教祖の一行は明治三十三年旧六月八日に冠島の参拝を無事に終えた。次いで、生き神艮の金神を奉祀して天下泰平と皇軍の勝利を祈願しようと、古来人跡なき沓島に渡ることになった。
一行九人は前回同様、舞鶴の大丹生屋に宿泊して舟を雇い、穏やかな海面を沓島に向かって滑り出した。舟人の話によれば、ここ五年ほどでこれほど静穏な海上はないとのことである。
途中すれ違った釣り舟から鯖を二十尾ほど買い上げて、お供え物とした。まずは冠島に上陸し、祝詞を奏上して木下慶太郎、福林安之助、四方祐助、中村竹蔵の四名を島に残し、社殿の清掃を命じた。
その他の教祖、自分、出口澄子、四方平蔵、福島寅之助の五名は沓島に向かった。沓島への途上の巨浪に福島氏は肝をつぶし、船底にしがみついて発動気味になっていた。それ以降、福島氏は二度と沓島には参らないと懲りていた。
冠島で清掃にあたっていた中村竹蔵は激しい腹痛に襲われ、神明に罪を謝したところ激痛が止んだ。頑固な中村も、その神徳に感激した様子であった。
沓島は冠島と違って、人が渡らない島だけに岩に囲まれて適当な上陸地点が見当たらない。教祖はぜひに釣鐘岩につけよ、と言った。自分は縄を持って岸壁に飛びつき、船頭と共に舟を縄で固定した。
少しばかり平面のある場所を頼りに岩場を登って行き、百尺ほど高所の二畳敷きほどの平面の場所に、綾部から持ってきた神祠を設置し艮の大金神国常立尊、竜宮の乙姫、豊玉姫神、玉依姫神をはじめ天神地祇を奉祭し、祈願の祝詞を奏上した。
文禄年間に海賊がこの冠島・沓島を一時ねぐらにしたことがあった以外には、誰も沓島に来たことがないというところへ、百難を排して教祖が渡り、天下無事の祈祷をされたということで、東京の富士新聞や福知山の三丹新聞など諸新聞に掲載された。
沓島参拝を終えた後、冠島に戻り神前に礼拝し、供物を献じて島を一周した。冠島は世界のあらゆる草木の種が集まっていると言われている。世の俗塵を一切払ったような観念が湧いてくる島であり、信徒たる者ぜひ一度参詣すべき場所である。
九日の夕方、無事に舞鶴に到着し、翌日記念撮影をなして、めでたく本宮に帰ることとなった。