず手真似して 166雲を霞と遁げて行く
167続いて宗彦宣伝使 168又もや谷を打渡り
169欲に限り無き熊鷹の 170面の皮剥ぎヌースー式
172矛も交へぬ戦利品
174不言実行と洒落乍ら
175田吾作さんが捕獲した
178迷うた路を踏み直し
180胸つき坂を這ひ上る
181忽ち茲に三人の 182童子の姿現はれて
183泣き出す笑ふ又怒る 184七尺有余の荒男
185三尺足らずの幼児に 186叱り飛ばされ散々に
188謝り入つた不甲斐なさ
189童子の姿は忽ちに 190煙と消えた其後に
191耳の鼓膜を破りつつ 192伝はり来る怪声に
193三国ケ嶽の大秘密
196後に残して田吾作が
197小柴押わけ怪声を 198辿り辿りて千仭の
199谷の傍に来て見れば 200木伝ふ猿の叫び声
201案に相違の自棄腹
204面白可笑しく上り行く
205軈ては名高き鬼婆の 206岩窟の棲処も見えるだろ
207神の賜ひし言霊の 208伊吹の狭霧を極端に
209神力強い田吾作が
211高天原の蓮華台 212錦の宮の御前に
213功を建つるは目の当り
215これから乃公が司令官
217互に胸を打ち開けて 218腹を合して田吾作が
219指揮命令を遵奉し 220蜈蚣の姫の成れの果て
221人を取り喰ふ鬼婆や
223一泡吹かせ三五の
225今目の当り見る様だ
228善と悪とを立別ける
230神と鬼とを立別けて
231此世を造りし皇神の 232貴の御前に復命
237神は汝と倶に在り 238神は我身に宿ります
241と呂律も廻らぬ口から出任せの歌を謡ひ、242田吾作は勢鋭く、243山上目蒐けて進み行く。244幼なき赤児に乳をふくませ乍ら下り来る妙齢の美人唯一人、245稍面部に憂愁の色を浮べ乍ら、246灌木の茂みより浮いたやうに現はれた。
247田吾作『ヤア山姫の奴、248俺の円満清朗なる言霊に感動し居つて、249感謝の意を表するために現はれたのだな。250コレハコレハ山上の御婦人、251山の神様、252出迎ひ大儀でござる』
254田吾作『コリヤ山女、255俺を誰だと心得て居る。256七尺の男子が物申して居るのに、257無礼千万にも吾々を冷笑いたすとは怪しからぬ代物だ。258汝は何といふ魔神であるか。259あり体に申上げろ。260愚図々々致せば此の鉄腕が承知を致さぬぞ』
263田吾作『宗彦さま、264原彦さま、265チツト加勢して下さらぬか。266随分怪しい代物ですがなア』
267宗彦『最前からお前の歌を聞いて居れば、268随分豪勢なものだつた。269何事も自分でなければ出来ないやうな業託を列べたぢやないか』
270田吾作『業託は業託として此際一臂の補助を願はねば、271言霊会社も経営難に陥り、272破産の運命に瀕するかも分りませぬ。273どうぞ嘘八百株ほど持つて下さらぬか。274さうして原彦さまには代言三百株ほど御願ひします』
279田吾作『エー貴様等は泣いたり、280笑うたり人を馬鹿にするのか。281貴様が泣笑ひで責めるなら俺は怒りの言霊だ。282おこりといふものは間歇性の病気で、283隔日に来るものだが、284俺は毎日毎晩確実に責めてやるから、285左様思へ』
288田吾作『エー又泣いたり笑つたり、289此の結構な神国に生れて、290泣いたり笑つたりする奴があるか。291謹み畏み真面目になつて御神恩を感謝せぬかい』
292宗彦『モシモシ御女中、293斯様な処に赤ん坊を抱いて現はれ給うたのは、294何れの神様でございますか。295どうぞ御名を名告り下さいませ』
296田吾作『エー宗彦の宣伝使、297何を恍けてござるのだ。298此奴は三国ケ嶽の古狐だ。299古狐に御丁寧な敬ひ言葉を使ふといふ事がありますか。300大方眉毛を読まれて了つたのでせう。301アア御用心御用心』
302と言ひつつ頻りに眉に唾を指尖で発送してゐる。
303田吾作『アー留公は予ての計画を忘れ居つたか。304なんぼ待つて居つても現はれてはくれず、305力に思ふ宣伝使は狐につままれる。306何程智謀絶倫の俺でも、307マア二人の気違ひを看病し乍ら敵地に進むことは出来ない。308誰か出て来て此足手纏ひの気違ひを引留めてくれるものがあるまいかなア。309近くに癲狂院があれば入院させたいものだが、310深山の事とて、311仰天院ばかりで精神病院らしいものも無し、312何うしたらよからう。313無線電話をかけて言依別様の応援を願ふ訳にも行かず、314アヽ困つた破目になつたものだ。315イヤア待て待て、316これから無言霊話をかけて留公を呼んでやらう』
