予言者郷里に容れられずという古来のことわざのとおり、瑞月王仁が突然神界より神務に使役されるようになってから親族知己朋友その他の人々からあらゆる悪罵嘲笑や妨害等をうけながら、神命を遵守して今日まで隠忍してきた種々雑多の経緯は到底一万や二万の原稿で書きつくせるものではない。
ゆえに『舎身活躍』の口述のはじめにあたり、最初の霊的修行の一端を述べてから本問題の神代の物語に移ろうと思う。
幸い今日となっては自分の郷里の人々は、無宗教者といえども一人も反対を唱えたり悪罵嘲笑をするものはなくなってきた。むしろ瑞月の精神を了解し、かえって賛辞を送るようになったのは、まったく時の力である。
しかるにいつの世にも反対者というものは絶えないものである。大正の初頭から勃興し始めた大本の教えに対して、学者・宗教家・新聞記者などがずいぶん攻撃の矢を放って吾人の主張を破砕しようとしていた。
吾人は今後においてもますます、大本に対して大々的な迫害の手が加わることと確信している。
天の瓊矛のように、大本はイラエばイラウほど太く膨れて固くなり、かつ気分のよくなるものである。善悪吉凶禍福は同根である。筆先にも『悪く言はれて良くなる仕組じゃぞよ』とあるのも至言である。
このごろ丹波新聞という地方新聞が霊界物語を評していわく、『一丁ほど先から見えるような原稿を書いている』と。この物語は人間の頭脳の産物でない以上、神の霊光が原稿の上に輝いて遠方から拝めたのであろう。
著者の人物が大きいから原稿の字が大きく見えたのであろう。いやいや、そう慢心してはならない。神様の偉大なる神格が現れて筆記者の写した細い文字が丹波新聞の記者の眼にみえたのであろうと、神直日大直日に見直し聞き直し宣り直し、善意に解釈しておく。
実に天下一品の賛辞を与えてくれた大名文章だと感謝しておく次第である。呵呵。