人間の肉体は精霊の容器であり、天人の養成所である。一方で邪鬼、悪鬼の巣窟ともなる。この変化は、人間が主とするところの愛の情動如何によるのである。
人間が現世に住んでいる間は、すべての思索は自然的であるゆえに、人間の本体である精霊が、精霊の団体中に加わることはない。
しかしその想念が肉体を離脱する時は、各自所属の団体中に現れることができる。肉体を持っている精霊は、思いに沈みつつ黙然として徘徊しているので、精霊たちはこれをすぐに区別できる。精霊がこれと言葉を交わそうとすれば、肉体のある精霊は忽然として消失するのである。
人間が肉体を脱離して精霊界に入るときは、睡眠でもなく覚醒でもない、一種異様の状態にいる。そのときその人間は、十分に覚醒していると思っているし、諸々の感覚も肉体が覚醒しているときと少しも変わりはない。むしろ五感は精妙となる。
この状態で天人や精霊を見るときは、その精気凛々として活躍するを認めることができ、また彼らの言語も明瞭に聞くことができる。また親しく接触することもできる。
この状態を霊界では肉体離脱の時と言い、現界から見たときは、死と称しているのである。人間は、その内分すなわち霊的生涯においては精霊である。人間の想念および意志に属することからそのようにいうことができる。
意志・想念に属している事柄は人の内分であって、霊主体従の法則によって活動する。これが人をして人たらしめている所以である。人は、その内分以外に出ることはできない。だから精霊すなわち人間なのである。
肉体は精霊の活動機関である。本体である精霊の諸々の想念や情動に応じて、自然界における諸官能を全うする。肉体がこの機関としての活動を果たせなくなったとき、それを肉体上の死と呼ぶのである。
精霊と呼吸および心臓の鼓動との間には、内的交通がある。精霊の想念は呼吸と相通じ、愛より来る情動は心臓と通じている。肺臓と心臓の活動がまったく止むとき、霊と肉とがたちまち分離するときである。
肺臓の呼吸と心臓の鼓動とは、人間の本体である精霊そのものを肉体につなぐ命脈であり、この二つの官能が破壊されるときは、精霊はたちまち己に帰り、独立して復活することができるのである。
精霊の躰殻である肉体は、精霊から分離されたゆえに次第に冷却し、ついに腐敗糜爛するに至るものである。
人間の本体である精霊は、肉体分離後にもしばらくはその体内に残り、心臓の鼓動がまったく止むのを待って、全部脱出する。この現象は人間の死因によって違ってくる。ある場合には心臓の鼓動が長く継続し、ある場合には長くない。いずれにしても、この鼓動がまったく止んだ時は、人間の本体である精霊は直ちに霊界に復活しえるのである。しかしこれは瑞の御霊の大神のなし給うところであって、人間自身が行うことのできるところではない。
心臓の鼓動がまったく休止するまで精霊が肉体から分離しない理由は、心臓は情動に相応しているからである。情動は愛に属し、愛は人間生命の本体である。人間はこの愛によっておのおの生命の熱がある。愛による精霊と肉体の和合が継続する間は、精霊の生命はなお肉体中にあるのである。
人の精霊は、肉体の脱離期すなわち最後の死期にあたって、その瞬間抱持した最後の想念を死後しばらくの間は保存するものであるが、時を経るにしたがって、元世に在った時に平素抱持していた諸々の想念のうちに復帰する。
古人のことわざに最後の一念は死後の生を引くと言っているのは、誤謬である。どうしても平素の愛の情動がこれを左右するのである。そこで人間は平素よりその身魂を清め、善を云い善のために善をおこない、智慧と証覚とを得ておかなければならないのである。
さて、治国別と竜公は、八衢の関所に進んでくる精霊と赤白の守衛との問答に、謹慎の態度で聞き入っていた。そこに心中した男女の精霊がやってきた。赤の守衛が二人を怒鳴りつけて呼び止めると、二人は路上にうずくまってしまった。
二人は別々に引き離されて取り調べを受ける。女は生前は芸者で、八衢の守衛を色仕掛けで買収しようとする。赤の守衛は口八丁で口説きたてる女に辟易し、また後で取り調べると言い渡して岩窟に放り込んだ。
男の方は、女芸者に入れあげて勤め先の店の金を横領していた。男は、大きなお金をごまかした方がかえって政府から見逃され、有力者となり社会の善人となるのだ、と反論した。そしてそれが冥途の法律と違うのなら、なぜ最初から現界に冥途の法律を発布しないのか、と怒鳴りたてる有様であった。
守衛は現界からやってくる精霊のありさまを嘆いた。そして大神様が厳の御霊、瑞の御霊の神柱を現界に送って改造に着手されているから、四五年もすれば効果が現れて今やってきたような人間の数が減るだろうと語り合っている。
治国別と竜公はこの様子を見て、自分たちが現界に帰ったらしっかりと舎身的活動をしなければならないと肝に銘じている。