317 女は大きな臀をクレツと捲つて見せた。318熊のやうな真黒の毛を一面に生し、319見る見る間に上半身は純白となり、320後半身は純黒の獣となつてガサリガサリと歩み出し、321三間程行つてはギヨロツと後を向き、322又三間程行つてはギロリツと振向き、323幾十回とも無く繰返し乍ら山上目蒐けて登り行く。
324田吾作『どうですか、325宗彦さま、326原彦さま、327天眼通も此処まで応用出来れば結構なものでせう。328無言霊話を高天原へかけたところ、329忽ち数万の神軍此処に現はれ給ひしその御威勢に怖れ、330さしもに兇暴なる曲神も、331目も身体も白黒させて正体を露はし遁げて行つたでせう。332これでも田吾作が命令を聞きませぬか』
333宗彦『それは、334まぐれ当りだよ。335お前は未だ宣伝使の肩書がないのだから、336何と云つても表面に通らない。337腐つても鯛だ、338名は実の主だから矢張り宣伝使と云ふ名に怖れて、339悪魔が正体を露はしたのだ。340如何に悪魔だつて名も無き奴等に降伏するものか、341無名の人物に降伏するやうなことでは、342悪魔の体面に関するからなア』
343田吾作『アハヽヽヽ、344よう仰有いますワイ、345宣伝使のレツテル一枚位を金城鉄壁と頼んで、346何事もそれでやつて行かうと云ふのは実に無謀だ、347無恥だ、348依頼心を極端に発揮したものだなア。349宣伝使なんかは地の高天原から紙一枚下つて来たが最後、350直に首落ちになるのだからなア。
352一、353此度の三国ケ嶽の言向戦に不都合の廉有之を以て、354評議の上其職を免ずべきもの也。
356とこれだけだ。357あんまり肩書を力にして貰ふまいかい。358それよりも腹の中の第一鬼を征服し、359本守護神即ち天人の御発動を御祈願するのが一等だ』
360宗彦『よう小理屈を囀る男だなア。361私も妹の婿に百舌鳥や燕を持つたかと思へば残念だワイ、362アハヽヽヽ』
363原彦『モシモシ貴方等は義理の兄弟ぢやありませぬか、364見つともない、365喧嘩はお止しなさいませ。366兄弟墻に鬩ぐとも外其侮りを防ぐと云ふことぢやありませぬか。367喧嘩したければ家へ帰つて、368いくらでも御やりなさい。369此処は敵前否敵の領地へ這入つて来て居るのですからなア』
370田吾作『敵地は敵地、371喧嘩は喧嘩、372兄弟は兄弟と区別を立てねば、373国政整理上都合が悪い。374何も彼もゴモク飯のやうに混同されては、375社会の秩序が紊れて了ふ。376総て分業的になつて来た文明の世の中だ。377兄弟は他人の始まりと云ふ事があるが、378私の兄弟は一種特別だ、379他人は兄弟の始まりとなつたのだからなア、380アハヽヽヽ』
381宗彦『もう好い加減に猫じやれの様な喧嘩は止めようかい。382花ばつかり咲かして居る山吹では仕方がない。383サアこれからが戦場だ』
384 原彦は心配相な顔をして、
385原彦『田吾作さま、386あの通り宣伝使が仰有るのだから、387お前も今暫く沈黙して下さい。388最前から矢釜敷う仰有つた彼の不言実行とやらを、389何処へ落しなさつたのか』
390田吾作『目下熟考中だ。391さう八釜敷う云つてくれない。392何程、393普賢菩薩の俺でも、394俄にさう奇智名案が湧くものではない。395今心の畑に智慧の種子を蒔いたところだから、396せめて十日や二十日待つてくれないと、397蕪とも菜種とも見当がつかぬ哩。398アハヽヽヽ』
399と他愛も無く笑ひ乍ら、400大木の根に腰をかけて横臥する。401四辺暗澹として天日を没し、402闇の帳は固く閉された。403深山の常として猛獣の吼り狂ふ声、404天狗の木を捻折るが如き怪しの物音、405間断無く聞えて来る。406原彦は此の物凄き声に肝を奪はれ、407声をも立て得ずビリビリと慄ひ上り、408田吾作の袖を確と握り小声にて、
409原彦『オイ田吾作、410コリヤ何うなるのだらう。411随分気分が悪い事はエーないぢやないか』
412田吾作『そうだ、413あまり気分がよくない事はない哩。414併し吾々の小宇宙に変動を来し、415震災の厄に見舞はれて居る所だなア』
416原彦『さう高い声で言つてくれな。417宣伝使が目を開けて聞かれたら態が悪いワ』
