青垣山を四方にめぐらした山陰道の喉首口、丹波の亀岡にほど近い曽我部村の大字穴太は、瑞月王仁の生地である。
この地に生を享けてほとんど二十七年は夢のごとくに過ぎ去り、二十八歳を迎えた明治三十一年如月の八日、浄瑠璃のけいこ友達と知己の家で葱節をどなっていた。
そのとき、宮相撲をとっていた若錦という男が数名の侠客を引き連れて演壇にのぼり、瑞月を担いで桑畑の中へ連れて行き、打つ、殴る、蹴るなどの暴行を加えた。
嘘勝ら瑞月の友人が喧嘩に入り込んで乱闘を始め、宮錦らを追い散らした。瑞月は割木で頭を殴られ、頭が重く、友人らに助けられて自分の精乳館に連れてこられた。
寝込んでいると母がやってきて夜具をまくり、昨晩の喧嘩のことが知られてしまった。母は、父が亡くなったせいで近所の者に侮られるのだと加害者を恨んでいたが、これを聞くと自分も気の毒になり、傷の痛みはどこかへ逃げてしまった。
実際には自分が侠客気取りで喧嘩の仲裁をして回ったり、弟が賭場に入っていたのを引き出したりことから、あたりで鳴らしていた侠客の親分・勘吉に睨まれたことが原因であった。
そうして侠客の娘・多田琴とわりない仲になり、琴の父・亀について侠客の道を学んでいた。亀は瑞月を自分の後継ぎにしようと考えていた。
自分は貧家に生まれて、強者が弱者に対する横暴を非常に不快に感じ、憤っていた。父が亡くなってからはその思いが吹き出し、侠客と命がけのやり取りをして彼らをへこませていたから、睨まれていた。
もしも神様の御用をしなかったら、三十四五までにたたき殺されていたかもしれないと思うと、神様の御恩がしみじみとありがたくなってきた。