宇宙には霊界と現界の二つの区界がある。霊界には、高天原と根底の国の両方面がある。この両方面の中間に介在する一つの界があって、これを中有界または精霊界という。
現界に昼夜・寒暑の区別があるのは、霊界に天界と地獄界があることに比べられる。人間は霊界の直接または間接内流を受け、自然界の物質すなわち剛柔流の三大元質によって肉体を造られ、肉体に精霊が宿っている。精霊は、人間自身であり、体は精霊の居宅に過ぎない。
霊なるものは、神の神格である愛の善と信の真から形成された一個体である。人間は一方に愛信の想念があり、一方には身体を発育し現実界に生き働くための体欲がある。この体欲も愛から来ている。
しかし体に対する愛は自愛である。神より直接来る愛は神愛といい、神を愛し万物を愛する普遍愛である。人間は肉体のある限り、自愛も必要欠くべからざるものである。それと共に、本源にさかのぼって真の愛に帰正しなくてはならない。
精霊は善悪両方面を抱持している。人間は霊的動物であると共に、体的動物でもある。精霊はあるいは向上して天人となり、あるいは堕落して地獄の邪鬼となる。人間は善悪正邪の分水嶺に立っているものである。
たいていの人間は、神界より見れば精霊界に彷徨している。精霊の善なるものを正守護神といい、悪なるものを副守護神という。正守護神は神格の直接内流を受け、人身を機関として天国の御用に奉仕すべく神より造られたものである。正守護神をよく統制し得ることができれば、一躍本守護神となって天人の列に加わるものである。
悪霊すなわち副守護神に圧倒され、使役される卑怯な精霊となるときは、精霊自らも地獄界へ落とされてしまうのである。
悪霊は、自然界にける自愛、すなわち外部から入り来たる諸々の悪と虚偽によって、形作られるものである。悪霊に心身を占領された者を体主霊従の人間という。現代の人間は精霊界、または地獄界に籍をおいているものが大多数を占めている。
現代の学者は、霊的事物を覚知せずに宇宙の真相を究めようとしている。これを体主霊従的研究という。大本神諭に途中の鼻高とあるのは、天国自国の中途である精霊界に迷っている盲どものことを言っているのである。
まず現代の学者は霊的事物の存在を認め、神の直接内流によって真の善を知り、信の真を覚る糸口を捕捉しなくてはならない。自然界にあって自然的事物の科学的研究をどこまで進めても解決がつかないような知識では、霊界の門内に一歩でも踏み入ることさえできるはずがない。
現界の研究さえまだ門戸に達していない学者どもが、霊界のことにくちばしを入れて瑞月を審神者しようとするのだから、実に滑稽である。この『霊界物語』も、これを読む人々の智慧証覚の度合いによって、神霊に感応する程度に幾多の差が生じるのはやむを得ないのである。
宇宙の真理は開闢の始めより億兆万年の末に至るまで、決して微塵の変化もない。これに対する人間の智慧証覚の賢愚の度によって、種々雑多に映じるのである。
霊界に通じる唯一の方法として、鎮魂帰神という神術がある。人間の精霊が直接、大元神すなわち主の神に向かい、神格の内流を受け、大神と和合する状態を帰神というのである。それゆえ、帰神は予言者としてもっとも必要な霊界真相の伝達者である。
次に大神の御神格に照らされ、智慧証覚を受けて霊国のエンゼルとなった天人が人間の精霊に降り来たり、神界の消息を人間界に伝達することを神懸という。これを神格の間接内流ともいう。予言者を求めてその精霊を充たすのである。
悪霊または副守護神が外部から人間の肉体に侵入し、罪悪と虚偽を行う状態を、神憑という。偽予言者、贋救世主などは、この副守のささやきを自ら深く信じ、憑霊を貴き神と信じている。神憑は、現界の人間の善霊と肉体を亡ぼそうと謀るものである。
ゆえに霊界の研究者は霊媒の平素の人格についてよく研究をめぐらし、その心性を十二分に探査したうえでなくてはならない。好奇心にかられて不真面目な研究をするようなことでは、学者自身が中有界はおろか、地獄道に陥落するにいたってしまうことになる。
帰神も神懸も神憑もひとくくりに神がかりというが、その間には非常に尊卑のへだたりがあることを悟らなければならない。
大本開祖の帰神では、開祖はいつも神様が前額から肉体におはいりになられるといわれていた。前額部は高天原の最後部に相応する至聖所である。畏れ多くも口述者は審神者として開祖を永年間注目し、ついに大神の聖霊に充たされ給う地上唯一の大予言者であることを覚り得たのである。
また、高天原には霊国と天国の二大区別がある。霊国の天人を説明の便宜上、霊的天人と呼び、天国の天人を天的天人として説明を加えようと思う。
霊的天人から来る間接内流は、人間の肉体の各方面から感じ来たり、頭脳に流入する。前額およびこめかみから、大脳の所在全部にいたるまでを集合点とする。この局部は霊国の智慧に相応する。天的天人からの間接内流は、後脳すなわち耳より始まり、頸部全体に流入する。この局部は証覚に相応するからである。
天人が人間と言葉を交えるときは、人間の想念中に入り来るものである。天人と語り合う者は、高天原の光によってそこにある事物を見ることができる。しかして天人はこの人の内分を通じて地上の事物を見ることができる。
天界の天人は人間の内分によって世間の事物と和合し、世間は天界と和合する。これを現幽一致、霊肉不二、明暗一体という。
大神が霊界の消息や意志を現界人に対して告示するとき、まずおのが化相をもって精霊を充たし、この充たされた精霊を予言者の体に遣わし給う。この精霊は、大神の霊徳に充ちてその言葉を予言者に伝える。
これらの言葉は大神より直接に出て来た聖言であるので、一々確乎不易にして神格によって充たされているものである。しかし人間は何事も自然的、科学的意義にしたがって聖言を解釈しようとするゆえに、懐疑心をますばかりで解決がつかない。ここにおいて大神は、瑞霊を世に降して直接の予言者が伝達した聖言を詳細に解説せしめ、現界人を教え導こうとなし給うたのである。
大神の御神格が予言者を充たして聖言を伝達し終わると、大神は天に帰り給う。すると予言者の神格はにわかに劣り、言うことは明晰を欠くようになる。そこで予言者は、自分はやはり精霊であり、聖言は大神から言わしめ給うたことを知覚し承認するに至る。大本開祖は、万民のために伝達の役を勤めていたことをよく承認していられたのである。
開祖に帰神し給うたのは大元神大国治立尊様である。その精霊は、稚姫君命と国武彦命であった。天人は開祖によって示された聖言を直ちに理解することができるが、現界人には容易に通じない。それゆえ、聖言を細かく説いて諭す伝達者として、瑞の御魂の大神の神格に充たされた精霊が変性女子の肉体に来たり、地上の天人として神業に参加せしめられた。
その詳細な説明をもってしても疑念をさしはさみ研究的態度に出ようとする者もある。されど神は至仁至愛にましますので、かくのごとき難物をも種々に身を変じ給いてその精霊を救おうと昼夜御心を悩ませ給いつつある。