418田吾作『態が悪いなんて、419よう吐すなア。420貴様の旧悪はみんな宣伝使の前で、421うつつになつて喋つたのだから、422今になつてそんなテレ隠しをしたつて駄目だよ。423随分昔は悪人だつたなア。424俺が愛宕山を越えて結構な黄色の宝玉を懐に持ち、425保津の里迄やつて来ると、426森蔭から頬被りをしてヌーと現はれた奴は誰だつたいのー。427随分彼処も此処も劣らぬ凄い所だつたねー。428さうして何々とか云ふ腹の悪い男が俺の玉を嗅つけ、429腹をペコペコ、430鼻をピコピコ、431ハラハラヒコヒコさせ乍ら現はれて来やがつて「モーシモーシ旅の御方、432私は此辺の猟人でございます。433最前からの雨に火縄も湿り、434困難を致して居りますれば、435どうぞ提灯の火を御貸し下さいませ」と出て来居つたのだ。436さうすると田吾作と云ふ旅人が「ハテ心得ぬ、437此の淋しき山道の、438しかも森林の中より狩人が現はれるとは合点が行かぬ。439昼ならば兎も角、440夜分に猪が目につく筈はない。441こんな不合理なことを言ふ奴は、442確かに猪の猟夫ではなからう。443懐の我が玉を猟する曲者か、444但は追剥か」と流石の奇智神謀に富んだ旅人は稍躊躇の態であつた』
445原彦『オイオイそんなことを言ふものぢやない。446もう好い加減に止めてくれ』
447田吾作『マア好いぢやないか。448此の夜の長いのに、449ちつと言はしてくれ、450口に虫が湧く哩。451エー一寸五分間休息を致しました。452お客様方御待たせをして済みませぬ。453これから前段の引続きを一席講演致しまして御高聞に達します』
454原彦『さう昔の事を思ひ出し、455心気昂奮させた所が仕方がないぢやないか。456もう好い加減に止めて欲しいものだなア』
457田吾作『俺のは天下の公憤だよ。458決してお前に対して私憤を洩らすのぢやない。459又お前と俺との話でも何でも無い。460過ぎし昔の夢物語で、461決して俺の腹も原彦も悪いのぢやない。462お前はこんな事を聞くと、463むかついて宗彦が悪くなるだらうが、464これも時の廻り合せだ。465忍耐は幸福の基だから、466忍耐をして面白い話を聞くのだよ。467……時しもあれや怪しき何者かの足音がする。468よくよく見れば一頭の手負ひ猪だ。469猟夫と名乗つた男は忽ち肝を潰し、470キヤツと声を立て旅人の身体にしがみついた。471旅人は心の中に思ふやう。472四足の一匹位に胆を潰すやうな奴だから、473まさか悪人ではあるまいと哀憐の情が勃然として、474心中に萠芽し……』
475原彦『そんなむづかしい事を云つて、476解るものかい』
477田吾作『解らぬのは有難いのだぞ。478坊主のお経だつて、479ダダブダ ダダブダと拍子の抜けた声でずるずるべつたりに棒読みにするから、480人間に解らぬから有難いやうなものだ。481お経といふものは不可解なのが調法なのだ。482俺のも少し和讃じみて居るが、483これでも新奇流行のアホダラ経を聞くと思うて聞いて見よ。484随分利益があるぞ。485第一怖ろしいと云ふ観念を忘れ、486夜が長いと云ふ苦しみを其間だけなつと救はれるのだ。487此位現当利益の御蔭はありませぬ。488併し此内に一人位は耳に応へる優婆塞があるかも知れぬ。489それも修行だと思つて聞いて居れば遂に習慣性となり、490初めには耳についた汽車の音が、491終ひには何ともないやうになるのと同じことだ。492マア辛抱してお日待ちの説教を聞くと思つて聞くがよいワ』
493宗彦『アーア喧しいなア。494何をヒソビソとお前達は言つて居るのだ。495黙つて寝ないか。496最前から聞いて居れば猟夫がどうしたの、497斯うしたのと仕様も無い昔話しを持ち出して、498乞食坊主のホイト節のやうなことを云つてゐたぢやないか。499好い加減に寝え寝え。500又明日大活動をやらねばならぬから肉体の休養が肝腎だ』
501原彦『宣伝使さま、502何と云つても田吾さまが、503耳の痛いことを喋るのですもの、504チツト叱つて下さいな』
505 宗彦は早くも眠りに就たと見えて何の応答も無い。
508鱏、鱧、鰈、矢柄(エーはばかり乍ら) 509無精山道楽寺ナマ臭厄介坊主の
510自堕落上人御招待に預りました 511抑も愚僧が万国修行の根元
512戒行、難行、苦行、故郷の 513住めば都を後に愛宕の山を乗り越えて
