人生の目的は決して現界の幸福と歓楽を味わうのみではない。すべての人間は幸福と歓楽に執着し、苦悩と災厄を免れようとのみ焦慮し熱中しているようだ。しかし神様が人間を世界に創造し給うた使命は、決して人間が現界における生涯の安逸をはからしむるが如き浅薄なものではない。
人間は神様の目的経綸をよくよく考察して、どこまでも善徳を積み信真の光をあらわし神の生き宮、天地経綸の御使いとなって三界のために大々的に活動せなくてはならないものである。
人間には直接天国より天人の霊子を下して生まれしめ給うたものもあり、あるいは他の動物から霊化して生まれたものもある。
大神は初めて世界に生物を造り給うや、ばい菌に始まり、蘚苔となり、草木となり、進んで動物を造り給うた。虫、魚、貝、鳥、獣、最後に人間を生み出し給い、神は自ら生物を改良して、動物産生の終わりにすべての長所を具備して理想のままに人間を造られたという学者もある。動物発生の前後に関する問題は、霊界物語を読まれた読者の判断に任せることとする。
すべて人間は大神の無限の力を賦与され知能を授けられている以上は、日夜これを研いて啓発し、神の境域に到達し得る資質を具有しているものである。すべての生き物は生まれては死し、死しては生まれる。神は同じ神業を繰り返させ給う。人間の生死問題も宇宙の主宰なる大神の目よりご覧になる時は、万年の昔も万年の未来も少しも変わりはない。
生の本体は、煎じ詰めれば単に一体の変化に過ぎない。人間もこの変化を免れることはできない。すべて生物に死の関門があるのは、神様が進化の手段として施し給うところの神の御自愛である。死は生物のもっとも悲哀とするところなれども、これまた惟神の摂理である。
しかし人間は他の動物と異なり死後はじめて霊界に入り復活して天国の生涯を営むものであれば、人間の現肉体の生命はただその準備に他ならないことを知らねばならぬ。
人間社会において往古より今日に至るまで霊魂の帰着について迷うこと久かった。しかし未だ一つとして徹底的に宇宙の真相、人生の本義を説いたものはない。弥勒出現成就して初めて苦集滅道を説き三界を照破し道法礼節を開示す、とは先聖すでに言う所である。
人は天地経綸の奉仕者にしていわゆる天地の花であり、神の生き宮たる以上は、単に他の動物のごとく卑劣なるものではない。神に代わって天地のために活動すべきものである。
王仁がこの物語を口述する趣旨もまた人生の本義を世人に覚悟せしめ、三五教の真相を天下に照会し、時代の悪弊を祓い清め地上に天国を建て、人間の死後は直ちに天界に復活し人生の大本分を尽くさしめ、神の御目的に叶わしめんとするの微意にほかならない。
附言
金剛不壊の如意宝珠は、大本教の宣伝使・湯浅仁斎氏の紹介によって、鳥取県気高郡海徳村大字徳尾宮東菜種田において種刈り中、鎌に当たり拾得した天降石にして、明治二十三年四月二十四日、森岡直衛氏の所有であった。
本日その息直次郎氏により大本に献納された。霊界物語 霊主体従 第一巻に記載せるシオン山より出でたる金剛不壊の如意宝珠である顕国魂は、すなわち之である。