明治三十三年八月下旬、元治郎が危篤との知らせを受けて郷里の穴太に帰った。鎮魂をしてみると、産土の小幡神社に呪い釘が打ってあり、それを抜き取るようにとの御告げがあった。
行ってみると果たして、実際に小幡神社の杉の木に釘が打ってあったので抜き取った。村の衛生係は猩紅熱だと言ったが、実際に釘を抜くことで元治郎の容態はとても良くなり、見舞いに来ていた人たちも神徳の広大無辺なことに驚いた。
元治郎は喜楽の留守宅で鍛冶屋を営んでいたが、同業者に恨まれてしまった。下男の幸之助は元治郎を恨む鍛冶職人たちに頼まれて、呪い釘を打ち、元治郎を呪い殺そうとしたのであった。
幸之助は会長に呪い釘のことを見透かされ、恐ろしくなって夜のうちに家族を連れて逐電してしまった。
元治郎はこの件がきっかけで博奕をやめて神様を拝む心になり、最後には神の道を宣伝するようになった。
それから喜楽の祖母が八十八歳で亡くなり、また百日祭の後には火事があって家が焼けた。喜楽は火事のことは神様に知らされていたので、村の他家から預かっていた農具を別の小屋にしまっておくように注意しておいた。そのおかげで預かった農具にはまったく被害がなかった。
喜楽の母と兄弟は二三年綾部に来ていたが、役員の反対がきつく、あるとき小松林の母親だからという理由で蹴り倒され、折よくそこへ帰ってきた西田に介抱されてようやく息を吹き返したということがあった。
母はたいへんに怒ってしまいには穴太へ帰ってしまった。そのとき役員は迷信上からやったことで、決して悪いことをしたとは思っていなかった。お道のため、世界のためになることだと固く信じて、喜楽の母の横腹を蹴って気絶させるようなことをして、得々としていたのである。
実に、迷信ほど恐ろしいものはないのである。