515保津の里までやつて来ました
517七尺有余の荒男
518現はれ出でて皺嗄れた 519声を張り上げコレコレモーシ旅の人
520提灯の明かり貸して下さんせ 521聞いて旅人立止まり
522此の闇黒に提灯の 523火が欲しい奴は何者ぞ
524夏の夕べの火取虫か 525飛んで火に入り身を焼いて
526死んで了ふのを知らないか 527そんな馬鹿な事止せ止せと
528後をも見ずに進み行く 529性凝りも無く怪しの男
530オツトどつこい一寸違うた 531折から猪奴が飛んで来た
532怪しの男は驚いて
536心を許して道伴れに
538大井の川の袂まで 539来る折しも其奴めが
541お前の懐中に光るもの
542一寸私に貸してくれ 543貸さな斯うぢやと高飛車に
544拳固をかためて攻め寄せる
546腕首掴んで中天に
548空中の舞を舞ひ納め 549遥向方の川中へ
556怪しの男は肝腎の 557玉が無いので力抜け
559疵持つ足の何処となく
560帰つて行たが其の跡は 561何処かの松の並木原
562根元に埋められ肥料となり
565小さい村の離れ家の
567ハラハラし乍ら十五年
568胸もヒコヒコ十五年 569終には病を惹き起し
570明日をも知れぬ難儀の場
572留公、田吾作両人の 573立派な家来を引伴れて
576今は三国の山登り 577猛獣毒蛇の唸り声
580エー無精山道楽寺 581なまぐさ厄介坊主の自堕落上人が
582此の所に現はれまして 583諸行無常や是生滅法
584やがて寂滅為楽の愁歎場
587 此時一寸先も見えぬ闇黒の中より聞き慣れぬ妙な鼻声交りの婆の声が聞えて来た。
588婆『ハテ訝かしやな、589俺は三国ケ嶽の鬼婆である。590今日三五教の身魂の研けた立派な宣伝使が、591当山へわれを退治せむと企て、592上り来ると聞き、593これこそ天の時節の到来と喉を鳴らして待つてゐた。594蛙やくちなははモウ喰ひ飽いた。595赤児も最早飽いて来た。596宗彦と云ふ奴、597魂の綺麗な奴と聞いた故、598噛ぶつて喰うたら甘からうと、599此間から楽しんで待つてゐた。600どうやらこれが宗彦らしい。601さうして二人の奴は、602どれもこれも口ばつかり大きい奴で、603ちよつとも実のない奴だ。604三匹が三匹とも、605よう斯んなガラクタが揃うたものだ。606アーあてが違うた。607この年寄が足許の見えぬやうな闇黒をうまい餌食があると思つて出て来たのに、608薩張り梟鳥の宵企み、609夜食に外れたやうなものだ。610それでも尻の傍には、611少し甘さうな肉が付いて居るだらうから、612これなつと喰てやらうかな』
613田吾作『コリヤ婆のやうな声を出しやがつて、614何を吐すのだ。615尻なつと喰へ、616貴様がそんな作り声をしたつて、617田吾作さんはよく知つて居るのだ。618まだ貴様の出る幕ぢやないぞ。619気の利いた化物はモウ足を洗つて寝る時分だ。620言依別命さまに願つた事を早く往つて計画せぬかい。621馬鹿だなア、622陰謀発覚の虞があるぞ。623化るならモツと仮声を上手に使へ。624留……イヤウーン留度も無く馬鹿ばつかり垂れやがつて、625何処の呆け曲津だ。626愚図々々致すと承知せぬぞ』
627 原彦は又小声で、
628原彦『オイ田吾作さま、629相手になるな。630あんな化物に此の闇黒で相手になつたとこで、631どうすることも出来ぬぢやないか』
632田吾作『八釜敷う云ふない。633俺の言霊を留公……オツトどつこい留めようとしたつて、634斯う馬力がかかつてからは、635容易に止まるものぢやないワ』
636留公『田吾作、637原彦、638宗彦様、639又明日御目にかからう。640頭から岩窟の婆が塩つけて噛ぶつてやらう。641それを楽しんで居つたがよからう』
642宗彦『あの声は婆の声のやうでもあり、643鼻声だが何処ともなしに留公に似たとこがあるぢやないか、644ナア田吾作さま』
645田吾作『マア何でもよろしい哩。646何れ明日になつたら解りませう。647サアサアモー一寝入り』
648と横になり、649喋り草臥れて他愛もなく寝込んで了つた。
650 宗彦も亦寝に就く。651原彦は時々怪しき声の響き来るに脅かされ、652二人の中に挟まつて一睡も得せず、653一夜を明かしける。
654(大正一一・五・一四 旧四・一八 外山豊二録)