心魂の汚れかつ曲がりたる者を清め直し、善に導くのは神の愛であります。すべての人を偏り見ることがありません。国の内外をとわず、人種の異同を論ぜず、ひとしく愛するのは神の愛であります。
神は善人の顔も照らし悪人の身体もひとしく照らしたまうごとく、いかなる罪穢ふかき人なりとも善人と同じく愛しなされる。これが至仁至愛の神心であります。神は弱き者、小さき者、悪しき者、いかなる罪穢ふかき人なりとも、善人と同じように愛されます。これが至仁至愛の神心であります。
神は弱き者、小さき者、悪しき者、道を知らざる者に、とくに神慮を煩わしたまうのであります。わが身魂の汚れたること、曇れること、卑しきことをみずから覚りえたる者は、もはや神の御国に近づいた人であります。神徳をえたる人はどことなく温順であり、善言美詞は幸いあり、悪言暴語は神徳にはなるるものであります。餓えたる者の食をたずね、渇きたる者の水を求むるごとく、惟神の大道を慕う者は神徳をうくるのはじめであります。おのが天職を知り、仁慈の心おこりて人々を敬愛する者は、すでに神の御恵みにあいたる人であります。
仁愛にも種々あります。富みたる人の貧しき人を憐れみ救うも仁愛であります。強き者の弱き人を助け救うのも仁愛であります。また強き者を憐れまねばならぬ仁愛があり、けだし家富たりとて、力強きとて、誠の大道と、誠の光を知らない者は憐れな者で、かような人々を誠の道に導き救うは、至仁至愛の神の御心にかなえる仁愛であります。神の御子たる人々を憐れみ救うた人は、また天地の大神よりその身を憐れみ救われるのであります。
神に親しみつかうる者は、至幸至福の人であります。神に親しみつかえむと思う者は、神とひとしき正しき心でなければなりません。神の道につくせしために攻撃らるるを歓びとしなさい。正しきことをなすがために悪魔にさまたげられ、攻めらるるを幸いとなさい。真理をとりて進みしために攻めらるることを歓びとなさい。なぜなれば、そは神界より偉大なる力と無限の神憶とを与えられるはじめだからであります。誠の道のためにつくし、正しき教えにしたがいたるがために人これを罵り、あるいは攻めあるいは苦しめ、またはしいて悪様にいいなし、あるいは新聞雑誌などにて攻める者あらば、歓ぴて神明に感謝しなさい。これ神界にては、これに反してかならず良き報いがあるからであります。
(「人類愛善新聞」昭和6年11月3日)