すべて教法には大乗と小乗の区別がある。一般民衆に理解しやすく説示するのを小乗と言う。卑近な例を引いたり何人にも解し易い言語をもって示す。多数一般の人に神の教えを説くときには小乗でなければ駄目である。
ただ、いわゆる知識階級は小乗には耳を傾けないものである。何事も難解的な経典をもって唯一成道の大法と心得ている自称先覚者には、霊界の事情は容易には解されない。
また自然界とまったく相反する神霊界の消息に対して、科学を基礎としなくては駄目だと思惟している知識階級の人々は、いずれも九十五種外道の全部を完備していると言ってもよいくらいなものである。
大乗を究めようとして知らず知らずの間に外道に陥落し、一も取らず二も取らず、ついには混迷と愚痴とのみを取得するに至る。
すべて天国に昇るものは、小乗を聞いて、直ちに神霊界の消息を感知し得る神的知識者である。現界にあって学者と言われる人々も神的知識なるものを欠くときは、決して神霊界を窺うことはできない。
すべて大乗教義は上根者、宣伝使などの所業の教理であって、一般学者はとうてい感得することができない神秘である。法大、心大、解大、浄大、荘厳大、時大、具足大の七大乗は、神に選ばれた神知識の所有者でなければ、その真相を究めることは不可能である。
神を信ぜず、その存在を認めず、神を愛しない者は決してその関門さえも窺うことは許されない。大乗は歯に合わず、小乗は馬鹿にして耳を傾けない、という者は神諭に途中の鼻高と称えられている。
五濁を清め去り、清浄無垢赤子の心境に立って初めて神霊界の真義に歩を向けることができるのである。
この物語もまた神示の所作なれば、五濁を除去しもってこれに向かうときは、無等々正覚を得て人生の本分を全うし、不老不死の天国の生涯を生きながら楽しむことができる案内書となるのであります。