自然界と霊界には惟神の順序によって相応がある。人間は天人の有するところをすべて有している。人間はその内分から見れば霊界に居る。しかしまた同時に、外分から見ると自然界に居る。
人間の自然的・外的記憶に属するものを外分と言う。人間の知識や学問等から来る悦楽および会館のすべて世間的趣味を帯びるもの、肉体の感覚、言語、動作が外分である。
外分は、大神より来る神的・霊的内流が止まる終極点の事物である。神的順序が究極するところは万物の霊長、神の生き宮、天人の養成所である人間なのである。ゆえに人間は神様の根底となり基礎となるべきことを知らなければならない。
このような尊い存在である人間が、内分を神に背けて高天原との連絡を断絶し、自然界と自己に向けて自己を愛し世間を愛し外分のみに向かっているゆえに、大神はぜひなく予言者という媒介人を設けて地上に降し、御経綸を行わせ給うたのである。
治国別は竜公とともに言霊別命の化相身である五三公に案内され、珍彦の館を後にして中間天国の各団体を訪問することになった。一行は樹木が秩序よく生えている金砂銀砂をしきつめた平坦な道を進んで行く。
道の両方には天国の田が展開し、涼風にそよぐ稲葉の音が心地よく耳に響いてくる。天人の男女は水田に入って草取り歌を歌いながら草を取っている。
五三公は、天国では土地は全部団体の公有でありながら、みな一切平等に御神業と額に汗をして神様のために活動し、それぞれの愉快に立ち働いているという。そして、天国にも貧富はあるが、貧富は現界のようによく働く者が多くの報酬を得るのではなく、神様の賜うところであるという。
各人の努力によって獲得するものではなく、現界にあるときに尽くした善徳の如何によって貧富が惟神につくので、貧者は富者を見てこれを模範とし、善徳を積むことのみを考えるのだという。
治国別の問いに答えて五三公は、天国の富者は現界にあるうちによく神を理解し愛のために愛をなし、善のために善をなし、真のために真を行い、自利心を捨てて神の国の建設のために心身を尽くして現界で十分に活動した者たちだと説いた。
竜公も交えて四方山話した後、五三公は霊陽山の名所に二人を案内しようと歩を進めた。一行は天国街道を進み霊陽山のふもとについた。五三公は、ここは第二天国の有名な公園地であると紹介した。
二人の目には天国の公園の景色はかすんで見えたが、五三公に言われて被面布をかぶり、麗しい公園の花卉・庭園を見ることができた。五三公の諭しを聞いて、二人もようやく被面布を取っても花園の光景を見ることができるようになってきた。二人は神の御恵に感謝した。