ノアの子孫のハム族は、大国彦の子孫である大国別を神の王と迎え奉り、エジプトのイホの都に宮柱を立てて、その婆羅門の教えを広めて行った。
教線は拡大し、西は地中海に面したヨーロッパ各地へ、東は小アジア、メソポタミヤの顕恩郷に達し、さらに越えてペルシャを横切り、インドにまで達した。セム族の流れたるコーカス山の三五教の神人らは、婆羅門教を言向け和そうと顕恩郷に広道別らを使わした。
コーカス山を三五教に奪われ、ウラル山とアーメニヤが危機に瀕したウラル彦・ウラル姫は、常世国に逃走した。八頭八尾の大蛇や悪狐の邪霊たちは、大国彦の末裔である大国別・醜国姫の夫婦に憑依した。そしてエジプトのイホの都に現れ、第二のウラル教たる婆羅門教を開かしめた。大国別は、大自在天の名を称した。
この婆羅門教は、極端な難行苦行をもって神の御心にかなうとした教理である。婆羅門教は進んでメソポタミヤの顕恩郷、エルサレムの黄金山にまで拡大し、聖地周辺の三五教の教理はほとんど破壊されてしまった。
コーカス山の素盞嗚神は、日の出神、日の出別神らに命じて、婆羅門教を恭順させようとした。霊鷲山の広道別(太玉命)は、妻・松代姫をコーカス山に残し、娘・照妙姫にエデンの花園を守らせ、安彦(弥次彦の改名)、国彦(与太彦の改名)、道彦(勝彦の改名)を引き連れて、顕恩郷にやってきた。
婆羅門教は霊主体従の教えを曲解し、極度に身体を軽視して難行苦行によって全身から血を流して神の心にかなうとした。邪霊は血を好む故に、霊主体従の美名の下にこのような暴虐なる行為を勧める教理を立てたのである。
婆羅門教に魅惑された人々は、生を軽んじ死を重んじるのであった。しかし霊肉一致の天則を忘れ、神の生き宮である肉体を軽んじることは、生成化育の神の大道に反すること、もっともはなはだしき事なのである。
また婆羅門教は上中下三段の身魂の区別を厳格に立てた。大自在天の祖先たる大国彦の頭から生まれたとされる者の系統は、いかに愚昧であっても人々の上位に立って治者となった。次に神の腹から生まれたとされる者の系統は、準治者の地位をもって安逸な暮らしを保証された。そして両者は、神の足から生まれたとされる大多数の人民の膏血を絞る、という教理であった。婆羅門教が拡大するにつれて、国の中にはひそかに怨みの声が満ち満ちていった。
太玉命が安彦、国彦、道彦を連れて顕恩郷の東南の渡し場にやってきた。そこには関所が設けられ、鳶彦、田加彦、百舌彦の三柱の婆羅門教の手先が守っていた。
道彦は関所の門前で大音声名乗りを上げ、婆羅門教徒たちを挑発した。鳶彦、田加彦、百舌彦の三人は槍をしごいて道彦に襲い掛かった。道彦は槍をよけて一人の槍を叩き落とした。
その槍を拾って構えると、道彦の勢いに恐れをなして、鳶彦は河中に飛び込んで逃げてしまった。残る二人も槍を捨てて降参した。
田加彦と百舌彦は、元は三五教だったが、仕方なく婆羅門教に降っていたのだ、と明かした。そして、逃げた鳶彦が軍勢を引き連れてくるのを恐れて、自分たちを連れてフサの都へ逃げて欲しいと懇願する。
道彦は、力の強い宣伝使と一緒に来ていると言って二人を安心させる。道彦の合図の笛で、太玉命らは関所の方に駆けつける。一方、河の向こう岸からは騒々しい人声が聞こえてきた。